嘉元3年(1305年)
第6話 北条家の権力争い・嘉元の乱の勃発と俺の初陣
さて、年が明けて嘉元3年(1305年)に発生した鎌倉幕府内での権力争いである嘉元の乱が発生した。
大雑把な経緯としてはまず、4月22日、既に執権職は退いていたが実質的な実権を握っていた得宗の北条貞時の屋敷で火災がおこった。
そしてその翌日の23日深夜、貞時の指示で得宗被官、御家人の一団が連署の北条時村の屋敷を襲い時村と家人を殺害した。
しかし、その12日後に大仏宗宣らが得宗家の執事の北条宗方を追討し宗方の屋敷は火をかけられ宗方の多くの家人郎党は死んだ。
実質、時村の誅殺を命じたのは貞時で、時村の誅殺には成功したが、北条庶流の反発は強く、時村を誅殺した実行部隊を処刑してことを収めようとしたわけだ。
貞時の父、北条時宗は二月騒動で同じように謀反を企てたとして、鎌倉の北条氏名越流の名越時章・教時兄弟、京の時宗の異母兄の北条時輔をそれぞれ誅殺することにより、時宗は北条家庶流の有力者をを消して権力を強化できたが、この嘉元の乱では大失敗だったわけだ。
結果としてこの乱の後、貞時は政治を完全に放り出した。
寄合にも評定にも出席しなくなり、霜月騒動で有力御家人の安達泰盛が平頼綱に滅ぼされ、得宗家に政治権力が集中したことで得宗の身内が力を持ちそれにより御内人を増長させ、その為に御家人に反感を買った。
そして貞時が平禅門の乱で恐怖政治をひいた平頼綱を滅ぼして得宗による専制体制は作られたが、嘉元の乱でそれは崩壊し、得宗は将軍同様形式的な地位に祭り上げられる結果となったわけだ、仮に最後の執権北条高時がチートな人間であってそうとう頑張ってもどうにもならなかっただろうな、実権は既に何もなかったんだから。
実質上この乱が鎌倉幕府の滅亡した日だと言っても間違いじゃないんだろう。
・・・
一方、俺は養父である楠木正玄に従って領地が隣接している、八尾別当顕幸との戦いに出陣することになった。
八尾顕幸の所領は河内北部で、河内中部から南部を本拠とする楠木氏とは犬猿の仲だ、少なくとも今の時点ではな、後には共に幕府と戦うわけではあるが、今回もそうなるとは限らないかもしれない。
「叔父上、八尾別当顕幸の手勢は今いかなる状態なのですか?」
現状の俺には偵察兵や諜報員はいないからな。
叔父が持ってる情報が頼りだ。
「いや、あちらも準備をととのえている最中のようだ」
ふむと俺は考える。
ならばとっとと攻めかかるべきかもしれない。
「ならば、敵が準備を整え終わる前に、出来れば明日の朝にでも奇襲を仕掛けましょう。
朝なら、敵も油断しておりましょう」
「ふむ、お前の言うとおりかもしれんな」
お互いの兵数は1000前後、ただでさえ少ない兵を失いたくはない。
そして結果からすればこちらによる奇襲は成功し、八尾別当顕幸はこちらに攻めて来るような余力はなくなった。
今年の所はとりあえず、だけどな。
かと言って攻め滅ぼすような事もできないのが面倒なところだ。
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