煤払い
宵町いつか
第一部「the end of blue」
1-1
鈍色の雲が空を覆い尽くしていた。質量のあるどんよりとした空気をひしひしと感じながら、俺は自室のヒーターをつける。赤い光が地面をしっとりと染めていき、遅れて熱が空気を伝わる。
冬休み七日目。今年が完結するまであと二日。この年末の独特な緩さの保った空気感が俺は好きだった。なにせ、だらだらしてても怒られない。最高じゃないか。怠惰の極みのような事を思いながら、俺は温もりを享受する。両親はリビングでテレビを見ているし、誰もこの時間を侵すことは出来ない。まさに絶対領域だ。小さく欠伸をした瞬間、スマホから着信音が流れた。目の端に溜まった涙を服の袖で拭き、電話を取る。
「もしもし」
「さーくー、一緒に県外いこ」
電話越しから聞こえたのは、聞き覚えのある声。例えるのなら、子犬のような元気な声。抑揚のしっかりついた楽しそうな悩みのなさそうな声。
俺はその声の主のことをよく知っている。きっと誰よりも。
「急にどうした? 」
俺はだらけた声で、幼馴染である
今までの経験から秋が変な事を言い出だすのも、奇行をするのも慣れていたが、今回ばかりは内容が内容なだけに、一言二言で了承できるものではなかった。
「そのまんまの意味。一緒に県外逃亡しようっていう」
うん。意味分らん。
俺は瞬きを繰り返しながら声を紡ぐ。
「すまん、もっとわかりやすく言ってくれないか?しっかりと俺にも理解できる理由を、な」
俺がそう言うと、秋は電話越しに唸った。そして少しの静寂の後、元気よく言った。
「まあいいじゃん。行こ」
俺はため息をつく。
秋の癖だ。何かしら言いたくないことがあったら、とりあえず勢いでごまかそうとする。いつもならごまかされてやるが、今日は違う。今までの秋の変な事といえば、担任の教師にいたずらをしたり、友達の後をつけたり、俺を強制的に海に連れて行ったりしたことだ。これでもほんの一部だ。もちろんいたずら、と言ってもそこまで過激なものじゃなかったし、後をつけたといっても、友達という関係性からくる遊びに近いものだった。俺を海に行かせた件については……未だに許せない。俺の平和な夏休みを壊したのだ。それだけは許せない。まあ、今までその日限定というものが多かったため目を瞑ってきた。ただ、今回はあからさまに違う。県外だぞ。金、どれだけかかると思ってんだ。本当にどれだけ俺の平和を壊そうとしてんだ、こいつは。
「行かない」
俺がきっぱりと断ると、秋は不貞腐れたように言う。
「えーなんで?」
俺はため息をつく。流石に疲れた。これ以上は時間を使いたくない。
「決まってる。いつもとスケールが違う」
「変わんないって」
笑いながら秋は言う。
いつもそうだ。真剣に考えてない。なんとかなるって考えている。
「変わる。まずな、二日間も学生だけで外出ってどうなんだ? それに県外ってどこの県に行く気なんだ? お金もかかるだろ?」
遊びの範疇にしてくれ。旅行とか、そこまでのスケールになると俺はギブアップだ。
秋は「にへへ」、と言った笑い声を漏らす。なかなかに癖が強い。そして演技っぽい。
「そう言われることも想定済みなのだ」
あ、なんか苛つく。
秋の口調に苛立ちを思えながら、耳を傾ける。なにせ珍しい。秋がここまで自信満々で来ることが。
「未満切符、って知ってるかい?」
もちろん知っている。
未満切符というのは十八歳未満、つまり未成年しか買えない切符の名称である。定額制の切符で、月に八千円を払わなければならない。しかし、その分電車はどれだけでも乗り放題、という夢のような切符である。効果は使用者が十八歳になるまで、という制限付きだが、それは子供の夢を体現させたかのような素晴らしいものだ。それを秋は買った、というのだ。
「えへへ。買っちゃった」
笑いながら秋は言う。
「……馬鹿だろ、お前」
買う時期がおかしいだろ……月終わりじゃ行くしかないじゃん。そして何より。
「お前、一月一日に成人するじゃん」
そう。これが何よりも重大。こいつはたった数日のためだけに買ったのだ。八千円を使って。
「あ、もちろん朔の分も買ったから」
えっへん、とわざとらしい声が電話越しに声が聞こえた。何がえっへん、だ。本格的に馬鹿だ。ここまでくるともう手がつけられない。
「本気で言ってるの?」
かすかな望みに手を伸ばす。こいつが嘘をついているという、かすかな希望に。
「ほんとだよ?」
見事に壊された。
玉砕。
散り散りバラバラ。
「ああ……もう、わかったよ」
俺がしかたなく折れると、秋は大声で「やったー」と、叫んだ。よほど嬉しかったのだろう。
「じゃあ、お泊りセット持ってきて正午に駅に集合! 遅れたらぶっ殺す!」
とても元気な声でとても物騒な事を言い、秋は電話を切った。どこまでも勝手なやつだ。
今日何度目かわからないため息をついた。そして気づく。
「あ、旅行の理由、聞くの忘れてた」
もう、些末なことだろうけど。
気分を落ち着かせようとして前髪を触る。もうここまで来たら腹を括るしかない。
もう諦めろ。俺が一番知ってるだろ。あいつの厄介さを。俺は今度こそ諦めて、その場で立ち上がる。
「おしっ」
気合を入れるために声を出す。それも付け焼き刃のやる気を。扉を開け一歩、自室の外に踏み出す。
「つっめた」
あまりの床の冷たさに俺はノックアウトされた。
よし、諦めよう。もうぶっ殺されよう。がんばれ、数時間後の俺。俺は天を仰ぐ。
その時、メールが届いた。差出人は秋だ。
『廊下が冷たいとか、空気が冷たいとか言って逃げるなよ?』
さすが幼馴染。エスパーかな?
改めて幼馴染の恐ろしさを確認したところで、俺は自室から出た。床が異常なほど冷たかった。俺を拒絶していた。床に触れる面積を極力減らしながら、洗面所へ向かう。
十二時に駅に集合だから、十一時半に駅に着くバスに乗らなければならない。だから、余裕を持って十一時は家を出たい。それだと四十分しか猶予がない。ああ、忙しい。
寝癖に
後ろ向きな事を考えつつも、秋の言いなりになってしまうのだから、本当に幼馴染には弱いらしい。いや、反論しても意味がないと諦めているという方が正しいのかもしれない。俺はタオルで顔を拭きながら、そんな事を考えていた。
ついでにリビングにいた親に「秋と旅行に行ってくる」と伝えた。親は呑気に「楽しんでー」と言った。子供に興味ないのか。多少は心配してくれ。
自室に戻り、黒色のリュックサックをタンスから取り出す。最低限、人に見られても良い服装をその中に詰める。とりあえず明日の分と寝間着で十分だろう。
多少手惑いながらも、とりあえず準備は出来た。
藍色のチェスターコートを羽織り、スマホと財布を手に持つ。バイト代が残ってたはずだから、金銭面ではなんとかなるだろう。
俺はコートのポケットに、財布とスマホをねじ込み、リュックを肩から提げて玄関に向かった。
玄関で靴を履いていると母親が眠たそうな顔して言った。
「楽しんできてねー。あと秋ちゃんによろしく」
俺はため息をついて言った。
「多分、明日の夜には帰ってこれると思う」
すると母親は笑い声を零した。
「あらまあ。お泊まり、ねぇ」
言ってなかったか。
にやりと唇を弧にして、母親は声を上げた。
「お父さーん」
呼ばれた父親は顔をちらりと見せ、ニヤリと笑い、言う。
「男、見せろよ」
的はずれなことを。どうやら父親も母親もなにか大きな勘違いをしているらしい。
思春期だからといって何でもかんでも色恋沙汰に関連させないでいただきたいものだ。
俺は顔をしかめながら、立ち上がる。
「まあ、とりあえず行ってきます」
そう言って、振り返らずに家を出た。出るときに親からの「頑張ってー」と「勇気出せよ」というズレた応援を無視しながら、俺は逃げるようにしてバス停に向かった。
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