序章 『竜の顕現』
あの日、たった一匹の魔物が、大勢の運命を変えた。
風はからっとしていて、青空にはヴェールのように透き通る雲がかかっている。
そんな見事な秋晴れの中で、まだ十二歳になったばかりの少女が、姉と兄と共に街歩きを楽しんでいた。
そのとき、大空が急に真っ黒に染まり、夜になった。
鳥が一斉に羽ばたき、馬が鳴き声を上げて暴れるが、人間は不穏な気配を感じることはできても、この場から走り出そうとはしなかった。
あまつさえ周囲にいた人たちはなにごともなかったかのように、指輪をつけた指を一振りして、箱馬車のランプやレストランのテラス席の蝋燭に火を灯していった。
――どうせどこかの研究者が魔法の実験に失敗したんだろう?
――今回も派手にやったわね。
この世界の生活には古から魔法が紐づいているため、こういうことが多々あるのかもしれない。
少女は空を見上げ、あることに気づいた。大空に広がる夜の帳は、風によってあおられ、端が黒い霧のようにちりちりと揺らめいたのだ。
(あれは……瘴気?)
瘴気とは魔物が人を攻撃するときにまとう黒い霧であり、ひとたび吸い込むと呼吸が苦しくなるほどの毒である。だが太陽を遮るほどのおびただしい量の瘴気は見たことがない。
やがて瘴気の中から、最大級の魔物が姿を現す。
岩すら簡単に砕いてしまう鉤爪と角に、炎をものともしない銀色のうろこに覆われた皮膚。街の時計塔と同じ大きさの胴体に、風の向きさえ変えてしまうほどの強靭な羽。
そして金色の目と、額の埋め込まれた黒い石。
竜が顕現したのだ。
────────────……
人の聴力では聞き取れないほどの轟音と、建物を吹き飛ばすほどの熱風が街を襲った。竜が
気づいたら少女は地面に倒れていた。何度か瞬きをして、生きていることを確認してからゆっくりと起き上がる。
「――」
絶句する。街が燃えていたのだ。周囲に姉と兄の姿が見当たらない。
「二人ともどこなの……ごほっごほ!」
砂煙が口の中に入り、息苦しさに涙が出てくる。
(逃げなきゃ……)
もしも危機的な状況で一人になったときはなにがなんでも逃げなさい、と家族に言われていた。姉と兄のことが心配だったが、少女はこの場から走り出す。
炎が街を飲み込んで咀嚼していくような音と、誰かの叫び声が聞こえた。さらに熱風によって肌がひりひりと痛む。
(大丈夫、大丈夫、絶対に助かるから)
石畳に模様を描いて流れる砂塵に足を取られながら進んでいると、目の前に影があらわれた。
「え?」
「あ?」
ゴンッと額に衝撃が走る。気づくと誰かの胸板にぶつかっていた。
「……! ぶつかってごめんなさい」
「いや、こちらこそ悪かった」
見上げると、そこには銀髪の少年がいた。互いに目を見開いて、三秒後。
「子ども?」
「お前も子どもだろう。さっさと逃げろよ」
「はあ⁉ こっちの台詞なんですけど!」
少年の声に少女は喧嘩腰に返す。なんなんだこの失礼な子どもは、と思っていると、風向きが変わった。頭上を竜が通り抜け、咆哮を上げた。
その後ろを箒に乗った人たちが必死に追う。
「また
「白魔導士と黒魔導士は最上級の『盾の魔法』を発動させろ!」
「急げ! 怪我人はこっちだ!」
たまたまこの場に居合わせた魔法騎士や魔導士だけでなく、箒乗りのスポーツ選手まで竜に立ち向かっていたのだ。黒魔導士の見習いらしき人もいたが、年齢や経歴なんて関係ない。戦わなければ竜には勝てなかった。
人々は崩れゆく街を駆け、空を飛び続ける竜に魔法を浴びせた。しかし、強靭な羽から生み出される熱風がいとも簡単に魔法を無力化し、箒に乗った者が近づこうとすると、巨大な体からは想像できないほど軽やかな身のこなしですり抜けていった。
やがて竜が上空で動きを止め、わずかに背を逸らした。あれが
金の目は、真下にいた魔法騎士たちを見据えていた。
(だめ、だめだめだめ!)
そこには、少女の姉と兄がいた。
次の瞬間、
と思いきや、これまででもっとも大きい『盾の魔法』が雪の結晶より複雑な模様を刻んで発動された。
「光と氷の大精霊ルキスアクエアよ、我らを守りたまえ『
宮廷白魔導士が到着したのだ。彼女は純白のローブをたなびかせ、少女の背丈ほどある杖を片手に、次々と周囲にいる人を守っていく。
さらに宮廷魔物討伐隊も到着して反撃をしはじめるが、まだ足りない。
竜を倒すことができなくても、せめて退けるためには、あと一手が必要だった。
◆
「ねえ、なにをしているの?」
少女は隣に立つ少年に声をかける。彼は腰のベルトから短剣を取り出していた。
「これなら竜に勝てるかもしれない」
そういって彼は鞘から剣を引き抜く。玉鋼とは違い、鏡のようになにもかも鮮明に映し出すほど澄んだ銀色の刃は、竜のうろこみたいだ。
「危険だよ! いかないで!」
「子どもだろうと竜の前では関係ない。ここでやらなきゃ誰がやるんだ!」
少女の制止を聞かず、彼はそのまま竜を見上げて、足を踏み出す。
(――わたしには力がない)
少女は彼の後ろ姿を見送ることしかできなかった。もう歩く気力すら残っていなかったからだ。
(でも、それでも)
なにか力になりたかった。
死なないで、という思いを込めて、彼の背中に触れて、押す。
指先から彼が遠ざかり、視界がぼやける。だけど結末だけは見届けなければ。
やがて、銀色の光が竜の右目の上で輝いた。
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