第35話  前夜4

 先ほどまで笑いをこらえるのに必死だった元子もさすがに神妙に事の成り行きを見つめていた。帯刀も居心地の悪さを必死に隠し憮然とした顔で座っていた。

その居心地の悪さを突然に打ち破る物があった。乱暴にふすまを開け、どたどたと足音を立てて子供が入ってきたのだ。

「お父様、お姉様、お帰りなさい」

子供は屈託のない笑顔を浮かべて隆俊と元子に帰宅の挨拶をした。そして真風と帯刀を振り向き「ようこそいらっしゃいまし」と良くしつけられた子供だけができる挨拶をしてのけた。

「あら、たかまる君、きちんと挨拶できましたね、偉いわね」

元子は子供の頭をなでつつ口にした名前は真風が自分の子につけた名前のそれだった。

「たかまる君は偉いからあっちにいるお姉さんが遊んでくれるって」

元子は子供を真風の方に押しやった。

子供は真風の前まで来るとにこっと笑って

「お姉さん、遊んでください」

とぺこりと頭を下げた。

この時真風の心の中は様々な思いが駆け巡っていた。

妊娠していることを知った時の衝撃、陣痛の苦しさ、産んだ子を手に取った時の喜び、子を手放そうと決意した時の苦しさ、冷泉院家の女中に手紙とともに子を渡した朝の寒さ。

子供は真風に右手を差し出した。その気になれば握りつぶせてしまうほど小さなその手に真風はそっと両手を添えた。何人もの命を奪ったその手で真風は命を握った。一度は手放した命を再び手に入れていた。

立ちあがった元子がふすまを開け笑顔を浮かべながら真風と子供に外に出るように促した。

「お父さんとお姉さんは大事なお話があるから、そのお姉さんとゆっくり遊んでいらっしゃい」

元子の渾身の気遣いだった。

真風はぺこりと会釈だけを返したが、誰の目にも精一杯の感謝の念がこもっていることは明かだった。

元子は二人を見送りふすまを閉めると、そっと目尻を拭いた。

「私も子供が欲しくなりましたわ」

何かをはき出した時の爽快なすっきりとした笑顔を浮かべ元子は席に戻った。

「さあ、食事にしましょうか」

そして二回手叩きをすると、先ほどの給仕が現れその後に食事を運んだ女中が続いた。

「お一方の分はたかまる様と一緒にご用意いたしますね」

と給仕は元子に一言告げると真風のために用意されていたシルバーを下げた。

「ではいただきましょうか」

各自の前に並べられた食事を前にうれしそうに元子は微笑んだ。

給仕が再び部屋を訪れ、各自の前に置かれたグラスに酒を注ぎ始めた。

「シャブリグランクリュでございます」

帯刀は給仕の言葉を理解できなかった。酒の名前だろうとは思ったがどう返事したらわからず、グラスに注がれるままにされた。

「ワインが旨い酒だというのはわかるが、同じような名前ばかりで分けがわからない。どうやって区別してるんだ?」

ワインを一口口に含み素直な感想を述べると元子が切って返した。

「私には刀が全部同じに見えます。それと同じ事ですよ」

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