第34話 前夜3
冷泉院家は二条城を思わせる書院造りの母屋を中心に複数の建造物で構成されていた。
正門を自動車で侵入することはできたが、しばらく進むとさらに門が現れ、そこからは歩かなければならなかった。冷泉院家の本宅は二重の塀に囲まれる特殊な構造にあった。
さらには外側の門は塀で囲まれ、その周囲には堀があり屋敷全体をぐるりと囲んでいた。戦国時代の平城のような造りだった。建造物の一つ一つは日本の建築様式を踏襲していたが、全体を見ればその建築様式は非常にちぐはぐで、完成された美しさという物とは、かけ離れていた。様式美よりも合理性を優先している、そういう印象を受ける構造だった。
屋敷に向かって歩く二人を迎えたのは元子だった。
元子は洋装を纏いうっすらと化粧をしていた。日本人形のようにこじんまりとした目鼻に薄さを感じさせるその皮膚にぴたりと合う化粧だった。その顔がほころび
「あきれたでしょう?この見事なまでの無秩序な建築物。兄の趣味なんです。思いついたままに設計し思いつくままに建築して思いつくままに改築する、本人は研究のためだとか言ってますけど、ただの趣味です。それも悪のつくほうの」
と言ってケラケラと笑った。
二人は寝殿造りの平安時代の宮廷を思わせる屋敷に通された。館の周りをぐるりと取り巻く縁側を歩き、一室に通された。畳敷きの部屋には西洋風のテーブルとイスが用意されていた。ふすまが閉められた室内に月明かりが障子を透かして調度を照らす。
調度の一つ一つが月明かりを反射し、その反射した光が、さらに別の調度品に反射され、複雑な光の光線が室内に飛び交った。まるで宝石箱にいるような気持ちになった。
偶然ではなく、こういう趣向を施されている部屋のようだった。
ふすまの外、縁側を歩く音がする。しばらくすると、ふすまの開く音とともに月明かり星明かりが室内に充満した。その光を遮り給仕がやってきた。
老女ではないが年配の女性給仕がテーブルにシルバーを並べる。箸も一緒に並べていく。
シルバーを並べ終わった給仕は部屋を出る間際に人なつこい笑顔を浮かべた。
レストランでは儀礼的になりがちな笑顔をこの給仕はごく自然な、作り物ではない人柄から来る笑顔を浮かべた。その笑顔は緊張していた真風を幾分かリラックスさせた。
だがそれは一瞬だった。給仕が去ったそのすぐ後に元子が入室した。
そして冷泉院家当主隆俊が現れた。その姿を見た真風は息をするのを忘れた。
そして真風の姿を認めた隆俊は時間を止めた。
呼吸どころか瞬きすら忘れ、真風の姿に見入った。
「お兄様、早く座ったら」
元子はいたずらな笑顔を浮かべた。その元子の声で隆俊はようやく我に返った。
「ああっ」
と一言だけ口に出し椅子に座った。その際にも視線は真風から離れずにいた。
その様子を見て元子は相変わらず笑っている。
帯刀は二人の成り行きを聞き知ってはいたが、この空気にはいたたまれなかった。
挟むべき言葉も持たぬまま場に流れる沈黙に耐えるしかなかった。
最初に口を開いたのは隆俊だった。
「なぜ僕の前から姿を消したのです?そして突然に僕の子供だという赤子が現れる。一体何が起きたのか僕には全く訳がわからなかった。そして突然の再会だ。元子、どういうことか説明しろ」
元子の笑みはさらに大きくなった。おかしくてしょうが無いのに、笑いをこらえるのに必死の形相だった。
「お兄様、それは直接真風さんに聞いてくださいまし。私に聞いても何もお答えできませんわ。それに私に話を振るなんて逃げですわ、逃げ。真風さんときちんと向かい合ってくださいましな」
隆俊は図星をつかれて一瞬いやな顔を浮かべた。
「では、真風さん、あらためて聞く。なぜ消えた」
真風が返答するのに数分を要した。その間真風は下を向き唇を噛むように思案しているように見えた。
「私は」
最初の一言を発してから次の言葉を発するまでにさらに一分経過した。
「怖かったのです。私は今まで多くの人を欺き、時には殺めもしました。そんな私が人並みの生活を手に入れて良いのかと。幸せを掴んでしまっても良いのかと。そして、子供には罪はない。子供には人並みの人生を歩んでもらっても良いのではないか、そうも思ったのです。三百年続いたといっても所詮忍びなど裏家業。お日様に堂々と顔向けできるわけでなし。そして、この時代いつ滅びてもおかしくない職業。ですから、私はあの子を隆俊様、あなたに預けることを決断したのです。ご迷惑をおかけしたことはお詫びします。
ですが、どうかあの子は人並みの人生を歩ませて欲しい。私のような、ひとでなしの人生を歩かせないで欲しいのです」
最後の言葉を告げる時には真風はしっかりと隆俊の顔を見つめていた。
隆俊もまた真風の言葉を、真風の視線をしっかりとした瞳で受け止めた。そして彼もまた真風への返答に数分の時間を要した。
「子供はもちろんきちんと育てる。誰よりも人間味のある、強さも優しさもある人間に育てる。だが、それには足りない物がある」
真風は首をかしげた。
「足りない物?」
隆俊はたたみかけるように続けた。
「母親だよ。つまりあなただ、真風さん」
「ですが、私は。私は人の親にはなれません、資格がありません」
「うん、そうかもしれない。確かにあなたは人として許されないことをしてきたかもしれない。だがね、それは業だよ。人間ならば多かれ少なかれ業を背負って生きている。あなたはそれが少し他の人より大きいだけに過ぎない。あなたにはこの後の人生、その業の大きさを生かし生きてもらいたいな」
真風が犯した罪、全てを許す言葉だった。
真風の瞳から熱い物が流れ落ちた。
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