人型重機リーゼンパンツァー 戦後編 Kampf Riesen Mars Nachkriegszei

雪風摩耶

第1話 プロローグ 月

月。

時に黄金色に、時に蒼く、時に紅く輝く月。

地球という惑星にとってその体積の実に1/3という異常な大きさ故に人工物ではないか、という妄想が幾多の作家によって形にされてきた衛星である。しかし、万が一にも月が消滅したとすれば、地球に多大な影響が現れることは自明であり、その一点だけ取っても月が人工物では無いことは明らかだった。人工物であるならば、主星に負の影響を与え持つことが出来るのである。

仮に月が消滅したとすれば、先ず潮汐が失われる。潮汐がその食欲に影響を与えるメカニズムを持つ沿岸付近に生息する魚類は当然全滅し 、その影響は次第に海全体に広がってゆく。沿岸付近の魚類を補食対象としていた生物はやがて死に絶え、その生物を海洋資源とした人間も食料の一選択肢を失うことになる。すなわち生物の大絶滅時代の始まりである。月の消滅、それは地球に済む現存生物の絶滅、あるいは月がなくとも命を繋ぐ術を持つ新たな生物の創造を意味するのかもしれなかった。だが、そのことに人々は気付かずにいた。科学は未だ「月」というものの正体を知らずにいた。そして月に隠された真実に気付かずにいた。唯一知り得たのは「石切場の賢人」であった。そこにこそ彼らの行動の意味があった。逆を言えば「月」の存在こそが石切場の賢人の行動を決めているのだった。

月の明かりが海を照らし、海からの反射光を浴びる大きな廃墟があった。小田原城である。その小田原城の石積みの上に一人の人間が立っていた。月の逆行のためにその姿ははっきりとはしなかったが、女性のようにほっそりとした肢体に子供を抱いているように見えた。冬の夜風は周囲の木々を震え上がらせるように揺らし、夜行性の生物もその夜気を逃れるように隠れているように静かな気配だった。その静けさを楽しむように女らしき人物はいつまでも月を眺めていた。

「お屋形様」

声を掛ける物があった。月明かりの元、一見その容姿は老齢で七十に近い年に見える、数多の経験と幾多の試練を乗り越えた険しい顔つきをしていた。声を掛けられた女性らしき人物は声を掛けた男を振り返った。逆行で見えなかった顔に光が当たりようやく見えた姿は黒葉真風であった。戦後から数年、すくすくと成長をする我が子を抱き真風は日本へ帰国し、本拠である小田原へその身を置いていた。その真風に声を掛けたのは彼女たちの組織の身分制度では下忍と呼ばれる下位の構成員であった。

大東亜戦争における日本の敗北は、アメリカ合衆国の日本占領に伴うアメリカ型民主主義の浸透によって日本社会に大きな変革をもたらしていた。その最たる物が「過度の平等意識」であり、強固な上下関係で構築されていた真風の所属する組織にも極めて大きな、甚大と行って良いほどの影響をもたらした。すなわち構成員の組織離脱。真風の組織の言葉で言うなら「抜け忍」であった。その状況下において老人は数少ない残留組であった。

「お屋形様、いくら眺めても月は救いをお与えにはなりませんぞ。無慈悲なだけでございます。若のお体にも障りましょう。そろそろお戻りを」

黒葉真風は静かにうなずくと、建物のうちに戻った。「月は無慈悲か。上手いことを言う。あの月の情報を知れば、その表現も当然か」真風は以前に受けた老人からの報告を思い出していた。

かつて、彼らの組織には様々な諜報の依頼が舞い込んでいた。「石切場の賢人」はもとより、彼らに敵対する「百目」果ては日本政府やアメリカ合衆国からの依頼すら合った。

宗教、政治、信条によらず依頼を受け、これをこなす、それが彼らの生業だった。「しのび」そう発音する諜報活動を請け負うことが彼ら風魔と呼ばれた組織の先祖代々受け継がれてきた生業だったのである。それが、第二次世界大戦の終結とともに仕事は激減し、なおかつアメリカの日本占領による民主化のあおりを受け、構成員は組織から堰を切るように抜け落ちていった。戦国時代より長く続いた諜報を生業とする職能集団の滅びの時であった。その滅びを真風はやむを得ないことと割り切れていた。時代の流れだと言うことを、任務で世界を見て回った真風には当然のことと受け止めるだけの意識ができあがっていたのだ。

真風の父親が亡くなったのは彼女が帰国してすぐのことである。組織の頭首であった彼女の父の突然の死は真風を頭首にならざるをえない状況に追い込んでいった。

頭首になれば当然権力とともに構成員からの情報も集中する。その情報の一つに「月」に関する物があった。それが数少ない組織に残ったこの老齢の下忍からの物だったのである。

構成員が集めてきた情報を集約すること、それは自らの身を守るためには必要なことだった。それは情報を横流しするためではなく、万が一雇い主に裏切られたときに保険として押さえておく必要があるからである。その情報を解析していけば、世界で何が起きているか、真風は推測することが出来た。表面上はともかく世界各国の対立はさらに根深くなり、真風がユーラシア、アフリカ両大陸で見聞体験した未知の敵との戦争がまだまだ続くことは簡単に読めた。人間同士の戦いに敗れた日本が、アメリカの占領下にある今、政治は当面困難な状況に置かれるのはわかりきったことではあり、そこに仕事が生まれるであろう事は期待できたが人数の減った組織にそれをこなすだけの力は残されていないだろう事は真風にはわかっていたし、居残った構成員も気付いていることではあった。その食べるための術を失ったと言うことは分かっていても居残った物たちを縛っているのは古くからある掟であり、真風に止められなければ抜けていった者たちを始末しにいっていたことだろう。そういう様々な状況を考慮し真風はある決断を下した。

真風が石切場の賢人の任務を果たし、冷泉院隆俊の元を離れて数年、そろそろ腕に抱く子を父親に合わせても良い頃合いかと考えていた。それがこの子の将来を考えた場合、そして一族の今後を考えれば最善の策と思われた。

彼の家の財力、企業の規模があれば、構成員の働き場所も作れるはずである。そしてその対価は組織の構成員の実力そのものである。企業スパイの活躍が予想される今、財閥にとってはのどから手が出るほど欲しい極めて有効な戦力のはずであった。

隆俊と真風が男女の関係になったのは一度きりのことだった。真風が隆俊の元を離れる最後の夜のことである。諜報が仕事の彼女にとってそれは情報を得るための手段として日常的に行っていたことではあったが、すでに任務達成した後で、必要もない行為であったにもかかわらず、行為に至ったのはなぜか、それは真風本人にも分かってはいなかった。強いて言えば「きまぐれ」と言うことになるだろうが、そのただ一度の行為でできた子供を堕胎することを真風は良しとしなかった。それはおそらく真風の中の心の変化がそうさせたのだろうが、堕ろさないと決断したことに真風自身驚きを覚えていた。そして構成員の今後のことを考えるなど今までにはなかったことである。そういう自身の変化にも彼女は驚いていた。これが組織の上に立つことか、そういう意識も生まれていた。だからこそ、隆俊の元へ向かう。子供を部下を守るという責任を果たすために。

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