第5話 ちゃんとスキ
春田さんが私を「見る」ようになって早一カ月。
私はすっかりアイドル気分で、彼女に熱視線を送られるたびに浮わついた気持ちになっていた。
やっていることは相変わらず、朝あいさつして教室まで歩いて、昼ご飯を屋上で食べて、帰りに駅まで送ってもらうだけ。
でも、それだけのこととは言えないほど、私の中で大きな変化があった。
注目されてるということから来る「自信」の芽生えだと思う。たぶん。
小さい頃は胸を張って歩いていたはずなのに、周りからの圧力にどんどん背中が丸まって、俯いて、眼鏡の上から前髪までかぶせて、私は外界との間に何重もの壁をこしらえていた。
目立つのが大好きなくせに打たれ弱い、ふ菓子の杭みたいな私の心は、出過ぎて打たれて見る影もなかった。
ついこの間までは。
今は違う。
春田さんがいる。
彼女が私を見てる、私だけを見てる。
彼女が後ろを歩いていると思うだけで、顔を上げていられる。
彼女が見てると思うだけで心も体も軽やかだった。
嫌な連中を無視して、仲良くしたかったクラスメイトに明るく話かけることもできた。
数日の間にクラスで話のできる人が一人二人と増えていって、朝、駅で会った級友と話しながら登校したり、教室移動もみんなでわいわいできるようになった。
あいかわらずあのグループから嫌な声は漏れ聞こえるけれど、なんとか抜け出すことができたようだった。
おかげで放課後は、新たな友人たちと寄り道したり、教室で無駄話するのが普通になっていた。
ほん少しのことで世界が一変する。
いじめが始まるのも一瞬なら、終わるもの一瞬だった。
そして、いつの間にか春田さんとの蜜月は薄れていた。
この一週間なんて、彼女がちゃんと自分を見てくれているか探すこともしなくなっていた。
それでも昼休みだけは、約束しなくても、二人であの秘密の花園に隠れてた。
それなのに、今、春田さんは、私を迎えに来てくれない。
秘密の花園へは秘密の道を通っていくのに。彼女が案内してくれないと、そこへは行くことができないのに。
第二視聴覚室の前でぼんやり五分待って、窓の外を眺めてさらに五分。
帰ろうかな、と思っても、今階段を上がってくるんじゃないか、あと一分待ったら来るんじゃないかと思って動けなかった。
あと一分待ったら、あと一分待ったら。
そうやって廊下に座り込んでいるうちにチャイムが鳴って、私は自分が泣いてるのに気がついた。
クラスのみんなと楽しく過ごすことに憧れていたのに、それが手に入ったら、そんなものどうでもよかったんだってわかってしまった。
私が欲しかったのは、たった一人の絶対の味方。
私を嫌いにならない、絶対の安心。
春田さん。
何の気も使わなくてもいい。
何を言っても何をやっても私を見放したりしない。
勝手にそう思ってた。
違うよ。
彼女だって人だもの。
私が振り返らなきゃ、どこかへ行っちゃうよ。
出会った日の、別れの駅を思い出す。
改札の向こうで、所在なさげに立ち尽くす彼女の儚くて美しい輝き。
私に背を向けて去っていくのを、本当は走って行って抱きしめたかった。
たった数日で世界は変わる。
たった数分でなにもかも。
一人でいたときより、ずっと寂しい。
春田さんがいなくなってしまったことが、おかしくなりそうなほど苦しい。
授業の始まった校舎は静かで、すぐ横で開いた扉の音をひどく大きく感じた。
見上げれば、そこにいたのは春田さんだった。彼女は目を瞬かせて、何か言いた気に口がうっすら開いて、閉じた。
息がうまく出来なくてしゃくり上げながら立ち上がる私に、彼女が手を差し伸べる。
私は何も考えずに彼女に飛びついていた。
春田さんは、すごく柔らかくて温かかった。
顔を埋めた首筋から、甘い香りがする。
「ごめん、私……」
ここしばらくの私の態度を謝りたかったのに、言葉がうまく出てこない。
急に抱きつかれて驚いたのか、棒立ちだった春田さんが背中に手を回して、ぎゅっと抱き返してくれた。
人に触れるのがこんなに気持ちいいものだなんて思わなかった。
彼女は少し身じろぎして、私の耳に口を寄せる。
「寝ちゃってて……起きたら外にいて、泣いてるの初めて見たから、見入っちゃって。ドア開けられなくて、ごめん……」
寂しそうな声。支えてくれる力強い腕。
私の方が悪いのに、謝られてまた涙があふれた。
私が立っていられなくなって、二人して、そのままずるずると廊下に座り込む。
「私の方が、ごめん、ごめんね……」
「何で謝ってるの?」
「だって、私、春田さんのこと、ほったらかしで」
「……ずっとそうだったじゃない」
「でも……」
「気持ちが、変わっちゃったってこと?」
彼女の質問の意図はわからなかったけれど、私の気持ちは確かに変わった。
今日この瞬間、はっきりと。
だから、怖いけど正直にうなづいた。
「わたしのこと、嫌いになっちゃった?」
顔を上げて、視線を合わせる。
悲しそうに見える。
「違うの。そうじゃなくて……、私ずっと、あなたのこと大好きだったのに、自分でわかんなかったの」
春田さんは私の肩を持って、目一杯腕を伸ばして体を引き離した。
綺麗な目を丸く見開いて、口も空いてて、心底驚いてる顔だった。こっちが驚くくらい、わかりやすい表情だった。
「好きって気づいたの。私、春田さんが好き……。ごめん、気持ち悪いよね……」
一生懸命話すけど、声が裏返ってかっこわるい。
全然素敵な告白のシーンじゃない。
春田さんはみるみるいつもの無表情に戻っていった。
そして、見つめ合う数秒。
いつもより深く、奥までじっと見られてる。
なんだか怖くて、私はまた泣き出しそうだった。
「わたしも好き」
彼女は微笑んで、そして私を強く抱きしめた。
あまりにもあっさり。
突き抜けるほどはっきり。
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