第11話 鏡の向こうの異変
子供たちと連れ立って、すばるは体育館のフロアへともどった。
となりのダンス部の練習も、やっと全体練習は終わったようだった。
それでも、スポーツミラーというのか、キャスターが付いた大きな移動式の姿見の前に数人がしつこく陣取って動きの確認を続けていたけれど、1年生と思われる部員たちはそれぞれが掃除道具を持ちより、片付けをはじめていた。
グループごとに分かれ、小鳥が鳴き交わすようにさざめきながらフロアをモップで拭いてゆく。表情はリラックスして、ときどき甲高い笑い声もあがる。剣道教室の小学生らに比べ、はるかに大人びて見えた部員たちも、当たり前の中学生に戻っていた。
横目ですばるを見つつ、クスクス腕や肩をつつき合うグループもいた。どうせロクな話ではあるまい。だが、本日のところは勘弁することにして満面の笑顔を向けたら、そろってギョッとした顔になった。今は懸命に明後日の方角を見ている。ふん。
それより問題は、肝心の赤岩先生がいないことだ。
いったんは体育館フロアに姿を見せていたのに、またすぐにいなくなった。生徒たちを残して帰っちゃったのだろうか。
となると、七瀬はどうするのだろう。どこへいったのだろう。
吉村妻 –––– すばるにとっては晶子先輩 –––– が、道場生を集めて後半の稽古について説明している。その間にすばるは、子供たちの周囲をゆっくり巡りながらときどき「なっちゃん、どこ」とささやいてみる。応答なし。
(どうしたんだろ)
これまで常に身近にあった姉の気配が、休憩から戻って以降、どうしたことか薄れたように感じる。気になるのはそのせいもあった。
「Wi-Fiの電波状態でも悪い?」と、冗談をつぶやいたが反応はゼロ。赤岩先生にくっついて、どこか遠くへ行ってしまったのだろうか。
勝手にどこかへ行ってしまうのは、七瀬ではなく幼いすばるの得意技だった。姉妹で外出するとよく一人だけ迷子になった。すると、決まってムッツリした顔の七瀬が探しにきてくれた。ほかの二人の姉は基本、末妹を放置だったのに七瀬だけは違った。妙に面倒見の良いところのある少女だった。果南への態度も、根は同じだと思う。
(今度は私が探す番かな)不安になって、そんなことを考えたりした。
ちょうど、吉村夫が近くにきたので、
「あのー」と、まず赤岩先生が帰宅したのかを聞いてみた。
「ダンス部の先生?たぶんまだいると思うよ。でもなんで?」
「ここの学校とか、顧問っていっつも最後まで残るのかなーと思って。毎日だと大変ですよね。ウチの学校とは違うなあ」などと適当にごまかそうとすると、いきなり彼の表情が輝いた
「もしかして真星さん、教職を目指してる?」
「考えたりはしますけど…まだ…」
だが吉村は一方的にうなずくと、
「うん、体育教師とか似合うし気にするのは当然だよね。集団スポーツの顧問って負担の大きさは議論のあるところだけど、やりがいも大きいから。それに、公務員だと家借りたりするときやっぱ強くて、選択肢としては悪くない。がんばってみる価値はある」
「はあ…」
急に多弁になった吉村によると、赤岩先生の退出するタイミングは日によって違うが、かならず剣道教室側に会釈してくれるのでちゃんとわかるのだという。
「それにあの先生、いつもきちんと着替えて帰る。体育教師らしからぬおしゃれをしてね。ここで会う先生がたの中だと一番変身の度合いが大きくてセンスがいいかな。他はやぼったい人が多いよね、やっぱり」
「よ、よく見てますね」
「ジャージ姿と通勤着のギャップが萌えるんだよね。あ、うちの奥さんのギャップもイケてる。あのひとはコンサバどころかパンクだけども」
「晶子さんの着てる死神みたいな絵のTシャツ、あれってパンクなんですか」
「デスメタルとの差異を語るには歴史から説明しないとな…おっ、先生が再臨したぞ」
無事に赤岩先生は戻ってきた。
なるほど、ふたたびフロアに登場した彼女の服装は一変していた。
先日のコーヒー店でのスタイルともまた雰囲気が違い、沈んだ赤のニットが良く似合う。肩からトートバッグを下げているのは、職員室には寄らずに帰りますということだろうか。その黒い革のバッグは、まだ新品にも見えた。
(あら、おしゃれ)(お母さんの誕生日には予算オーバーかな)
そんなことを思ったすばるだったが、どうしてだかバックから視線が外せなくなった。正しくはバッグの肩紐の付け根あたり。大きなマスコットか何かが結えつけられているのが、大人びた装いとは不釣り合いに感じる。
(なんだろ。お守り?生徒からのプレゼントかな)
こんな些事がどうして気になるのか、自分でもよくわからなかった。
剣道教室では、面をつけての対練がはじまった。すばるも面をかぶって子供たちの相手をした。こうなるとダンス部のウオッチは難しい。
ただ、潮が引くようにダンス部員たちはフロアから去って行った。赤岩先生は上級生らしき数名と出入り口近くに立って、退出する部員らと挨拶を交わしている。ちゃんと見送るんだな、と少し感心した。
面越しに見た赤岩先生の表情はにこやかだった。多少笑顔がかたい気もしたが考えすぎだろう。
彼女が先ほど、誰かと電話で激しく口論したのは間違いない。切れ切れに聞こえた内容から、相手は岩崎教頭かなという気もする。あるいは夫。その動揺が顔に出ているのではないかと期待したのだが、
–––– 外からじゃぜんぜんわからん。
と、いうのが結論だった。女子高生とはツラの皮の厚さが違いすぎる。
「おまたせしました。今週のハイライト」吉村夫がにこやかに宣言した。
吉村夫妻はすばるを徹底的に利用するつもりらしかった。
切り返し、打ち込みがひと段落したあと、おもむろにタイマーを取り出すと小学生たちをすばるの前に整列させた。そして一人ひとりが順にすばるにかかって行くよう指示した。
フリー攻撃をさばくのは骨折りだが、時間はごく短いし子供たちも張り切っているし、「すばるちゃんにだっていい稽古になるよね」というのが万事、ポジティブ思考の吉村晶子先輩のお言葉だった。
この時間になると、大人の部の道場生も一部がフロアに姿を見せていた。だがその連中も、噂のすばるの動きを熱心に見つめるだけで、交代する気はなさそうだった。(手伝ってよー)と、内心悲鳴をあげつつ、表面上は平静に小学生の相手を続けた。
なお、赤岩先生は残った3、4人の部員と談笑している。
すばるの目の前に、先ほどの大槻少年が立った。再来月、よその道場との交流試合に挑む予定だそうで、念入りに指導してやってくれと吉村夫からの依頼があった。
「落ち着いて、よく相手を見るんだよ」と、吉村妻が大槻に声をかける。
「はい」
大槻少年は大声をあげつつ果敢に攻めてきた。が、肩に力が入りすぎているのか動きがかたい。すばるがわざと与えた隙にもうまく乗じることができなかった。歳相応ともいえるが、広い世の中には小学生でも油断できないほどの技巧者がいるのは知っている。
–––– そろそろかな。
反撃しようとしたその瞬間、すばるの脳裏に「クルマ」という言葉と外の駐車場らしきイメージが浮かんだ。思わず息をのんだ。
さらに伝わってきた意識は「そこにいて」「待ってて」と訴えた。すばるの出足がとまった。
すかさず、大槻少年が一撃した。
「ああっ、やられた」すばるは大袈裟にのけぞった。「いいな、その調子」
褒められたのだとわかると、大槻はぴょんぴょんとその場でステップして喜びを表現した。彼にうなずきながら、
「なっちゃん、車に行くってこと?私は待機しておけって?」
ささやいたが返事はない。
もしや非常事態かも。すばるは忙しく状況について思案した。
さっきの呼びかけは、七瀬がこちらの思惟へ直接働きかけてきていた。彼女がふだん避けているこの方法をあえて採ったのは、よほどの理由があるのかも知れない。
一方、「クルマ」は場所変更を意味していた。「トイレの鏡作戦」が不首尾の場合、赤岩先生の愛車を出現場所とするのは当初の想定にあった。ただ、七瀬自身に経験がなく、リスクも読めないので後ろ向きだったたけだ。
さいわい、赤岩先生の駐車場所は体育館の裏だった。距離も近く、すばるがあわてて移動する必要はないはず。
–––– とりあえず、ここで待つか…。
あせっても仕方ない。すばるはそう自分に言い聞かせた。
汗まみれになって二十数人の相手を終えると、小休止になった。
やっと視線をモダンダンス部へと移すと、もはや誰もいなかった。移動式大型ミラーの前にいた熱心な部員たちもついに帰ったようで、ミラーはフロアの端に寄せてあった。
赤岩先生もいなかった。素敵なトートバックを抱えた先生が視野の端にチラついていたのは、帰るところだったのだ。
ガラス窓に歩み寄ると、外はすっかり暗かった。手前に植え込みがあって、そのすぐ先が駐車場になっている。
地明かりに5、6台の自動車がうっすら浮かんでいた。一番端に大カタツムリみたいな影がうずくまっている。おそらくあれが赤岩先生の愛車だろう。まだエンジンはかけていないようだ。暗くて中の人影までは確認できなかった。
「なっちゃん、そこ?手伝いはいる?」
今度も反応はない。心配だった。かといって不用意に駐車場へ突撃すれば、かえってぶちこわしになるだろうか。
考えても妙案は浮かばない。すばるは自分の幼さが悔しかった。
「それでね」満面に笑みを浮かべた吉村夫が近づいてきた。
「今日のはじめの基本、すごくよかった。稽古の最後にまたあんな感じで締めたいんだけどなー」と、持ちかけてきた。
吉村妻も続いた。「すばるちゃんに、もうひとはだ脱いでほしいなって。みんな、帰ったら家族にも話せると思うんだ。今日はこんな練習したよって」
「これ以上脱いだらオールヌードになっちゃいます。人に見せるほどでは…」
「うふふ、高校生になったら言葉の切り返しも上手ね」
こちらの意見を聞くつもりはなさそうだ。
夫妻によると、全員が心を一つに合わせて盛り上がり、爽快感と共に終わるのが理想なのだという。
「またこようって気になるじゃない。それと」吉村妻はウインクしてみせた。
「ここの怪談話、聞いたかな。聞いたよね。吹き飛ばしてもらえると助かるなあって。一緒に四股を踏んで体育館を清めるってのもアリよね」
「四股、ですか」
「それ、ああ播磨灘…」と、吉村夫がつぶやいたが、
「シッ」と妻は言ってから「なら、大先生のお好きなあれとかどうかな。ことあげ。むずかしい?」
「あー、なるほど」すばるもうなずいた。「なんとかなるかな。勝手やらせてもらえるなら」
「もう、まかせる、まかせる」
たぶん、最初からそのつもりだったのだろう。二人はウキウキした様子で子供たちのところへ向かった。
大先生とは先代の道場主を指す。剣以外にも槍、柔、抜刀、手裏剣術まで修めた達人として畏敬される一方、ユニークな人柄にまつわる挿話に事欠かなかった。独自の稽古法を編み出すのも大好きで、その一つを「ことあげ」と称した。
具体的には、スローガンみたいな掛け声を大声で唱えつつ進み竹刀を振るう。掛け声も毎回変わる。ご本人によれば、剣の拍子が身につくと同時に耳と喉と神経を鍛えるとのことだったが、まじめな弟子たちの戸惑う姿が楽しいに違いないとすばるは思っていた。
「ではみんな、お腹から声を出してねー」吉村妻が子どもたちに声をかけた。大先生直伝稽古のやり方は彼女が説明してくれたが、子どもたちはそれほど面食らいもせず、笑い出しもしなかった。それぞれが一度ぐらいは経験があるらしい。ただ、恥ずかしいと思うかは別である。
それがわかっているのか吉村夫は、「照れくさいけど思い切ってやってみよう。真星先輩もこれで度胸がついて、さらに強くなったんだよー」と、ぬけぬけと言った。
(ほんまかいな)
過去の大先生との稽古を思い出しながら、すばるはまず、「こんな感じでやりまーす」と、実演してみせた。
「家に帰ったら、ご飯を食べて」と大きく振りかぶり、「お風呂に入って」で前進・諸手突き、「夜更かししない」でまた振りかぶって面を打った。
ついに子どもらは声をあげて笑い出したが、雰囲気は悪くない。
ダンス部もいなくなったし、コート上が広く使える。すばるはおのおの距離を広くとらせると、「上手にやろうとしなくていいから」「大きく自然に、力んで振らない。お臍の下あたりを意識して」などと注意して回ったのち、ゆっくりめの掛け声とともに歩きながらの素振りを開始した。
カルガモの親役は吉村晶子がやってくれるので、すばるは皆が見えるようにひとり横に出て、動きを続けながら声をかけてゆく。
そういえば中学生のころは、晶子の動きに合わせてすばるが全体をリードしていた。役目の交代したのが少しこそばゆい感じがしないでもない。
「よし」順調なのを確かめ、激しい動きに移行しようとする直前、ちょうど壁際に寄せた大型ミラーの前にきたところで、眼前に鮮烈なイメージが立ちはだかった。すばるは棒立ちになった。IMAXの映画館も顔負け、こんなのはじめてだ。
鏡面に映っているのは車の中らしい暗い空間、そこにいて喚き散らしているのは一人の女。ほとんど泣き叫んでいる。
自分は悪くはない、仕方なかった。
頼むから、頼むからどこかへ行ってくれ。
そんなことを口走っている。
そのうち相手が顔を上げ、誰かがわかった。
鬼女みたいにすごい表情をしたその女はまぎれもなく、
「赤岩先生…」
うめき声が勝手に漏れた。
懸命に心の中で呼びかける。
(なっちゃん、逃げて)(いや待ってて、今そこへ行く)
すると、これまでにない強い念が頭に突き刺さった。
–––– だめ、絶対にこっちくるな。絶対。
七瀬のものだった。
すると真っ赤な目をした赤岩が何かを突き出した。
途端に目の前の光景は消えた。
夢から覚めたようにすばるは周囲を見回した。
子供たちは黙って彼女を見上げている。かなりの時間、鏡に心をうばわれていたように感じたが、実際はほんのわずかだったらしい。
大型ミラーの鏡面には、もはやフロアに突っ立つすばるたちの剣道着姿しか映ってはいなかった。
いや、子供たちの態度からして、鏡の中に騒ぎを見たのはすばるだけだったようだ。ほかの誰にも目を三角にした赤岩先生など見えてはいない。
なんとなく様相が飲み込めた。
さっき鏡に映し出されたのは、七瀬の視点だったようだ。現在進行形で赤岩と鏡の中の七瀬は睨み合っていて、そして相手はお札か御守りを姉に突き出したものと思われる。
あんなのが効くのか知らないが、とにかく今は何も見えない。
助けに行きたかった。だが七瀬は決してくるなと言ったのは間違いない。
姉があれほど断言するには、意味があるのだろう。だけど…。
–––– どうすりゃいいの。
すばるは途方に暮れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます