最終話 あたしが完璧な聖女様と呼ばれていた頃 2
「ギルバート、またこんなところで」
「林檎を貰ってきた。美味いぞ、これ」
「それはよかったけども」
ギルは、木の下で本を読みながら、暢気に林檎を囓っている。やってることは子どもなのに、見た目が良いからか庭が綺麗だからか、まるで一枚の絵画みたいだなって思う。
あたしはその隣に座って、彼の肩にぽんと頭を押しつけた。
「お前も食うか?」
「ええ、ちょっと残しといてください」
「わかった」
「……やっぱり半分くらいは残しといてください」
「腹が減ってるのか?」
「あんまり。でも美味しそうなのでたくさん食べたくなりました」
あたしがそう言うと、彼は「食いしん坊だな」と微笑んだ。
以前と変わらない話し方。大したことのない内容。ギルと話していると、誰といるより心が落ち着く。
『あたしと一緒に、地獄に堕ちてくれますか?』
あの夜、あたしの問いに、彼は間髪入れず頷いてくれた。それを受けてあたしは、街を出るのではなく、屋敷に戻った。
全部手に入れると、決めたのだ。
以前ほしかったものも、今ほしいものも、何もかも全部。あたしは誰よりも欲深かい人間だった。
ギルバートと一緒にいたい、アニーにも会いたいし、故郷の景色を見てみるのもいい、煙草と酒とご馳走に困らない生活もしたい、贅沢もいっぱいいっぱいいーっぱいしたいし、いろんなところを見て回るのもいい。
聖女であれば、その地位をうまく活用さえすれば、その全てが手に入るかもしれない。
だからあたしは賭けに出た。解放奴隷という過去も、いたいけで純真な聖女を演じるために利用した。聖女に相応しい可憐な振る舞いを演じるなら、いくらでもできる。神官たちを騙し、この神殿を住みやすくするために最大限努力した。
そうして信用を得てから、あたしはギルバートを彼らに紹介した。
あたしの、愛する人です、って。
奴隷だったあたしを救ってくれた人だと、事実に少々脚色を加えつつ涙ながらに訴えると、神官たちの心に良い感じに響いたらしい。
国王にも話が通り、結果、想像以上にあっさり、短時間で、あたしたちの結婚は認められた。
勿論、子どもはもうけない、という約束の下。
それは不幸に思われるかもしれない。他のもの全部手に入れたって、子どもがいないんじゃ意味がないと、そう思う人もいるかもしれない。
でも、あたしもギルも、それを受け入れた。
今のところ、何が何でも子どもがほしいって気持ちは、あたしにはない。ギルバートのことは愛しているけれど、それとこれとは、あたしの中で別らしい。それを不自然なことだとは思わない。
子どもがほしくない女は、異常? そんなこと言う奴の方が異常だと思う。
この先どうなるかなんてわからないし、突然子どもが欲しくなることもあるかもしれない。けれど、それはその時になってみなきゃわからない。
一つ確かなことは、あたしはギルと一緒にいられて、今すごく幸せだってこと。
ギルバートはあたしとの生活のために、必死で動いてくれた。神官の試験まで受けて合格してくれたし、有力者との人脈を積極的に築いていってくれた。
大神官や国王からお許しを得られたのは、ギルバートが聖女の夫に相応しいと、誰もが認めたことが大きい。
それがどんなに大変なことだったかは考えるまでもない。
彼は、あたしと一緒に、地獄に堕ちてくれた。
「そうだ、来週少しばかり遠方の街に行くことになりました。久しぶりの旅行ですよ。楽しみですねえ」
「おっ、それは楽しみだな。本を見ながら予習するか?」
「いいですね。じゃ、今夜は図書室で集合です。先に着いた方がぴったりの本を探す、というのでどうです?」
「わかった。あまり遅くなるんじゃないぞ」
ギルバートは嬉しそうに微笑み、あたしの頬にキスをしてくれた。
陽が温かい。柔らかな光に包まれたこの場所は、地獄というより楽園に思える。
「……今、幸せですか? ギルバート」
あたしが尋ねると、彼はふにゃ、と頬を緩めた。
もうすっかり大人なのに、その顔はまるで幼い子どものようだった。
可愛い。答えを聞く前から、もう何と言ってくれるかわかっている。
「ああ、幸せだ。この上なく」
胸に温かいものが広がる。
あたしは、その唇に堪らず口づけをした。
ほんのりと、林檎の香りがする。
幸せの香りだ。あたしとギルバートにとって、思い出深い、甘い禁断の香り。
あたしは彼の体に寄りかかったまま、そっと目を閉じた。
私も、彼と同じ。この上ない幸せに包まれて、生きている。
どうかいつまでも、この幸せが続きますように。
優しい香りと温かな陽の光に微睡みながら、あたしは強欲な願いを、何度も何度も繰り返し、神様に祈った。
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