第12話 あたしが解放奴隷と呼ばれていた頃 9
あれから、坊ちゃんは毎日のように図書室に向かうようになった。
どうしても体調が優れない時は、あたしに本を借りてこさせる。
そして活字を追うのも辛い時は、あたしが読み聞かせをする。――読み聞かせって言っても、可愛らしい絵本とは違う。坊ちゃんがご所望の本は、医学とか人体とか政治とか、どれもこれも小難しいものばかりだ。まあそのおかげで、あたしの頭はどんどん良くなってきているような気はするけれども。
あたしは相変わらずあのくだらない遊びをやっている。
坊ちゃんは、頭を休ませたい時にあたしに付き合う。図書室で本を広げて一緒に覗きこんでいると、弟がいたらこんな感じかなーなんて、そんな考えが頭を過る。
「そう言えばあたし、兄弟ほしかったんですよね-」
「は? なんだ藪から棒に」
「坊ちゃんって弟みたいですよね」
「……はあ?」
その時の坊ちゃんの顔ときたら、今までで一番不機嫌な顔つきだった。
「今なんて言った? 僕が、お前の、弟だと……?」
「年齢的にはそうでしょ?」
「ふざけるな! お前みたいなのが姉なんて御免だ!」
「あたしだってどうせならもっと可愛らしい弟がいいですねえ」
「なッ……煩い! とにかくお前の弟なんて絶対御免だ! 二度と口にするな!」
へーへーあたしだってもっと素直で可愛い弟がいいですよ~だ。
あたしは坊ちゃんがこっちを見ていない隙に、べーっと舌を突き出した。全く、あんなに顔を真っ赤にして怒らなくてもいいのに。
心が近づいたと思ったら、いつの間にかずっと遠くにいる。ちょっとは心を開いて貰えたんじゃないかと思ったら、ガションと勢いよく扉を閉ざされる。
坊ちゃんとの生活は、そんなことの繰り返しだった。
最近、坊ちゃんは熱心に歴史の本を読んでいる。
一番よく読んでいた医学そっちのけでそんな本ばかり読んでいるから、一体どんな心変わりがあったのか、何となく気になった。
だから、つい聞いてしまった。
「歴史って面白いですか?」
「面白くない」
「え。じゃ何で読んでるんですか」
坊ちゃんは分厚い本から顔も上げず「有益な情報が得られそうだからだ」と至極淡々と答えを返した。
「有益な情報、ですか」
首を捻ったあたしに、坊ちゃんは「例えば」と今し方読んでいるページをとんとんと叩いた。あたしは何の気なしにそのページを覗きこんだ。
そしてぎょっとした。
まず最初に目に入ったのは、「グレイス・エイデン」という名前だった。
「今からおよそ15年前、エイデン侯爵家には聖女というのがいたらしい」
「……………………あー」
「知っていたか?」
「あー、いえ、知りません。何ですかそれ」
あたしは顔を背け、そそくさと坊ちゃんから離れた。
動揺のあまり、心臓がバクバクと煩かった。
煙草が吸いたい。ぷかぷか吸って、そんでこの心臓をどうにか鎮めたい。
グレイス・エイデン……落ちこぼれの聖女。
惨めで馬鹿で可哀想な、前世のあたし。
まさか自分の名が歴史の本に載っているだなんて考えたこともなかった。
「僕も知らなかった。たった15年前まで、この国にはどんな病も治すという聖女がいたんだ。その最後の聖女が、グレイス・エイデンだ」
「15年前……」
つまりあたしが死んで15年経ったってことか――……? 今のあたしの年齢が大体それくらいだろうなとは思ってたから、つまり死んですぐ転生したってこと?
文明レベルはそう変わってないなとは思っていたけど、まさかそんな速攻で生まれ変わるなんてね。いや、そもそも転生するなんて思いもしてなかったけどさ。しかも記憶つきで。
チャールズの顔が、一瞬脳裏に過る。
あの頃あたしと同い年のガキんちょだった彼は、今は立派な大人、てことになる。25くらいの。
胸の奥が、チクリと痛んだ。
その理由は、よくわからない。
「この本によると、グレイス・エイデン以後、新しい聖女は生まれていない」
「へえ……」
「そもそも彼女が聖女になった経緯というのは特殊だった。通常の聖女と言うのは、先代が次の聖女を指名し、何らかの儀式でもって、その娘に力を継承させるものらしい。誰でもいい訳じゃない。しっかりとそのための訓練を受けた者――王族で、神官で、体が丈夫で、聖女に相応しい者、というのが条件だ」
「え?」
それはおかしい、と言いそうになって、慌てて口を噤んだ。
あたしは聖女なんて今の今まで知らなかったってことになっている。口を挟むべきじゃない。
でも、頭の中はぐるぐるぐるぐる、気持ちの悪いことになっていた。
だって、おかしい。
あたしは、生まれた時にはすでに聖女だった。
――――――話の続きが聞きたい。
でも、怖い。知らない方がいいことを、知ってしまいそうで。
「だが、最後の聖女、グレイス・エイデンだけは違った。母親である先代は、彼女を産んですぐ亡くなっている。本来次の者を指名しなければならないのに、その手続きは踏まれず、力はなぜかグレイスに継承され、彼女は生まれてすぐに聖女と認定されることになった」
「………………」
「瞳に咲く、銀の花が聖女の証らしい。しかし赤子に聖女の力は強すぎたのか、継承に際し正式な手続きを踏まなかった所為か、それとも彼女の本来の性質なのかはわからないが、グレイス・エイデンは非常に病弱だった。彼女はたった10歳で亡くなっている。しかもこの時、継承は行われなかった。何百年も続いた聖女の力は、ここで永遠に失われることになった」
「…………病弱な聖女様ってのは、本来あり得ないってことですか。聖女の資格がないから、継承者に名が挙がることもない。なのにその子は……」
勝手に力を奪ってしまったのか。
どうして? 何で?
もしあんなものさえなければ、私は…………。
『…………落ちこぼれの聖女』
記憶の底から、チャールズの声が蘇る。
『皆噂してますよ? 貴方は聖女の証はあるのに、肝心の力はない落ちこぼれだって。病弱で寝てるしかできなくて――』
今でも覚えている。
彼は、憎しみに燃えた目で、私を睨んでいた。
『どうせ内心では、僕みたいな穢らわしい平民を蔑んでるんでしょう!? 聖女のくせに……! 神様に選ばれた聖女のくせに!! 貴方の役目は、こんなところで寝ていることじゃない! 今すぐ神殿で祈りを捧げることだ!』
力さえなければ
聖女でさえなければ――――……
あんな風に、大好きな人に、罵倒なんてされなかった。
あたしは天井を見上げた。
何度か瞬きして、僅かに滲んだ視界を元に戻す。
口元が歪んで、自分でも泣いているのか笑っているのかよくわからない。
坊ちゃんにそんな顔は見せたくないから、あたしはずっと遠くへ視線を向けながら、なんてことないことみたいに、話を続けた。
「おかしな話ですねえ。しっかし、聖女ねえ。そんなもの知りませんでしたけど、その当時もどれくらい知られてたんですかね?」
「さあな。儀式といい力といい、未だ謎に包まれていることの方が多い。聖女について正しく認知している一般市民というのは、当時もほとんどいなかったんじゃないのか。この本も、聖女が消えたことで神殿、及びエイデン侯爵家に非難が集中し、その結果説明されたことをまとめたもののようだ。聖女が消えなければ、聖女の力の継承なんて話も伝わることはなかっただろう」
「……そうですかぁ。なかなかの悪女ですねえ、そのグレイス・エイデンてのは」
「何?」
「だってそうじゃないですかぁ。母親の力を勝手に奪って、そのくせ10歳で継承もせずに亡くなって、それで周りに迷惑かけまくったんでしょ? とんだ悪女ですよ。病弱だったってことは、自分を癒すことさえできなかったってことですし、力もまともに使えないくせに聖女なんてねえ……。よっぽど憎まれてるんじゃないですか、その子」
「……おい、死者を冒涜するな」
「本当のことですよ。坊ちゃんだって、もしこの子がちゃんと継承してたら、今頃その病も治っていたかもしれないのに。悔しくないんですか。あたしだったら悔しいですねえ。そんな落ちこぼれの聖女の所為で、この国の貴重な財産が永遠に闇に――――」
「やめろ」
静かな声で、遮られた。
本気で、怒った声だった。すぐにわかった。
「体が弱いことは、罪じゃない」
「……そうでしょうか。でも――――」
「意図せずして継承したことも、彼女には何ら罪はない。なぜ悪女と罵る。なぜ落ちこぼれだなんて蔑む。彼女は、10年という短い人生のほとんどを、ベッドの上で過ごしたんだぞ? まともに外に出ることもできなかった。僕よりずっと長い間、体の不調に苦しめられていたんだ。それに耐え続けた幼い子どもを、その人生を、冒涜するな。それは、お前がやっていいことじゃない」
優しい、言葉だった。怒っているのに。
あたしが、ずっとほしかった言葉のように思えた。私という存在を、認めて貰えたような気がした。何年も何年も、生まれ変わっても記憶が残っているのは、その言葉をずっと待ち続けていたんじゃないかと、思えた。
涙が滲んで、あたしはぎゅっと目を瞑った。
「…………すみません」
「わかったなら、いい」
そう返しながら、まだ怒った調子で、「ああそれと」と坊ちゃんは続けた。
「グレイス・エイデンは落ちこぼれなんかじゃないぞ」
「え……?」
「彼女は亡くなる直前、それまでのどの聖女より強大な力を示している」
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