第11話 あたしが解放奴隷と呼ばれていた頃 8



 ボールがころころ、廊下の先へ先へと転がっていく。

 落とした時に勢いがあったというのもあるだろうけれど、もしかしてここって欠陥住宅? 転がりすぎじゃない? 床斜めってるの?

 そんなあたしの不安をよそに、ボールはまだまだ止まる気配がない。


 別に小さなボールの一つくらい放っといてもいいかとも思ったけれど、活発になりつつある坊ちゃんが一人で屋敷の探索なんかした日には、あのボールを踏んですってんころりん大怪我なんてことも起こりうる。

 そうなるとやっぱりあたしの責任になる可能性が高いから、あのボールは回収しておこう。


 あたしは椅子ごと坊ちゃんを抱えながら、ボールの後を追った。


 やがてボールは、ある扉の前で止まった。

 一旦坊ちゃんを下ろして、ボールを拾う。まるでボールに導かれたみたい、なんてロマンチックなことが一瞬頭を過った後、あたしは古めかしい扉を見上げた。


 でっかい扉。細かい装飾とかされてて、荘厳な感じで、どう見ても重そう。

 明らかに他の部屋とは違った。


「何の部屋ですかね、これ」

「さあ……」


 坊ちゃんは首を傾げた。

 目がちょっとキラキラしている。


「入ってみます?」


 私の問いに、彼は間髪入れず頷いた。


 ゴッテゴテに装飾されたドアノブを掴み、ゆっくりと捻る。


 あたしもちょっとドキドキしていた。何かヤバいものが隠されていたらどうしようかって、そんなことある訳ないのに考えてしまう。


 すごく重い扉だったから、なかなか開けられない。

 あたしは体重をかけて扉を押した。


 ギイイィィ……と音を立てて、扉が開けられる。

 ぶわ、と、どこか懐かしいような匂いが、鼻を擽った。



「うわ…………」



 すごい、と思わず呟いていた。

 高い高い天井にまで書棚が設えられ、そこにぎっっっっしりと本が詰め込まれている。古い紙と埃の匂いが、むわっと部屋の中で充満している。


 カーテンを開けると、薄暗かった室内が明るくなって、その凄さってのがはっきりとわかった。


 一体いくつ棚があるんだろう。

 あたしが前世で暮らしていた屋敷でも、こんなに大きな図書室はなかった。



「すっごいですねえ、これ。棚の装飾もまあ凝ってて……。何ともまあ重そうな本ばっかり。これ一冊めちゃくちゃ高く売れそうじゃありません? 宝の宝庫ですねえ」

「盗むなよ」

「ちょっと、盗みませんよぉ。あたしがそんなことするように思えます?」

「思える」

「酷~い」


 坊ちゃんは椅子から立ち上がり、ふらふらと図書室の中を歩いた。

 あたしは坊ちゃんが転ばないように肩を支えた。


「坊ちゃん、辛くなったらあたしがいつでもお姫様抱っこしますからね」

「しなくていい。あと僕はお姫様じゃない」

「お姫様みたいに可愛らしいお顔をしているじゃないですか~」

「かッ、可愛くない! 次それ言ったらクビだからな!!」

「照れちゃっても~」

「照れてない!!」


 埃が凄い。この図書室、随分長い間そのまま放置されてたんだろう。

 坊ちゃんの肺の方が心配になったけど、坊ちゃんは埃も気にならない様子で、目をキラキラさせながら熱心に背表紙を眺めている。


「本がお好きなんですか?」

「……今は、全然読まなくなった」

「まあ読めないですよねえ。体がしんどい時は」


 そう返すと、坊ちゃんは意外そうにあたしを見上げた。

 何かおかしなこと言ったっけ?


「どうかしました?」

「いや……」

「坊ちゃんはどういう本がお好きなんです? あ、これとかどうです? 『伯爵令嬢の淫らな初夜』ですって!」

「バッ……!!!!!」

「あたしが読み上げてあげましょうか?」

「結構だ!!!!!」

「面白そうなのに……」

「要らん!! て言うかそんなのがあるのかこの図書室!?」

「真面目そうな顔してちょこちょこありますよ。男爵様の趣味ですかねえ」

「……気持ち悪」


 坊ちゃんはげんなりした様子で、その棚から離れていった。

 官能小説も紛れているけれど、ほとんどは真面目な本ばかりだった。あたしでも読めるかわからない、小難しそうな本がずらっと並んでいる。


「坊ちゃん、これとかどうです?」

「やめろ。またおかしなもの見つけたんだろ!」

「『ローラン王国旅行記』おっ、すっごい綺麗な挿絵付きですよ! 全国回ったんですかねえ。いろんな地方について詳しく書いてあるみたいです。ちょっと発行年は古いですけど」

「旅行……」

「どうです? これで旅行気分、味わいません?」


 あたしは大きなその本を抱え、近くのテーブルにそっと置いた。

 坊ちゃんは「本で旅行気分なんて味わえるのか?」と半信半疑の様子で椅子に座った。


「味わえますよ~。坊ちゃん、こういう本を読むのは初めてですか?」

「もう少し堅苦しいものなら、少しは」

「坊ちゃんにとって本って勉強するものって感じですか?」

「そりゃ……本ってそういうものだろ。知らないことを知るのが、楽しかった」

「それもそうですけど、それだけじゃないですよ。楽しみ方はいろいろです。さてさて、ローラン王国とんでも旅行記の、始まり始まり~~」


 あたしは本を開いた。

 古い紙と埃の匂いが、ぶわっと直撃する。懐かしい。この瞬間が、あたしは結構好きだった。


 何かが始まる予感がする。胸がわくわくと高鳴る。

 ベッドにいるしかなかった前世の頃のあたしにとって、外の世界を見られる唯一の鍵が、本だった。


「出発はローラン王国北の端の町ですか。うわっ、寒そうですねえ坊ちゃん。この地方は熱々のビーフシチューが名物だそうです。んじゃ、取りあえずこの村に一人の女の子が暮らしていたってことにしますか」

「は?」

「ビーフシチューが大大大好きな女の子。でもこのシチューを食べられるのは年に一回だけ。なぜなら、少女の家はものすごくお金がないからです」

「ちょっと待て。何が始まった?」

「ローラン王国とんでも旅行記ですよ。この女の子と一緒に、あたしたちもこの国を巡っていきましょう! さてさて、女の子はどうしてもシチューをたらふく食べたいんですけど~、金がないので~、ここは金持ちの男と結婚することにしましょう!」

「はあ?」

「あ~でも最悪、この地方の金持ちと言えば羊毛業のドンですね。見てくださいこの男。なんてすごいビールっ腹でしょう」


 私は偉そうな顔でふんぞり返る男の肖像を指差した。羊毛業で富を築いた伯爵様らしい。憎ったらしい顔をしている。

 坊ちゃんは至極どうでも良さそうな顔で「はあ」とどうでもよさそうな声を漏らした。


「これはいけません。女の子はやっぱりハンサムが好きですからね。女の子は悩みに悩みました。たらふくのシチューと結婚、その二つを天秤に掛けた結果、結婚式の日に花嫁衣装で飛び出した女の子。そこに都合よく王子様が現れて攫ってくれればいいのですが、こんな自分勝手な真似をした女の子を庇ってくれる人がいる訳もありません。両親に勘当された上、台無しになった結婚式の費用を請求された女の子は、多額の借金を抱えたまま村を出て行くことになります」

「悲壮感がすごいぞ」

「いえいえ、女の子が自分の意志で選んだ道ですからね。こんなクソ村、こっちから願い下げじゃい!と言いながら女の子は喜び勇んで次の街へ向かいます!」

「口悪いなそいつ」

「育ちは良くないんでね」

「そんな奴がなんで金持ちの男と結婚まで進んだんだ」

「可愛い顔してたんでしょ」

「それだけか? 男がこの女と結婚するメリットがない」

「細けえことはいいんですよ、細けえことは」

「適当だな本当に。全然面白くないし」

「さて、次の街は~、百一体のマンモス伝説が残る観光名所ですね!」

「何だそれは」

「女の子はマンモスハンターになって荒稼ぎします!」

「待て」


 何だかんだ付き合ってくれる坊ちゃんのツッコミを楽しみながら、あたしは次のページを捲った。


 いつも一人でやっていたでたらめな創作。

 いろんな本を読むうちに、気づいたらこうして、自分勝手な話を膨らませていた。

 旅行記なら旅行気分が味わえるように。動物図鑑ならいろんな動物をペットにしてみたり。小説の登場人物と友達になったこともあれば、法律を捻じ曲げて自分の国を作ったこともあった。


 でたらめなことばかり想像して、一人でゲラゲラ笑ったこともあったっけ。

 侍女に共有したいとは思わなかった。あの頃は、何だか気恥ずかしかった。下品なことをしているようにも思えたし、くだらない、と言われるのが怖かった。



 ああ懐かしい。

 あの頃こっそりやっていたこのくだらない遊びに、今は道連れにした仲間がいる。

 それが何だかおかしくて面白くて、不思議と悪くはないなと思った。


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