第8話 あたしが解放奴隷と呼ばれていた頃 5



「こんな化け物みたいな見た目で、こんなぼろぼろの体で、この先も生きていけると思うか……? 大人に、なるまで?」

「さあ? なれるかもしれないでしょ。人の生き死になんてわかりませんよ。坊ちゃんの病気が突然完治する可能性も――――」


 あたしがそう言った途端、坊ちゃんのまなじりがぎゅっと吊り上がった。


「ふざけるな! そんな可能性がないことは僕が一番よくわかってる! 医者に見放されたんだぞ。もう治らないって言われた。この先何年も何年もこの体のまま生きていくなんて、僕には耐えられない」


 今にも泣きそうな顔なのに、涙は零れなかった。それがどうしたって痛々しく見える。子どもなんだから、思いきり泣けばいいのに。


 あたしは手を伸ばした。

 真っ赤に腫れ上がった顔の左半分、そこには触れずに、そっと髪を撫でる。


「そうですねえ。……死にたいんですか? 坊ちゃんは」


 ぴく、と肩を震わせた後、坊ちゃんは小さく、小さく頷いた。

 そうですかぁ、とあたしはにっこり微笑んだ。


「なら仕方ないですね。無理に生きる必要はないんじゃないです? 人間なんて、皆いつか死ぬんですし」


 そう返すと、坊ちゃんはちょっと驚いたように瞬いた。

 あたしは髪を撫でながら、言葉を続けた。


「坊ちゃんの命なんだから、好きにしたらいいですよ。ぽっくり死ねた方が幸せってこともありますし、辛くて辛くて堪らないのにだらだら生きてる方が不幸かもしれないですし。それを決めるのは坊ちゃんですねえ」

「……本当、に?」 


 坊ちゃんの目にみるみる光が宿っていく。

 好きに死んだらいいと言われてこんなに嬉しそうな子、普通はいないよなあとあたしはぼんやり考えた。


「じゃ、じゃあ、僕が殺してくれと言ったら、お前は手伝ってくれるか!?」

「ヤです。だってそれ、あたしにはな~んにもメリットないじゃないですかぁ」


 ヒラヒラと手を振って拒否すると、坊ちゃんは、むっと顔を顰めた。


「な、何だそれ。結局、何もやってくれないのか!」

「メリットがあればやってもいいですけど、坊ちゃんを手に掛けたりしたら死罪ですもん、死罪。あたしまだ死ぬつもりないんで」

「お前に罪が被らないようにやる!」

「バレますよどうせ」

「バレない!」

「バレる」

「バレない!!!」

「完全犯罪なんてしたことないでしょその自信はどっから来るんです?」

「それくらいやろうと思えばやれる! 僕を舐めるな!」


 こういうところは子どもだなあ、ほんと。否定されてムキになってる、普通の子ども。

 ずっとこういう風にいられたらいいのに、如何せん頭が良いのか今まで受けてきた待遇が酷すぎるのか、坊ちゃんは未来に悲観的だ。



 あたしはどうだったっけなあ。

 長く生きられるとは思ったことがなかったけれど、だからって死にたいとは思ったことがないような。


 あの頃のあたしは、チャールズに夢中だった。

 死んでチャールズに会えなくなることが、何より怖かった。

 そういう意味では、あたしはあいつに感謝した方がいいのかもしれない。あたしに生きる希望を与えてくれていたのは、間違いないことだから。



「ねえ、うだうだ考えても仕方ないことは、考えないのが一番ですよ。それよりよっぽど良いこと、教えてあげましょうか?」

「……何だ?」

「気持ちい~ことだけ、考えてるんですよ」

「……………………は?」


 ぽけん、と丸くなった黄金色の瞳に、あたしは可愛くウィンクした。


「気持ちいいことですよ、気、持、ち、い、い、こ、と! お子ちゃまの坊ちゃんにはわからないですかねえ」

「な、なな、な…………」

「快楽って言えばいいです~? 気持ちいいことた~っぷりしてたら、死なんてどうでもよくなりますよ? あたしは四六時中そういうことばっかり考えてますよ~?」 「~~~~~~ッ」

「折角人間に生まれたんだから、そういうこといっぱい感じて楽しく生きた方がぜ~ったい得してると思いますよ~? たとえばぁ~~」

「ふ、ふふ、不埒だこの変態ッ!!! もうそれ以上喋るな!!!」

「お腹いっぱい林檎を食べて昼まで寝るとか」




「……………………………………………………は?」


 坊ちゃんは真っ赤な顔のまま固まった。

 あはは、引っかかった引っかかった。面白い顔。


「美味しいものにありつけたら最高に気持ちいいですよねえ。あたしはあと煙草と酒に困らない生活がいいですね。でも捨てられてた煙草が意外に美味しかったりすると得したなあって感じますよ。あ、このお風呂は最高ですねえ。もうちょっと熱けりゃもっと最高ですけど、ほ~んと気持ちいいぃ」

「…………」

「坊ちゃんはどうです? 瑞々しい林檎を食べた時とか。幸せを感じませんでした? また明日も食べたいなとか、思いませんでした?」

「…………」

「あ、それともぉ、年頃の坊ちゃんは~、もしかしてエッチなこと考え――――」

「黙れぇ!!! ややこしいこと言ったのはお前だろ!!!」

「ふふ~ん、そういうことに興味あるんですねえ。あ、ちょうどここにおっぱいありますけど、揉みます?」

「ふざけるな!!!!! 誰が、誰がお前みたいなのの――――……!! ああクソ馬鹿!!! 黙れ!!! もうほんと喋るな!!!」

「ああ~ごめんなさいごめんなさい。悪かったですよ本当に~。泣かないでください」

「泣いてないわ!!! 誰が泣くかこんなことで!!」


 そうは言うけど、顔真っ赤っかで涙目で、今にも泣き出しそうだけど。

 この程度のことで騙されて照れてるのは、育ちがいいからなんだろうなあ。

 純情な坊ちゃんを弄ぶのはこれで最後にするか。


「僕が、元気になったら、絶対お前のことクビにしてやるからな……!!!」

「お~そりゃ困りましたねえ。退職金はたっぷりお願いしますよ?」

「お前には硬貨一枚やらない!!」

「うっわ~ブラック~~」

「煩い!!」


 坊ちゃんはぷんぷんしながら浴室から出て行こうとした。

 あたしは「あー待ってくださいよ!」とバスタブから身を乗り出した。

 浴室の床は滑りやすい。ただでさえ坊ちゃんは痩せ細っているから、入る時も出る時も、動く時はあたしが支えてあげなきゃならなかった。


「あッ……」


 案の定、坊ちゃんがツルッと足を滑らせる。

 まずい……!!

 いや、このまま坊ちゃんが怪我したらまずいどころじゃない。


 あたしは咄嗟に駆け出し、坊ちゃんの体を背後から支えた。

 そして勢い余って――と言うかこれは私もうっかり足を滑らせて――坊ちゃんの体をしっかり抱きかかえたまま、背後に倒れた。


「いッ……」


 硬い床に尻餅をついて、思わず顔が歪む。


 腕の中の坊ちゃんを見ると、ぽけんとした顔のまま固まっていた。何が起きたのか、一瞬のことで理解できていないらしい。


「大丈夫です? 怪我は? 痛いところは?」

「だ、だだ、大丈夫、だ……」

「よかった」


 ほっとひと安心して、坊ちゃんを離す。

 骨と皮だけの坊ちゃんが転んだら、大怪我をしていたかもしれない。


 坊ちゃんをゆっくり立ち上がらせて、浴室の外に出る。

 念のため怪我がないか確認しようと跪くと、坊ちゃんの顔はびっくりするくらい赤くなっていた。


「わ、おま、な、なな――――……」

「ほんとに大丈夫です? 落ち着いてください。一応怪我してないか確認しま――――」

「服を着ろ服を!! おまッ、ほんと、どういう神経、し、て…………」


 そこまで言って、坊ちゃんは言葉を止めた。

 真っ赤だった顔が、ゆっくりと青くなっていく。


 ちょうどよかった。あんまり暴れないでいてもらえると、確認しやすい。

 坊ちゃんの袖を捲って打ってるところがないか確認していると、坊ちゃんの震える声が、耳に届いた。



「お前……それは……何だ……?」



 彼が指したのは、私の胸元。

 そこに刻印された、禍々しい奴隷の痕だった。



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