深海の骨
桑鶴七緒
前編
私の母は海として生きることに決めた日から今日で十年が経つ。
いつもの時間に起床して、旦那と息子に朝食を作り彼らがそれぞれの場所へと向かった後に私もいつもの場所に向かってここに辿り着いては母におはようと大声で呼んだ。彼女は今日も波を立てながら潮風とともに揺らいでいる。
久しぶりの快晴ということもあり彼女は今朝から機嫌が良い。岸壁に巣を作る海鳥の鳴き声が響いては顔色も悪くはないと言っていいほど穏やかだ。
「父さんにお水とご飯は取り換えてあげたかい?」
「うん。向こうも今日は天気が良いからみんな
ここから眺める母の顔が冴えているのが私の誇り。自分には持ち合わせていない包容感が大きくてみんなに自慢したいくらいなのだ。岸の奥にある堤防では釣りを楽しむ男性の姿が見える。母は寛大なので魚が釣れれば一緒に喜んでくれるので、ここに来る人たちも安心して行き来しているのだ。
「
「まあね。今のところ友達と一緒に遊んでいるみたいでさ。」
数年前に私が結婚して奏が産まれてここに連れてきた時には母はその嬉しさによく高い波を立てては息子も驚いて泣いていた記憶が輝かしい。
まさか私自身も母親になるなんて想像すらできていなかったのに、お腹が大きくなるにつれて不安が募っていくたびに、母はいつもここから私に向かって頭を撫でてくれた。彼女がこうなってしまったのも自分のせいだと責めていたが、それは違うと叱られては慰めてくれた。
彼女は自ら海になる事を決意したのには、父の死と繋がりがある。
父もいつも私達家族を養うために、早朝から深夜にかけて働き詰めの毎日だった。お酒も毎晩飲み続けては苦労をかけて申し訳ないと私の知らぬ間に母の前にだけ涙や愚痴を溢していたようだ。そんな彼もいつしかできた腫瘍に侵されながら闘い続けたのちに静かに息を引き取るように深い永遠の眠りについていった。
ああまただ。父の事を考えると身体から色々な想いが込み上げてくる。その都度母は荒波を立てては私を引き波に彷徨うように身を捕らえていきそうにしてしまうのだ。その心情が気づかれないように私は彼女に呼びかける時はできるだけ些細な弱音を吐く事をしないように心がけている。太陽が南の空に差し掛かる頃になった。今日は息子を早い時間に迎えにいく日だったと思い出し、母にまた来るからと告げてその場所から離れていった。
息子が大泣きした。
帰宅してから寝室のクローゼットの前で着替えをしている間に、彼は一人で勝手に冷蔵庫を開けて好物のリンゴジュースのボトルを取ろうとして、子ども用の椅子を持ち出して、その上に立ち冷蔵庫に手を伸ばして物が届いた瞬間に足がふらついて勢いよく身体ごと床に叩きつけるように落ちてしまったのである。その泣き声にすぐさま反応してキッチンにかけつけると、彼は泣きじゃくりながら私に抱きついてきた。
しばらくして彼が落ち着いたところで私が傍にいる時にジュースを取るようにしなさいと注意をすると、先程のわめいていた様子とは一転して浮ついた気持ちで生返事をしてきた。どうもそこは旦那と似ているところがありきっとどこかで真似をしたがっているのだと察知してはため息が出た。
やれやれと思いつつも私は息子と一緒にリンゴジュースを飲んでいる。こうする事で彼も共有心が生まれてくるのか、これで育児としてみなして良いのかと考え込んでしまう。息子が少し眠そうになりかけていたので、抱き抱えて彼の寝室に行きベッドの中に横にさせて眠らせてから、そっとドアを閉めた。
《続く》
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