姉かペットか寄生虫

桂花陳酒

姉かペットか寄生虫

 新卒で社会人になって5年。仕事帰りによく覗きに行っていたペットショップがついに潰れた。まあ、ガラス越しに癒しをタダで盗んでいたようなものだから潰れても何も言う権利はないけど少し寂しい気持ちになった。

 それにしても、人前で無邪気に寝たり遊んだりしていた彼ら獣は意外にもお高い。私の手取りより高い子ばかりでへこむので、値段は見ないようにしていた。

 といっても目の前の小さな命に値段をつけるなんて人間も随分と惨いことをする。

 もし道の横から突然占い師が現れたとして『貴方の人生の価値はお幾らで、その額を支払うから死んでくれ』なんて言われたらどう思うというんだ。

 なんだかぞっとしてしてきた。

 こんなぞんざいな思考、子供のうちにとっとと済ませて記憶の片隅に放っておけばよかった。

「おねーさんおねーさん。ちょいちょい」

 駅の構内を出てすぐに、夜9時のお勤め帰りでお疲れな私に声がかかる。一瞬、もしかして本当に占い師かと思いドキリとする。

 街灯に照らされた声の主は私のことを『おねーさん』とか呼んでくるけど、ヒールもなしに170代くらいの身長と黒髪ロングのストレート。客観的に考えても、お姉さんはどう見てもそちら様だった。

 彼女はこちらに手招きしながら、すぐ横にある自販機の陰に隠れているようだった。

「何ですか?」

 正直言って無視して帰ってしまおうと思ったけど、咄嗟にそんな言葉が出た。変なことを考えていたせいで、つい警戒心が緩んでいたのかもしれない。言ってしまってからすぐに後悔して、きゅっと心臓が縮むように肝が冷えた。

「ちょっとお願いがあってさ。わたし今、文無し、宿無しの甲斐性無しなんだよね。だからさ──」

「嫌です」

「えーまだ何も言ってないのに」

 接触時に取った遅れを巻き返すかのような即答。正直自分でも驚くほどの速さだった。

「うわぁ……現代人は優しさを失ったと聞くけれど本当だったんだねぇ。悲しくなってきた……」

 顔を両手で覆い、よよと泣く素振りをしながらそんなことを言うお姉さん。なんか無駄に演技が上手くて、そのことばかりが目についた。こんなことは初めてで、正直まだ怖い。でもそれを悟らせてはいけないとできるだけ冷たく声を出した。

「じゃあそういうことですので」

 これ以上ここにいたらいけない気がする。というかこの人に関わってたら絶対良くないことになる。私は早足に立ち去ろうとするが、お姉さんは私を逃さないよう必死になって説得してきた。

「待って待って待って。本当に?ほんっとうに置いてくわけ?」

「はい」

「いやいやいや。ちょっとちょっと。それはあまりにも冷たすぎるんじゃない?」

「今の時代SNSとかあるんですからそこで助けを求めたらいいじゃないですか」

「えー。携帯もないのに?無理言わないでよ」

 建設的な代案を出すけれどすぐに却下される。文無しどころか携帯も無いのでは確かに厳しいかもしれない。でもやっぱり初対面の相手にこんなテンションでここまで踏み込まれると怖いものがある。

「じゃあ逆にどうしたらいいんですか?お金借りたいんですか?それとも一宿一飯でも提供すればいいんですか?」

「んー、そうだなー」

 お姉さんは途端に嬉しそうな声色を出した。きょろきょろと逡巡するように。

「一宿一飯どころかしばらくの衣食住と、仕事に──」

 その厚かましい要求に辟易としてしまう。それに加えて動作全てが芝居掛かっているようで、見ていて恐怖よりも嫌悪が込み上げてくる。流れるような無駄な美しさ。そんなもの、人を騙すためにあるようだ。

「うーん、いやー。でもね。一番は愛かな。愛が欲しい」

「は?」

 こんなに困惑したのは初めてかもしれない。思わず素っ頓狂な声を出してしまった。

「ダメ?」

「刑務所にでも行ったらどうですか?」

要望が多いし犯罪臭がするし、早急に収監された方が本人にも社会にとってもwin-winだろう。

「えー、愛が無さそうだからやだ」

 一番そこを気にするのかと呆れる。それに時間も無駄になるので早く立ち去りたかった。

「もういいですから、警察行きますよ」

「待って!わかったわかった。君はわたしが怪しいから信用できない。そうでしょ?」

「はい」

「それなら、わたしが身分を証明すれば問題無いよね!」

「はい?」

 そう言いながら彼女はポケットに手を入れ、ごそごそし始めた。そうして出てきたものは一枚の少し折り目のついた名刺だった。

「わたしはこういう者でして……。あ。ちなみにこれ最後の一枚ね」

 その名刺を受け取る。そこにはこう書かれていた。

『小説家・月見里 小春』

 そこには見たことも聞いたこともない小説家の名前が書いてある。奇人変人ぶりに説得力があるようでやっぱり無い。ペンネームなんていくらでも名乗れてしまうものだから全く信用なんてできない。

「いやぁ、月見里って名前気に入ってるんだよねぇー。そう言えば、月がよく見える所は山がないから“やまなし”なんだけど、それじゃあ“おつきみやま”は一体なんなんだ、って思わない?」

「いえ全く」

 このお姉さん改め月見里 小春さんは、毎回話が変幻自在で縦横無尽に飛んでいき、最終的に変な方向から近づいてくるので疲れる。こういう、ヤマアラシのジレンマという言葉を知らない人間が私は一番嫌いだ。

「それより、なんで小説家がホームレス状態なんですか」

「それはねー。一緒に住んでた相手と喧嘩して追い出されちゃったんだよ。酷いよねー。小説家なんて他人に寄生する生き物なのにさぁ」

 それはもう私の所に寄生する宣言に等しかった。そんなもの受け入れられるはずがない。勘弁してほしい。やはり関わったらまずい人だったかもしれない。警察に電話をするべきだろうか。さまざまな思考が行き交う。

「じゃあ、わたしの素性が分かった所で改めてお願いね。衣食住と愛を下さい。せめて愛だけでも下さい」

 今すぐこの謙虚とは無縁のお姉さんに冷たい水でもかけて追い払ってやりたかったが、生憎コップなんて手元に無いので代わりに財布から3000円ほど抜いて目の前に、除霊のお札かのように突きつける。

「あの、もう本当帰りますから。これで勘弁して下さい」

 なんだか負けたような気がした。運命とか不幸とか、その他もろもろに。



「おかえりー!からのハグぎゅ」

 家に帰るなり、玄関で待ち構えていた自称小説家・月見里 小春に抱きつかれる。身長差の関係で目線を落とすとすぐ下に胸があって、それが「柔らかいでしょ?」と主張しているみたいでなんだか腹立たしい。

 ただでさえ疲れからか、後ろで結んだ髪を引っ張られるかのような頭痛がするのに、こんなのまで相手していたら身体がもたなそうだ。

「なんでいるんですか?……みたいな顔しちゃってー。自分で招いたくせに〜」

 昨夜の事案の結末を語るなら私が3000円で居候を買っただけだった。ここ数ヶ月で一番無駄な買い物だし、そもそも買い物と言っていいのかも不明だ。

「どいて下さい。邪魔です」

「あ〜ん、いけずぅ~」

 倒れるフリをする彼女を手で押し退け、靴を脱ぐ。そしてリビングまで逃げるようにして行くと、普段通りとっ散らかった光景が目に入る。

 お手伝いさんを雇うならまだしも、3000円で買った居候ごときが、帰ってきたら部屋が掃除してくれるなんて都合のいい現実はなかった。

「まだいたんですか……」

「うん、いたよ。いやぁ、君も不用心だねー。出会ったばかりの超絶美人小説家を置いて朝から晩までお仕事なんて。わたしが泥棒だったらどうするつもり?」

 非常識の化身みたいな態度をとっておいていきなり正論を吐くのは止めて欲しい。こっちだって好きで残業してきたわけじゃないし、好きで自称小説家を家に置いてるわけじゃない。

「超絶美人小説家なんて私には見えませんけど、もしかして幽霊でも見えてるんですか?」

「うわ辛辣。そこは認めてよ」

「貴方が泥棒だってことを?」

「おおう。昨日よりキツい態度……。わたしの主に相応しい女王様っぷりだぁ……」

 ご主人になったつもりは微塵もないので無視する。けれど、こっちが黙っていると向こうはますます調子に乗ってくる。

「まあまあ、安心してよ。わたしが盗むのは他人のハートだけだから!」

 上手いこと言ってやったみたいな表情をしているが、定番過ぎてなんとも言えない。それに、やろうと思えば本当に人の心を盗めそうな顔とスタイルなのがタチが悪い。

「……そうですか。私は臓器提供に同意してないので盗まれても困ります」

 自分でも何を言ってるか分からなくなってくる。疲れている証拠だろう。早く眠りにつきたいが、こんなのが隣にいたら寝れなさそうだ。というか、昨日はどうやって眠りについたっけ。記憶が少し飛んでいる。

「あははっ、冗談の通じんやつめ〜」

「残念ながら、得体の知れない人の冗談なんか笑う余裕ないです」

「ええ?自己紹介はもうしたじゃん」

「無職と偽名じゃ信用出来ません」

「無職じゃなくて無収入だよ。ちゃんと小説家って肩書きが付いてるんだから」

 心底どうでもいい。私からしたら無職も無収入小説家もどっちも同じに見える。

「そういえば、君の名前を聞いてなかったよね。私ばっかり名乗るのは不平等だと思うなぁ」

「……」

 私は答えずに寝室へ行って、スーツの上着だけ脱いでハンガーにかける。すると、後ろから彼女がついてきた。

「ねーえー、教えてくれないと小説家の手腕で勝手にあだ名つけちゃうよ。いいの?」

「……笹島」

 外の表札を見ればすぐわかる程度の情報を出してやる。その気になれば部屋に散らかったものを漁れば私の本名なんかすぐ分かるだろうに。

「よしじゃあ、ササちゃんって呼ぶことにしよう。あ、わたしのことも気軽に小春って呼んでいいからね」

「呼ばないですよ」

 彼女は私の拒絶を聞かずに話を続ける。

「それで、ササちゃんは何歳?」

「27ですけど」

 人の個人情報を自ら吐かせようとしてくるその姿勢も嫌だし、それに答える私もどうかしていて嫌だ。

「おぉー。一番寄生しがいのある年齢じゃん」

「最低ですね」

 いったい今まで何人くらいに食い物にしてきたのか。知りたくもない。

「まあまあ、そうジトジトしないで。あ、そうだ!せっかくわたしのこと3000円でお買い上げいただいたわけだし、何かいいことしてあげよう!」

 そう言って小春さんは人の家の押し入れを無遠慮に開け、何か探し始める。探し者は布団だったらしく、それを引っ張り出してくると、手際よく敷いてその上に無遠慮にポンと正座した。

「はい、ササちゃん。膝枕〜。今なら3000円分サービスしちゃう」

 そんなことを言いつつ、こちらを見上げて微笑んでいる。擬似餌を垂らした捕食者みたいだと思った。

「人の布団勝手に使わないで下さいよ」

 私は溜め息をつく。彼女のペースに乗せられているのは面白くないが、このままいくら追い出そうとしても意味が無いことはもう確信し始めていた。

「ほれほれ〜。こんなサービス滅多にしませんよ〜」

 どうせ渡した3000円が返ってこないのなら大人しくサービスされた方が得かな、なんて考えが頭をよぎったが、すぐに打ち消す。他人の温もりを金で買うほど落ちぶれてはいないし、そうなる予定もない。人肌が恋しすぎてそういうのに狂った友人を知っているから尚更。

「結構です」

「えぇー、興味ないの?せっかくわたしを飼ってるんだからさぁ、奉仕させた方がお得だよ?」

「どうせ飼うなら可愛い犬猫がよかったです」

「な〜ん〜で~」

 私がそう言うと、小春さんはくねくねと駄々をこね始める。いちいちオーバーリアクションなのはわざとなのか天然なのか、判断しづらい。

「嫌いなんですよ。人が」

「ひゅー。ニヒルで格好いいですー、ご主人様ぁ」

「無駄口叩くペットは追い出しますよ」

「あははっ、それは困るな〜」

 この居候は相変わらずふざけきっている。どれだけこっちが冷たくあしらっても全く動じないし、むしろ楽しんでいる節すらある。

「はい。というわけで、膝枕をどうぞ!」

 どういうわけだ。今までの会話に本当に参加していたのか疑う。けれど、これ以上無駄に会話をしても、頭痛が酷くなるだけな気もしたので、諦めることにした。

「おお、急に素直になった」

「従ったんですからこれ終わったら出てって下さいね」

「えーやだ」

 ポンと頭を置くなり撫でられる。意外と悪くない感触だった。こんな風に誰かに一瞬でも気を許したのはいつぶりだろうか。少なくとも、社会人なってからは記憶に無い。

「ササちゃん髪サラッサラだねぇ。毎日お風呂入ってる?」

「……沸かしといて下さい」

「偉〜い。わたしなんか3日に1回しか入らないのに〜」

眠い。小春さんの体温が心地よいせいか、それとも頭を撫でられているからか、意識がどんどん薄れていく。頭痛と眠気で思考もままならない。

 昨日もこんな感じのことがあった気がする。その記憶を引きずり出す前に私は深く沈みこんでしまった。



「……ぅ……ぁ」

 目が覚めた。自分の声とは思えない程ガラついた、掠れた声が自分の喉から漏れる。スマホで時計を見ると、時刻は午前4時。まだ外は薄暗い。寝汗をかいていたようで、下着の中まで湿っていた。

「……気持ち悪い」

 体が重い上に関節痛、鼻詰まり、熱っぽいのに寒気を感じる。典型的な風邪の症状だ。昨日まではこうではなかったのに。昨日までは健康だったのに。私はこんな風に体調を崩したと自覚するまでいつも自身が健やかに生きていたことを忘れてしまう。

 そんな私の隣では小春さんがすやすやと眠っていた。よくもまあ人の家に来てここまで熟睡できるものだと思ったが、他人に寄生する図太い精神の持ち主なら当たり前かとも納得した。

 起き上がると、思った以上に頭がくらっとしていた。視界もぼやけているし、目眩も酷い。シャワーでも浴びようとしたけど、多分無理だろう。

 再び倒れ込んだ後、近くに落ちているスマホを持ってきて先輩に休みの連絡と謝罪を入れる。そしてそのまま泥のように眠りにつこうとした所で、隣で眠っていたはずの小春さんと目が合った。

「おはようございまーす。いやー、ちょっと早すぎますかね」

 早朝だからなのか声が控えめだった。何故その気遣いを常に発揮できないのか理解に苦しむ。

「…………」

 体調が悪くて答える言葉なんかなかったので黙って目を瞑る。すると彼女は私の頬に手を当ててきた。

「なんか熱くない?」

「……発熱中なので」

「ふーん、そっか」

 病人を前にその一言で済ませるなんて、この人は人間としてどうかしている。そんな分かりきったことを何回も理解させてくる。

「あの……、看病とかしてくれないんですか?それじゃあ一級品の屑ですよ」

 出会ってまだ2日くらいなのに、この人に対しては自然と悪態をつく癖がついてしまったようだった。考えなしに次々と暴言が出てくる。

「じゃあ何すればいい?添い寝しながら耳元で愛を囁けばいいのかな?」

「……汗まみれなのでシャワー浴びたいです」

「おっけー。連れていってあげる」

 そう言って小春さんは立ち上がり、私をお姫様抱っこで持ち上げようと私の背中と足に手を入れた。

「あ待ってやっぱ無理」

 身体が数センチ浮いてから、静かに着地させられる。

「よし、肩を貸す方法にしよう」

 今度は背負い投げのような感じで手を掴まれて引っ張り上げられ、小春さんの頭が私の脇の下に入る形となる。

「じゃあ行こっか」

「はい」

 私の方が背が低いせいで脚がやや浮いていて歩きにくい。あと地味に揺れる。

「ごめんね〜、ちょっと我慢して〜」

「……うっぷ」

 少し吐き気がしてきた。胃酸が食道を逆流してくるような不快感。さっきまではなんともなかったのに、随分と急な体調の悪化だった。

「はい、到着。自分で服脱げる?手伝おうか?あ!まさかわたしを脱がせたり!?」

「いえ結構です。一人でできるので……」

 こんな時までふざけた態度を崩さないのは予想通りだが、今はとにかくしんどい。

「はーい。じゃあ頑張ってね」

 他人事のように──いや、実際に他人なのだけれど──そう言い残し、小春さんは浴室から出ていった。

 それから、脱衣所が静かになるのを待っていたかのように一気に吐き気が押し寄せてきた。

「うっ……おぇっ」

 最後の余力で浴室に行き、吐く。口の中に溜まっていた粘性の高い液体が排水溝に流れていった。気分は怠いが少し楽になる。

「はぁ……。最悪」

 不快なそれを冷たいシャワーで流してから服を脱ぐ。汗が引いてきて、体表が冷えるのを感じる。

「さむ」

 独り言ちてから、温まってきたシャワーを自分に向ける。風邪の高体温に温水が乗算されて今度は暑苦しい。ぼーっとする。

 そんな中、水の流れる音に混じって後ろから物音がする。振り返るとそこには小春さんが全裸で立っていた。

「へへ、来ちゃった。だって、お風呂で倒れてたら大変だもんね」

 薄っぺらい口実。この人に他人の心配をする脳の分野があるとは思えない。きっとただのきまぐれだ。

「……シャワーひとつしかないので、そこでつっ立ってて下さい」

 湯船沸かしてないのに複数人で風呂に入る意味が分からない。それに、うるさいのが近くにいると余計風邪が悪化する。

「いやー、そんなこと言わないでさ。もっと合理的になろうよ合理的に」

 そんな言葉と共に小春さんは後ろから私の手首ごとシャワーを奪い取り、お湯を浴びてしっとり濡れた私の肌から水分を奪うかのように身体を密着させてきた。

「ほら、こうしたら2人で浴びられるでしょ?水道代も節約できて一石二鳥!」

「……風邪が感染りますよ」

「大丈夫。もう既に手遅れだから」

 冬の乾いた空気のようにさらりと通り抜ける声。なにも温度は感じられない。何が大丈夫なのかは分からないが、この人が色々と手遅れなのは間違いなかった。特に精神が末期的に狂っている。

「それにササちゃんはずっとわたしの胸見てるじゃん。こういうシチュエーション好きなんじゃない?こうやって背中に押し付けられたり──」

 言いがかりだった。私たちは同性であって、身体のつくりはそこまで変わらない。多少の差はあっても、自分にも有るものに何故興奮しなければいけないのか。

 恋愛感情とは所詮無いものねだりだ。自分に足りないものを強引に埋めようとしているだけ。

「ちぇ。反応薄いなー。つまんないのー」

 手首が掴まれておりシャワーのコントロールが握られている上に、太ももを擦りつけられる。私を後ろから支配しようとしているような、そんな気さえしてくる。

「小春さんって、そっちの気ですか?」

「あ、初めて名前呼んでくれた」

「質問に答えてください」

 止まない頭痛の中で絞り出した質問だから、はぐらかされると苛つく。

「んー。正直分かんない。人を好きになったことなんかないから」

 初対面から、愛が愛だのとうるさくしていたのはそういうわけかと腑に落ちる。その一方で、好意無しにこれほどのスキンシップをできることにも恐怖した。

「それならこの手と足はなんですか」

「これ? これは求愛行動。わたしは人を好きになれないかもしれないけど、相手には好きになってほしいんだよね。だからこうして身体に教え込むの」

「最低」

「うん、知ってる」

 最低、屑、自分勝手。つくづく罵る言葉に欠かない人だ。己の為だけに他人を振り回すことを厭わない。そして、自分の思い通りに事を運ぼうとする。

「ササちゃんは全然デレてくれないなー。よし、サービスで頭も洗ってあげよう」

 そう言って小春さんはシャンプーを手に出して私の頭を洗い始めた。髪の隙間に指が入り込み、わしゃわしゃと泡立つ音が聞こえる。

「どうかな、わたしのこと好きになった?惚れた?」

「もっと嫌いになりました」

「それは残念」

 ぼーっとした頭ごとかき混ぜられるかのように髪が弄ばれる。面倒見のよさそうな、器用そうな手つき。

「はーい。流すねー」

 そう言われて、泡が目に入ってこないよういっそう固く目を瞑る。ざぱぁ、という水音とともに頭が軽くなった。このまま、背中にへばり付いているものも全部流れていけばいいのに。



 シャワーで汗を流したのはいいものの、上がってから思い出したかのように体調が悪化していた。体温計が無いので正確な数値は分からないが体感では確実に上がっている。毒のように全身を駆け巡る熱に邪魔されながら布団を被る。

 例の居候は、またサービスと称して私の髪を乾かした後、全裸で部屋をほっつき始めたのでとりあえず私の服を貸してやると、私より先に二度寝に興じてしまった。私には女体の彫像を飾るような趣味も感性もない。

「…………」

 私も寝る。寝るといったら寝る。眠いから寝る。それだけ。

 月見里 小春。……小春さんの胸の感触を背中で思い出す。あの時、彼女が自らの性的嗜好を断言していたならば、私は今度こそ本気で彼女を追い出していたかもしれない。あの状況で背面につき飛ばして、顔を殴ることだって厭わなかったかもしれない。

 本当はそんなわけじゃないかもしれないけど、女なら誰でもいいんだとか人間なら誰でもいいんだとか、そういう風に解釈してしまうかもしれない。というか今もしてる。

吐きたくなるほど、昔の嫌な記憶と今の感情が混ざり合ってぐちゃぐちゃになる。

「……きもちわるい」

 気持ち悪い。気持ち悪い。何もかもが気持ち悪く思えてくる。

 頭痛で歪んだ脳と精神と思考が、変なことを次々と壊れたコピー機みたいにガーガーと吐き散らかす。

 『あなたのことが好き』なんて言葉は全部嘘。その視線は私の奥底に1mmだって届かない。私の体温を欲しているだけ。冷えついたこの心なんかじゃなくて、ただ無意味に流れるあつい血潮の通った肉塊を。

 私の隣で色々な人に口をつけては散々吐いて、捨てて、しまいには『本当の愛は一番側にあったんだ』なんてぬかした古い友人。

 そんな友人を私は本気で拒絶した。

「本当は誰でもいいんだよそんなの」

 そんな言葉をぶつけたら、友人は私の人生の中に現れた奈落の底へと消えていった。

 他人の末路なんて、知らない。

 嗚咽が漏れそうになるのを必死に抑えて、寝返りを打つ。枕に顔を埋めて、涙が滲む目元を押し付け、息苦しさと頭痛を感じながらようやくそれを忘れられた。



 次に目を覚ました時には、顔を埋めているものが枕から何かに変わっていた。それは、すうすうと音をたてて僅かに膨張と収縮を繰り返している。私の呼吸もそのリズムにつられて、まるで自分のペースでは生きていないような錯覚に陥る。

 小春さんに抱き枕にされていた。私の身体に腕を巻きつけ、足を絡めて、胸に私の顔を押し付けて眠っている。息が苦しい。

 この光景に既視を感じてようやく、彼女の寝相が最悪なことを思い出す。この部屋に来た初日から馴れ馴れしく私に添い寝しては身体を絡ませてきたのだった。

「んん……あふ」

 私が身動きする度に謎の言語が発され、拘束が緩む様子はない。

「んんむ……」

 何度目かの抵抗の末、ようやく脱出に成功する。そしてそのまま静かに明滅する視界の中を進み台所にたどり着くと、水道水を飲んで渇いた喉を潤す。

「はぁ……」

 少し慣れてきた視界で棚から風邪薬を漁り、2杯目の水で流しこんだ。

 そういえば、いつから錠剤をすんなり飲めるようになったんだっけ。子供のころは粉薬すら飲めなかった気がする。

 薬を飲むことに慣れない方がいい。服薬の時はいつだって死が近いように思う。

「……」

 コップを洗う水が冷たい。指先の感覚がなくなっていくのをじっと感じながら、ぼんやりとした意識の中で、何かを思い出しそうになっていた。

 頭痛がノイズのように走る脳内でそれを追いかける。どうにか指先が触れそうになったところでそれは霧散した。

「さーさーちゃん」

 不意に後ろから声をかけられて思わず振り返る。そこには、いつの間にか起きていた小春さんがいた。

「なんですか」

「急にいなくならないでよーもう」

「そっちが勝手にくっついてただけでしょう」

「でも寂しいじゃん」

「知りませんよ」

「ほら、一緒に寝よ? 風邪なんて寝てれば治るって」

 小春さんに唆かされるがままに私は布団へと引き戻される。風邪なんてひいていなければ社会人として跳ね除けられた誘惑も、今はどうしようもなく抗い難い。

「ササちゃんは、わたしのことに興味ある?」

「無いです」

「そっか。それじゃ、今から持ってね?」

 そう言って彼女は私を抱きしめ、足を絡ませて再び自分用の抱き枕を作ると、私の頭を撫でてきた。

「……」

 私は何も言わずに黙っていた。ただ、布団の中で熱に冒された身体を預けていた。

「わたしさぁ、中高って演劇部に入っててそこで部員のみんなから結構慕われてたんだよね。“お姉ちゃん”ってさー」

 私の髪に指を通しながら、小春さんは話し始めた。正直、彼女がどんな人生を歩んできたのかなんて知ったことではないし、知って得することは何もないと思う。

「それで、高校生の時は台本も書いてたんだけど、それが我ながら良く出来てるんだよねぇ。文化祭でも好評だったし。あれは良かったな。今でも覚えてる」

 だけど、その話を聞こうと思ったのは、小春さんの体温が心地よかったからかもしれない。あるいは、ただ単に思考するのが面倒くさかっただけかもしれない。

「そのまま調子に乗って、小説も書き始めてみたらこれが大当たり。文芸誌に載ったのがキッカケで作家デビュー!すごいでしょ?」

 小春さんは思い出話と私の髪をいじるのをやめない。レコードが再生されるかのように、人差し指で私の髪をくるくると弄びながら言葉を続ける。

「高校生でデビューして卒業後は大学と二足わらじでって、やってきたんだけど、なんか物足りなかったんだよね。それに、それ以外なんもしてこなかったから、大学出てから何すれば良いのか分かんなくなってさ」

「……」

「とりあえず、元演劇部のみんなのとこ行ってヒモ生活してたんだけど、みんなすぐわたしのこと追い出しちゃうんだよ。持って2、3日くらい?酷いよね」

 身体が回復を求める中、私は彼女の言葉をぼんやりと聞いていた。

「それでついこの前までは同級生で、私がいつもお世話になってる出版社に就職できたって報告してきた子のとこでしばらく暮らしてたんだけど──」

 淡々と語られる彼女の言葉。懐古、自慢、愚痴。そこに乗せられた感情のどれもが作り物に聞こえる。

「ある時、その子が当時から──演劇部の時からずっとわたしのこと好きだったって言ってきたんだよ。あ、女の子ね」

「……」

「それを聞いてわたしもう、すっごく気持ち良かった。憧れとか尊敬を向けられるのってとってもいい。それ無しにわたしは生きていけない」

 小春さんは、私の身体を強く抱き締める。その抱擁は痛くて苦しくて、息が詰まる。

「でもさ、その子の“好き”はそんなんじゃ収まらなかったんだよ。遠くから眺めているだけじゃ我慢できなくて、近くにいるうちにもっと欲しくなって、だから告白した。それだけなんだよ。それがどうにも嫌で、嫌で。結局その子のヒスから逃げてきちゃった」

 自分の身体が震えているのを感じる。奥歯が自然にがちがち鳴る。無意識に、余計に、温かさを求めて小春さんに身体を寄せる。

「愛っていうのはきっと、人を対等にするんだろうね。でもそれはわたしにとっての理想じゃない。わたしは誰よりも上にいたいから」

「……」

「憧れの的になって、羨望の眼差しを浴びて、特別になりたい。それがわたし。でもそんな生き方してきたら、ずっと出来ないことが一つあったんだ」

 ここで私への拘束が緩み、小春さんの身体が翻る。そして、私は布団に押し倒され、小春さんはその上に覆い被さるような体勢になる。

「誰かに甘えてみたかった。だからササちゃんにもう一度お願い。わたしに憧れて、尊敬して、わたしを慕って、わたしを好きになって、そしてわたしを甘やかして。可愛がって。わたしはペットで、ササちゃんが飼い主。でもわたしが上でササちゃんは下。そんな関係がいい」

 そう言うと小春さんは体重をかけてわたしの胸に顔を埋めてくる。そして私の腕を自分の背中に導いて、慈愛の心を仕立て上げる。

「年上の人に甘えるなんて初めてだな。親も先輩もわたしを子供扱いなんてしてくれなかったから」

 小春さんは私の胸の中でくぐもった声で言った。

 可哀想な人だと思う。手先は器用でも楽に生きていくのが誰よりも難しくて、その幼稚さを表に出すところだって愚かしい。そこに惹かれる人間も居るのだろうけれど、同情なんてしてあげられなかった。

 けれど。

 正直言って私は演劇や文才なんてものとは無縁で、彼女がそこでどれだけ凄いことをしたのか、彼女に惹かれた人がどれほど居たのかなんて知らないし、それ故に彼女に羨望や尊敬を向ける道理なんてない。

 それでも。

「辛かったね、小春」

 この状況で一番彼女が望んでいるだろう言葉を投げてやった。このとき自分がどんな顔をしてこんな洒落臭い言葉を吐いたかなんて知りたくもない。

 風邪に心と体が疲れていたのかあるいは、ただほんの少し3000円分の温もりが惜しく思えただけだったかもしれない。

「ありがとう」

 泣いているらしかった。胸に湿って生ぬるいものが沁みていく。それが私の内側から生じた曇り空のようだった。

 どうしようもなく不快なはずなのにそれを突っぱねられないのはきっと、もう既に私はこの屑ヒモ女に絆された後なのだろう。

 周りの人間を誑かして、自分が欲しいものを全て手に入れる。そんな彼女という人間を大嫌いだと思った。



 それから2日間、風邪を拗らせたらしく私はひたすら寝込んだ。その間、小春さんは“give and take”という言葉を少しは覚えたようで、私の指示でお粥なんか作ってくれたり、軽いお使いくらいはこなしてくれたりした。

 ただ、「あーんしてあげる」だとか、食べる度に「よく食べて偉いねぇ」とか言ってきたのは流石に鬱陶しかった。

 しかしそんなお姉さん風を吹かせた振る舞いは「小春」と呼び捨てにしてやると途端に鳴りを潜める。どうやら私はこの珍妙なペットの扱い方を覚えてしまったらしい。

 猫なんかよりもずっと気まぐれで、手がかかって、まるで犬のように愛情を求めてくる。面倒くさくてうざったくてしょうがないけれど、放っておくのは勿体無いと無意識に思わせてしまうような、不思議な魅力があるのがこの女の厄介さだ。

 そんなペットと一つ屋根の下、私は体調を回復し、少しずつこの日常に馴染んでいった。

一方で、唐突に私の日常に転がりこんできた彼女の存在があまりにもふわふわと軽すぎて、いつかの目覚めた朝に彼女は消えているんじゃないかとも思った。その時の感情を期待と不安のどちらに分類したら良いのか私には分からなかった。

 ただ一つだけ言えるのは、この関係は誰の目に見ても、いけない泥濘だということだけ。

 それでも、騙されてみれば案外居心地が良かったのだからもう、どうしようもない。

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