第25話 彼女との日々(20)
土曜日。
朝六時。
雅人は不思議と目が覚める。
喉が渇いた。水でも飲もう。
身体を起こし、ベッドから身体を離す。
リビングへ向かうと、母親が仕事から帰って来たのかリビングにいた。
「おはよう、雅人」
「おはよう、母さん」
「珍しいわね、雅人がこの時間に起きるなんて」
無表情に近い淡々とした顔で言った。
「うん。僕も不思議だよ」
いつもは昼間まで寝ている。
しかし、今日は目覚めが良かった。
「私はもう寝るけど、最近はどう?」
眠たそうなあくびをして、ゆっくりと首を傾げる。
「最近?」
「ええ。学校は楽しい?」
「うーん、まあ」
少なくとも学校は苦痛でも無く、辛くも無い。
「そう。……そのうち、進学するか考えないとね」
どこか困った表情で母は言った。
「大学?」
専門学校、短期大学もあるが、どうせ母はそれしか考えていないだろう。
「ええ。お父さんは大学に行って欲しいって言っているけど」
「大学か……」
母の学歴は大学卒。父は大学院卒だ。
二人にとって、大学への進学は当たり前なこと。
大学進学は約三年後の話。
そんな未来など僕には無いのだけど。
「雅人は……やりたい仕事とかあるの?」
「やりたい仕事?」
「ええ。それ次第で大学よりも、専門学校に行った方が良いかもしれないし」
その言い方だと、母は大学以外も視野に入れてくれている様だ。
「でも、父さんは大学の方が良いって言っているんでしょ?」
「あくまでひで――父さんの意見よ。そんなの私が却下するだけだもの」
母は一瞬、父を名で呼ぼうとした。
秀人、それが父の名である。
「あ、そうなの」
雅人は呆気に取られた顔をする。
父が海外へ転勤になる前から、我が家の力関係は母の方が強かった。
母の言葉に反論した父は見たことが無い。
「だから、好きな仕事をしなさい」
心がこもった様にはっきりと言い切る。
「好きな仕事?」
「ええ。あなたは嫌いなこと続けられないでしょ?」
「うーん、まあそうだね」
母は僕の性格をよく知っている。
嫌いなことを続ける集中力は僕には無かった。
「だから、好きな仕事に就いた方が良いでしょ。少しでもあなたが社会で生きられる環境は大事だもの」
「社会で生きられるか」
母なりの心配であり、願いであった。
ごめん、母さん。
僕はその社会に羽ばたくことは無いんだよ。
「ええ。まあ、そのうちで良いわよ。まだやりたいことなんてわからないだろうし」
「うん。わかった」
言葉だけは受け取っておく。
会話が終わる。
ふと雅人は両親のことを考えた。
父は寡黙な人。
遊んでもらった記憶はほとんど無かった。
母いわく、僕と父は容姿が似ていると言う。
別に僕は寡黙とまでもいかないし、技術者に慣れるほどの学力も無い。
容姿だけ似ていても、父の血が通っていても、僕は父の様にはなれなかった。
母は良くも悪くも淡白な人だった。
自身のことに対しても客観的に語る。
もしかしたら、性格は母に似ているのかもしれない。
子供の頃、母はよく公園で遊んでくれた。
運動神経が悪い癖に。
あの頃の母は無邪気に笑うことが多かった。
今は笑うことすら珍しい。
それに母は料理があまり得意では無い。
年に二回ぐらいは砂糖と塩を間違えるほど。
母が夜勤のなる前までは、家族のご飯を作るのは雅人の方が多かった。
別に僕は愛されていない訳では無い。
それは自分でもわかっていた。
でも、本当は違う様な違和感がこの家庭にはある。
当たり障りない関係がここにはあった。
僕が見た限り、両親の仲はとても良いとは思えない。
二人が笑顔で話しているところを見たことが無かった。
そんな二人がなぜ結婚したのか。
純粋な疑問が頭に過った。
「ねえ、母さん」
「何?」
話しかけられたのが想定外だったのか、驚いた顔をしている。
「母さんはどうして父さんと結婚したの?」
「えっ……何? まさか――彼女でも出来たの?」
眉間にしわを寄せ、解せない顔をする。
少し茶髪の長い髪。
母は整った容姿をしていた。
授業参観の時にクラスメイトに母を褒められたことがある。
確かに母は美人なのだ。
「いや、そう言うわけじゃないけど…」
それに詩織は彼女では無い。――恋人と言う存在ではあれど。
「あら、そう。それで、私たちが結婚した理由?」
「うん」
「それは――好きだったからに決まっているでしょ」
淡々と告げる。
しかし、母は目を合わせてくれなかった。
「好きだった?」
だったと言うことは過去形の言葉である。
「ええ。今はもう好きと言う感情では無いけど」
無理やり熱を冷ましている様な冷めた顔で言った。
「あ、そうなんだ……」
もう父のことを好きでは無い。雅人は察した。
「雅人もその好きな人と結婚すればわかるわよ。いつか、好きと言う感情は変わるのよ」
「……覚えておくよ」
そうなる日は来ないだろうけど。ごめん、母さん。
「それじゃ、お休み」
そう言うと母は自室へと戻って行った。
「お休みなさい」
こんなに話したのは、二か月ぶりだろうか。
一緒に暮らしていても、こんなに話さないものだろうか。
もしかしたら、最期の会話かもしれない。
それでも、不思議とこれ以上の会話を望まなかった。
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