第4話 最期の戯れ(2)
思わず、手を止めた。
視界に思考が落ち着かない。
硬直。
まるで時が止まったと錯覚するほどの静止。
僕は夢でも見ているのだろうか。
今までのは、僕の夢――悪い夢。
冷める熱量。
雅人は絶望感に襲われる様に冷や汗を掻いていた。
目の前にいるのは、才色兼備の美少女。
夢にまで見た狂おしい最愛の存在。
目に映るのは、はだけたブラウスと黒の下着。
そして――。
雅人はゆっくりと再び息を飲んだ。
――数多の『痣』
絶句。
目の前の光景。
数秒経った今も、雅人の思考は現実に追いついていなかった。
暴力を受けた様な小さな痣。
白い肌に目立つ内出血の様な赤い斑点模様。
それは胸元、腹部と言ったあらゆる部位に付いている。
呼吸が出来なかった。
僕は何を考えていたのか、何をしていたのか。
こんな彼女に僕は何をしようとしていたのか。
罪悪感では無い。
それすらも一掃する、
無に等しい真っ白な感情。
この気持ちは何なのか――。
雅人はこの感情の名を知らなかった。
「ねえ、佐伯くん」
言葉を失う雅人に、詩織は落ち着いた声を上げる。
身体を起こし、ゆっくりと右手で肌を隠す様にブラウスを羽織った。
喜怒哀楽。
それすらも感じない無の雰囲気。
彼女は今、何を思うのか。
「――ごめん」
雅人は一歩引いた。
本来は離れようとしていたはず。
しかし、離れられなかった。
その理由は想定外のものだった。
離れようとした雅人を詩織が止めたのだ。
「ねえ、教えてよ。どうして私を選んだのか」
雅人の腕を弱々しく掴む詩織の右手。
長袖の裾から見えた一線の自傷の跡。
雅人は見開こうとする目を必死に止めた。
驚いてはいけない。不思議と雅人は思ったのだ。
今まで抱いていた彼女の印象。
僕が愛した彼女の容姿、笑顔、声、雰囲気、その全て。
こんな彼女、知らない。
目の前の彼女は、僕が愛した神崎詩織では無かった。
落ちて割れるガラスの様に。
雅人の思いは一瞬にして砕けて散った。
「それは…。神崎のことが好きだったからだよ」
肩を落とし、白状する様に雅人は告げた。
場所はさておき、こんな場面で告白するもんじゃない。
しかも、好きと言う感情は経った今、冷めてしまったと言うのに。
「好き……か。佐伯くんは好きな女の子にこういう事するの?」
自身を見つめた後、詩織は不機嫌そうに目を細める。
彼女のその動作はどこか他人事の様に見えた。
さっきまで僕にされていたことを忘れている訳では無いのに。
「んー、そうじゃないと言いたいけど。まあ、結果的にそうだよね」
言い逃れは出来ない。
結果的に僕は彼女に暴力を振るった。
本当は話すところから始まりたかった。
二人で話すことに緊張して、デートに誘う方法も一日中考えて。
そうしたかったのは事実。
フラれるか、フラれないかはさておき。
それも、僕がこれからも生きる前提の話。
だって、僕は死ぬつもりなんだもの。
思い描いていた過程の時間さえも惜しい。
これは生き急ぐならぬ、死に急いだ結果だった。
「それで何も言わずに、あなたはあなた自身が大好きな私を犯そうとしていたの?」
ソファーの上で女の子座りをすると、詩織は事の経緯を雅人に確認する。
乱れたブラウス姿の詩織。
その光景に雅人は息を飲んだ。
「――そうなるね」
あまりの色っぽさに雅人は思わず、視線を逸らす。
と言うより、あの神崎から犯すと言う言葉が出るとは。
むしろ、その言葉を知っていること自体に驚いた。
優等生の委員長の一面からは考えられないその言葉。
「そうなのね…。ところで、どうして私のことが好きなの?」
感心した顔で小さく頷くと、ゆっくりと顔を上げた。
「んー」
本人に直接言われると、中々言葉が出て来ない。
彼女の好きな理由。
頭に過る入学してからの半年間。
理由は一つでは無かった。
「見た目……? そんなに胸は無いわよ?」
自身の身体を見つめ、詩織は納得した顔で首を傾げた。
巨乳では無い。
しかし、貧乳でも無い。
所謂、微乳の分類だろう。
「無い……訳じゃないでしょ?」
僕は何を言っているのか。
無駄に冷静だった。
「うん、まあ……。佐伯くんはこのくらいが好きなの?」
自身の胸の厚みを確かめる様に触る。
「うん、まあ」
自然と彼女と同じ様な返事をする。
雅人はその厚みを知っていた。
無論、先ほど無抵抗な彼女の胸を鷲掴みしたからである。
「……だから、すぐさま胸を揉んだのね」
察した様に詩織は眉間にしわを寄せ、目を細めた。
「はい…」
その衝動に駆られた理由。
確かにその容姿だけど。
「それでどうだったの?」
「どうだった?」
「――感想よ」
「良かったです」
思わず即答。
自然と本心を隠す気はもう無かった。
「良かった?」
「気持ち良かった……です」
程良い弾力。女子の胸の感触。
例えられる物が何一つ無かった。
「あら、それなら良かった」
詩織は僅かながら満ち足りた笑みを零した。
「良かったの……?」
服を脱がされ、同意無く胸を揉まれたのに。
僕は良くても、彼女にとって良かったことなんて何一つ無いだろうに。
「それで――。それであなたはこれからどうしようとしているの?」
どこか他人事。
詩織は想像以上に冷静だった。
いつも落ち着いた委員長。
こんな場面でも彼女は冷静なのか。
落ち着いた――と言うよりは、無関心に近い様に見えた。
「これからと言うと?」
恐る恐る聞いた。
「これから、あなたは私に何をしようとしたの?」
説明を求める様な眼差し。
知的そうなその口調。
雅人の知る詩織だった。
「……えっちを強要しようとしました」
白状。ここまで言ったからには話すのが筋だろう。
雅人はそんな気がしていた。
「随分素直なのね」
意外そうな眼差しを向ける。
「そりゃ――ね」
困った顔で雅人は詩織の身体を見つめた。
事情が変わる。
あくまで過去形だ。
もう強要したいと言う気持ちは無い。
けれども不思議と後悔は無かった。
本来であれば、見てはいけないものを見てしまったと言う気持ちになるだろうに。
「ねえ、佐伯くん」
どことなく遠い誰かを呼ぶ様な口調。
「はい、何でしょう」
恐る恐る詩織の隣に座った。
警察呼ぶとかそう言う話だろうか。
途端に緊張してくる。
呼ばれてもしょうがない。
それほどのことを僕は彼女にした。
それは間違いない。
「しっかりと話すのは初めてよね?」
「――そうだね」
しっかりと――。
その言葉の通り、ここまで意識して話したのはこれが初めてだろう。
「どうして私がここに来たと思う?」
彼女の問い。
どうして、彼女はここに来たのか。
「ここに来た理由?」
来てくれると言う事実、それに浮かれていて理由なんて考えていなかった。
現にこうして、彼女の胸を触るところまで漕ぎ着けた。
すると、詩織は両手を輪の様にして雅人の首に掛けた。
雅人の耳元で詩織はゆっくりと告げる。
「――だって、あなたは私と同じ目をしているもの」
一瞬で脳内を支配する彼女の声。
世界で最も愛した彼女の声。
僕は死ぬまで忘れない。
透き通った天使の様なその声を。
「同じ目……?」
僕と同じ目。
それ以前に僕はどんな目をしているのか。
それすらもわからなかった。
「ええ。気づかなかった?」
「……うん」
そりゃそうだ。
好きな人の目なんて緊張して見れないもの。
澄んだ綺麗な君の瞳。
見ても良いと言われれば、僕は一日中見つめているかもしれない。
「だから、私はあなたの誘いに乗ったのよ」
そう言うとゆっくりと雅人をソファーへと押し倒す。
同じ目をしているから、
彼女は僕の誘いに応じた。
――なぜ。
「え――?」
背中に感じる革の質感。
なぜ僕がソファーに仰向けになっているのか。
追撃。
飛び掛かる勢いで詩織は、仰向けの雅人に馬乗りで乗った。
そして、雅人の両太ももを詩織は自身の股で挟む。
「ねえ、佐伯くん。教えてよ」
どこか冷めた様な眼差しを雅人へ向けた。
確証は無いけど、その対象は僕に対してでは無いだろう。
肌から伝わる彼女の体温。
不思議と冷めたはずの熱量が戻って行く。
やはり、僕はどんな姿であれ、神崎詩織が好きなのだ。
その事実は確信に変わる。
「教える……?」
何を教えるのか。
死のうとしている僕が何を。
こんな僕が優等生の君に教えられることがあるのだろうか。
そして、諦めた様な儚げな顔で彼女は告げた。
――『生』の価値を。
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