月行鯨

そらのくじら

月行鯨

 鯨が泳いでいる。

 静寂の中、大きな体が、夜を切る。口を開けて、月を含んだ。膨らんだ畝須から、薄く光る、薄黄色の霧を吐き出す。

 鯨の背中に、豪壮な、真っ白い城が建っているのが見えた。円形の塔が立ち並び、紋章がはためく。石肌が白く煌めき、鯨の体から伸びる跳ね橋が揺れた。

 城の下には、青々とした草木が茂っている。捻れた大樹と、その根元に広がる草原。草花の隙間から、時折蝶が顔を出す。鱗粉が、空中に線を描きながら宙を舞う。

 城塞塔の一部を崩れ落ちさせながら、鯨が空中で身をひねった。落ちてきた砂が手を撫でると、どこか知らない、花畑が脳裏をよぎる。大切だ、と言う気持ちだけが、胸の中に溢れかえった。

 ここで私は、これが夢なんだと気が付いた。

 懐かしさと愛しさに溢れた、穏やかな夢だった。


 ぽこん、と間抜けな音が、制服のポケットから飛び出る。携帯を開くと、演劇部のグループチャットで、役決めはどうなったのか、という質問に、ひかりが答えていた。

 日野ひかり。明るく眩しい、私の友人。私たちは、学校の演劇部に所属している。

 私たちの学校の文化祭は、姫百合祭と呼ばれ、古くから地域の人に親しまれてきた。部活動に力を注ぐ校風と、都会から少し離れたのんびりとした雰囲気に後押しされ、毎年盛大に開催される。

 その中でも期待されているのが、演劇部の長編劇だ。恋愛、友情、ファンタジーと幅広く扱う演劇部は、三年前の全国高校生演劇コンテストで表彰されたこともあり、文化祭でも注目の的だった。

 そんな演劇部で今問題になっているのが、次の劇の役決め、主役争いだ。

 誰がやるのか。自分がやりたい。自分でなくとも、あいつにはやって欲しくない。

 まさに一触即発。

 そんな中、顧問の先生は、私に主役をしないか、と薦めてきた。生徒間のばちばちとした冷戦状態なんて、知らないのだろう。

 顧問の先生は変なところばかりよく見ているから、私が今回、台本作りから舞台設定まで、いろいろと拘っているのに気付いたのかもしれない。

 今回の劇の主役は、龍を祀る村に住む女の子。最終的には、村を守るために外の国に嫁いでいくわけだが、その子の雰囲気と私の相性がいいんだとか。最後なのだからと、眉を下げる先生の顔が頭を過ぎる。

 それでも、私が主役じゃ、きっとみんな満足しない。私が一番分かっている。

 ひかりなら、みんな諦めてくれる。仕方ない、と言って、いつもの部活に戻れる。でも、私がやるとなったら、そうはいかない。

 人には、持って生まれた役目がある。私には、主役どころか、舞台に出るのだって、荷が重すぎる。

 結局私は辞退した。代わりに、ひかりを推薦して。それを聞きつけたひかりは、私を説得しようと試みた。

「そんなことは、分かってるよ」

 頭の中でひかりの、この劇に一番拘ってたじゃない、というセリフが木霊する。

 ぽこぽこと間の抜ける音を出して、チャットのメッセージが更新されていく。メンバーの、役決定の新情報を求める声に、ひかりが濁しながら答えを返す。

 私が、いつ気が変わっても主役になれるように、期限ぎりぎり引っ張るつもりなんだろう。それで、自分の面倒が増えることは、きっと眼中にはない。引き受ければ、そんな苦労はしなくていいだろうに。

 ひかりは、優しくて、真っ当で、心底いいやつだ。

 情けなくて、泣けてくる。

 我慢できなくなって、携帯の電源を落とす。ぐずぐずと鼻をすする。

 すると突然、ばたん、と、横から何かが倒れたような音が飛んできた。驚きで肩が跳ねる。顔を向けると、道端で、黒い半袖Tシャツにジーパンの男が倒れていた。

「大丈夫ですか! 救急車呼びますか?」

 慌てて近付くと、男がぴくりと動く。一一九番を押すために、携帯の電源ボタンを長押ししていると、男が、待って、と声を出した。

「ここに、行って、店員呼んできて……」

 ぐい、と紙切れを押し付けられた。見てみると、柊堂という店の名刺だと分かる。裏に簡略化された地図が書かれていた。

 何回か、男と地図の間を視線が往復する。

 眉の間をぐりぐりと押しながら、考え込むこと数秒。私は、この柊堂なる店に向かうことにした。地図の通りなら、ここからほど近いはずだ。

「じっとしてるんですよ」

 男の上体を起こし、道路の端に寄り掛からせる。袖を捲ると、名刺を受け取り、店に向けて出発した。

「それにしても、こんな店あったかな」

 私は、この小さくて辺鄙な町で生まれて、育った。近所のことなら、分かっているつもりだったが、知らない場所もまだまだあるらしい。私はその店について、とんと覚えがなかった。

 名刺に書かれた、柊をモチーフにした看板を探す。

 五分ほど歩いていると、あまりにも見つからないので、ふつふつと、後悔の念が頭を擡げてきた。

 やはり救急車を呼ぶのが手っ取り早かったのではないかと、後ろを振り返り、今まで歩いた時間を思い出しては、地図に視線を戻す。

 澱んだ空気を吐き出して、前を向く。

 その時、冷たい空気が、滑らかに頬を撫でた。風に乗って、金木犀に似た、甘い香りが鼻をくすぐる。ぼんやりと風が吹いていた方向を見つめていると、しゅるしゅる、とリボンが擦れるような音とともに、冷気が逃げていく。

 小走りで風を追いかけて、三度ほど路地を曲がると、白い、小さな花が目に付く。視線を上げると、柊堂、という看板と、煉瓦造りの洋館が見えた。

「柊の花って、夏に咲くんだっけ……」

 白い花が満開に咲く生垣を見ながら、そう呟く。

 手を伸ばし、花に顔を寄せる。どうやら、先ほどまでの冷気はこの花から出ていたらしい、生垣は、ひんやりと冷たい空気に包まれていた。

 ゆっくりと息を吸い込めば、甘い香りの奥に、わずかに冬の匂いがする。枯れ木と蛹、冬眠する動物たち。静かに眠る、森の匂いだ。

 目が自然と細くなる。手の中で地図が、かさ、と音を立てた。

「そうだ、あの人のこと、言わなきゃ」

 眠気を追い払うように頭を左右に振り、店に続く階段に足をかける。

「……すみません」

 恐る恐る、鉄製の取手に手をかけ、両開きの扉を開けた。店には、他のお客さんはいなかった。静かな店内に、私の声が響く。

 薄暗い店内と、天窓から落ちる太陽の光。物音一つない空間に、爽やかな冷たさが堆積していた。

 天井から吊るされた鉢植えには、苔と蔓植物が植えられ、鮮やかな鉱物が添えられていた。古びた棚の上には万年筆やガラスペン、よく分からない名前のインクが並んでいて、試し書きされた文字がきらきらと光っている。

「いらっしゃいませー」

 店の奥から、和服姿のお姉さんが顔を出した。先程倒れていた男のことを伝え、名刺を渡す。店員さんはそっと受け取り、しばらくしてから、顔をぐしゃ、と歪めた。

「それって、身長がこれくらいの、冴えない感じの男性でしたか?」

 店員さんは手を伸ばして、頭半分と少し高い位置を指す。頷くと、頭を抱えて、うう、と声を漏らした。そのまま店の奥のカウンターに前掛けと、胸の名札を置く。

 金属製の水筒に、薄水色の液体を注ぐと、こちらを向き直した。

「行きましょう。一緒に来ていただけますか?」

 店の扉を開けた店員さんに続き、外に出る。道路に立つと、湿度の高い空気がぬったりと足にまとわりつく。店内では止まっていた汗が、役割を思い出したように溢れてきた。

 案内しようと、元来た道に足を向けると、店員さんが私の手を掴む。

「そっちは遠回りですよ」

「でも」

 緩やかに口角を上げて、店員さんは笑っていた。

 呆気に取られているうちに、店員さんはすたすたと逆の方向に進んでいってしまう。突き当たりのT字路を右に曲がると、ひょっこり顔を出した。

「こっちです」

 慌てて追いかけると、T字路の先で、先ほどの男が倒れているのが見えた。店員さんが、早足で駆け寄る。

 煉瓦造りの洋館を尻目に見ながら、後を追った。

「榊さん、榊さん起きてください。暑さには弱いんですから、気をつけてって言ったじゃないですか」

 店員さんの腕が、男の肩を揺する。どうやらこの男は、榊という名前らしかった。

 億劫そうに、榊さんの瞼が持ち上がる。眼球が、左右に痙攣していた。少しすると、ようやく意識がはっきりしたのか、榊さんの目は店員さんに焦点を合わせる。

「はい。これ飲んでくださいね」

「……う」

 掠れた声で、榊さんが答えた。店員さんの持っていた水筒を受け取ると、ぐびぐびと飲み始める。

 店員さんは榊さんを一瞥した後、店に戻ってお礼がしたい、と私に声をかけた。首を縦に振る。踵を返した。

 しかし、見てみると、先ほど通ったはずのT字路は、行き止まりの私道に姿を変えていた。

「こっちですよ」

 前では、店員さんがこちらに手招きをしている。ふらふらとした足取りの榊さんが、それに続く。

「は、い」

 真夏の暑さでからからになった喉で、やっとこさ、言葉を返した。

 一分半程度歩くと、あれだけ探したのが嘘のように、柊堂にはすぐ着いた。私は店員さんに手を引かれながら、再び、柊堂の扉を潜る。

「本当に、本当にありがとうございました」

 店の端に置かれた椅子に座ると、榊さんが飲んだものと同じ、薄水色の飲み物が差し出された。机を挟んだ向かい側には、榊さんが座っている。横には、お盆を持った店員さんが立って、申し訳なさそうな顔でこちらを見つめていた。不貞腐れた表情の榊さんと対照的だ。

「いえ、あの、大丈夫です。倒れてる人がいたら、当然です。私も何回か、この店を見つけるの、諦めかけましたし……」

 視線を手元のグラスに移すと、ガラス細工の器の中で、のったりと水面が揺れている。じっと見つめていると、水中で、何かがきらきらと瞬いた。

「たどりつけただけ幸運」

 榊さんがそう言った。思わず、眉根に皺がよる。

「どういうことですか?」

「言った通り。ここは普通、一般人はたどり着けない」

 榊さんは、飲み物を飲み切って口元が寂しいのか、添えられていた紙製のストローを齧り始めた。ぼこぼこになったそれごと、店員さんがグラスを下げる。

「たどり着けないって……そんなことあるわけないじゃないですか」

 事実ここに建っているわけで、と続ける。榊さんはため息を吐いてから、言葉を続けた。

「ここに着くのに、随分時間がかかっただろう」

「でも、それは……」

「ここはな、決まった道順を知ってるか、縁がある人間しか入れないようになってるんだ。店への道を隠してる」

 ここまで話すと、横に立っていた店員さんが、いいんですか、と声をかけた。榊さんは、小さく頷くと、店員さんに何かを耳打ちする。それを聞いた店員さんは、いそいそとカウンターの奥に消えていった。

「けど私は、ここへの行き方なんて知りませんでしたよ。なんでたどりつけたんですか」

 ふん、と鼻を鳴らして、腕を組んだ。

「そう。だから、なんか悩みでもあるんじゃないかと思って。最近、細工が緩くなってはいるが、流石に、無関係な人間が入れるほどじゃない。何かしら要因があるはずだ」

 手のひらの上で、榊さんが、紫色のガラス玉を転がす。中には、柊堂の模型が入っているようだ。マーブル模様のように厚薄が揺らぎ、薄くなったところからは、煉瓦の屋根が現れる。

「悩みがあって、それがなんだって言うんですか」

「ここは、そういった訳ありが訪れる店だ。それをどうにかするのが、俺たちの仕事。さっきの恩だ。解決してやる」

 榊さんが、首を傾ける。真っ黒な瞳孔が少し開いて、こちらを覗き込んできた。乾いた喉が、引き攣った音を立てる。

「……いいです。そんなものに頼るほど、落ちぶれてません」

「でもそれ、多分一人じゃどうにもならないと思うぞ」

「いい加減にしてください!」

 我慢の限界になり、私は立ち上がって声を荒げた。水分のない喉が悲鳴をあげ、すぐに咳き込んでしまう。

 先ほど出されたまま手をつけていなかった、例の飲み物を勢いよく飲む。

 声を出したせいか、少し、頭のもやが晴れたようだった。何か悩みがあるなら、と、榊さんが呟く。数回深呼吸をして、前を向いた。

「最近、雨が降ってないだろ、そのせいだ」

「雨……?」

「鯨が来れてない。おかげで今、この街は鬱々した思いで溢れかえってる」

 榊さんが、顔を上げ、天窓を見る。赤みがかった空色が、窓枠いっぱいに広がっている。

 顔を下げると、榊さんは、先までよりも真剣な顔で、こちらを見た。

「今夜、鯨を招く。お前も来い」

「え?」

「それで、悩みもだいぶ軽くなるだろう。近ければ近いほどいい。最近の家は壁も天井も、昔より厚いから」

 急に立ち上がると、榊さんは店の奥に歩いて行く。店員さんが、携帯を手渡した。物陰に隠れ切る前に、声を投げかけた。

「私、行くなんて言ってないです!」

「人の悩みなんて、ちっぽけだって教えてやる。いいか。こんなチャンス、二度とないからな」

 榊さんが返事をする。これだけ言い終わると、すたすたと店の奥の扉に姿を消してしまった。

 呆気に取られたまま、扉の方を見ていると、店員さんが話しかけてくる。

「夜十時に、この店の前で集合だそうです。あの人、ちょっと横暴だけど、これだけは、うん。来た方がいいと思うわ」

 それだけ言うと、店員さんも、榊さんに続くように、足早で扉の奥に消えてしまう。

 しばらく経った後、私は、予定より随分遅い帰路についた。帰る時はやはり単純な道筋で、あっという間に、自宅に着いてしまった。


 なんで私は、ここにくるなんて思ってしまったのだろうか。いつもより早いペースで動く足元を見ながら、私はふとそんなことを思った。

「どこに向かってるんですか?」

 目の前を歩く榊さんに声を掛ければ、小学校、と一言返した。

 今私は、榊さんと共に、小学校に向かっている最中らしい。どうして私が、あんな意味の分からない言葉に従って、夕飯の後、柊堂に戻ってしまったかは分からない。

 ただ分かるのは、榊さんが至極緊張しているということだけだ。

 視界の端では、柊堂で渡された、薄い白い絹製の羽織が揺れている。榊さんも、似通った羽織を着ていた。私が着ているものに比べれば飾りも細かく、何より質の高そう、有体に言えば値段の高そうな羽織だ。

 その下は、昼間見た黒Tシャツにジーパンなのだから、畏まっているのかよく分からない。

「着いた」

 榊さんが急に止まる。顔を上げると、私が通っていた、最寄りの公立小学校だった。サッカーコートがまるまる入る、大きな校庭と、いらない教室がたくさんある、とにかくだだっ広い学校。

 榊さんはポケットから鍵を取り出すと、難なく門を開けた。

 ぎぎ、と錆びた鉄が擦れる音が、夜に響く。生温く冷えた空気に、不快な音が伸びた。

「早く入って」

 門の前で立ち止まっている私の腕を、榊さんが引っ張る。私が門を潜ると、榊さんはすぐさま門をしめ、鍵をかける。先に進んでしまう榊さんについて行きながら、後ろを見る。鍵の閉まった、いつも通りの、小学校の正門だ。誰も、私たちが忍び込んでいるなんて思わないだろう。

 上を見ると、南中仕切っていない丸い月が、天に輝いていた。

「そこらへんに立ってろ」

 校舎へ続く階段を指し、榊さんがそう言う。言われるがまま、壁に身を寄せる。

 榊さんの電話が、静かに鳴った。ワンコールで、榊さんは電話を取る。

「はい。準備できました。はい、はい。それでは、十時半には」

 持っていた大きな鞄から、酒壺を出しながら、榊さんが電話を切る。短冊のような封を切ると、地面に置いた。

 校庭の端にある蛇口に、榊さんがホースをつけると、勢いよく、ハンドルを捻った。水が溢れ、ホースが生き物のようにうねる。

「え、え? 何やってるんですか?」

「これが、今日俺がやる仕事」

 私が慌てて声をかけても、榊さんは、やけに真剣な顔で、校庭に水を撒き続ける。しばらくすると、おい、と私を呼んだ。

「手伝え」

 ほい、とホースを渡される。いつの間にか、二つある蛇口のもう片方にも、ホースが付けられていた。

 ビニール製の安っぽいホースの端が、私の手に収まる。水圧が強くなり、足元を水浸しにした。

「これで、この校庭全面に水を張る」

「なんのためにです」

「いいから。時間がないんだ。他の場所との連携もあるから、ここだけ遅れるわけにはいかない」

 ホースの先端を見た後、私はため息を吐いて、校庭の向かい側に向かった。知りませんよ、と呟いて、校庭に水を撒き始める。

 夜の学校に、水が空を切る音と、地面で跳ねる音だけが響く。砂と土と混ざった泥水が、外へ外へと広がっていく。

 数分撒き続ければ、校庭の半分ほどが水で覆われた。

 腕時計を確認すると、時刻は午後十時十八分。先ほど榊さんが言っていた十時半まで、十五分を切っている。

「こんなものか」

 榊さんは、顔を上げて、校庭の様子に頷くと、水を止めた。

 水面は校庭の七、八割ほどに広がっている。雨上がりの後の、泥水でできた、大きな水溜まりのようだ。土が水を吸って、わずかに高い場所は地面が見えてしまっている。

 水を避けながら、榊さんのところに戻った。

「よく見てろ」

 こちらを見ると、榊さんはそう言いながら、地面に置いた酒壺を持ち上げる。ゆっくりと傾けていくと、注ぎ口から、淡く光が溢れる。

 酒壺を三十度程度傾けると、薄水色の、粘度の高い液体が、するすると水面に落ちた。私が店で出された飲み物と似ているが、それよりももっと濃く、粘り気が強い。

 液体が水面に触れると、一瞬、水面が強く光った。咄嗟に目を瞑る。

 きいい、と何かを引き裂くような音が、耳の奥に反射した。

「な、なに」

 目を開けて、最初に見えたのは、一面藍色の空と、二つの満月だった。少しして、その半分が、校庭の水面に映ったものであることを理解する。

 先ほどまで濁っていたはずの校庭の水が全て澄み渡り、鏡のように夜空を映し出している。いつの間にか、わずかにあった陸地は消え、校庭一面が、まるで大きな鏡のようだ。

 下を見れば、呆気に取られた自分の顔が見える。ホースから落ちた水滴が生み出した波紋が、月の影を揺らした。しゃがみ込み、足元の水を掬うと、指の間を、水が滑り降りていく。

 水中の中で何かが弾けては、耳元で、くすくすと笑う声がした。

「すごいだろう」

 見上げると、榊さんが、校庭の方を見ながら、そう言った。雲ひとつないの星空が、視界一杯に広がって、自分が宇宙に放り出されたような気分になる。

「けど、本番はここから。場所は整えた。あとは待つだけだ」

 榊さんに腕を引かれ、立ち上がる。導かれるまま、校舎に寄りかかった。

 数分間、ぼんやりと校庭を眺める。ひどく浅いはずの水面は、夜の闇を吸い込んで、海のように見える。

 瞼を閉じれば、波の音が聞こえた。

 沈黙を破ったのは、水面が揺れ、波が激しくぶつかり合う音だった。

 ひとりでに揺れた水面は、そのまま波打ち、水飛沫を飛ばす。

「来た!」

 隣で、榊さんがそう叫ぶ。その間にも、波の音は大きくなり、声はかき消されてしまう。

 波は一瞬止まったと思ったら、本来浅いはずの水面から、大きな尾鰭が、勢いよく姿を現した。

 ばしん、と強く水面を叩く。

 尾鰭は今一度水面に姿を消すと、瞬きの後、今度は、真っ白い巨体が、水を引き摺るように、顔を出した。

 鯨だ。

 校庭では収まりきらない巨体を、最初に頭、次に胴体と、徐々に水面から体を出し、そのまま泳ぐように、天に昇っていく。最後に尾鰭を出すと、その全長は、百メートルは有に超えようというほどであった。尾鰭だけでも、校庭の四分の一ほどの大きさがある。

 鯨は身をひねると、まとわりつく水を振り落とし、体を伸ばした。

 熱帯夜の重たい空気を裂くようにして巨体が風に乗り、大きな口を開けて、夜の空気を吸い込んだ。

「な、なんですか、あれ」

 立ち上がって視線を夜空に向け、体を仰け反らせる。白色に発光する鯨が、藍色の空を飛ぶ。

 校庭の水は、依然として、鏡のままだ。あれだけ水を鯨が持って行ったのにも関わらず、鯨が出る前と、少しも様子が変わっていない。相変わらず濃藍色の夜空を完全に映し出し、その中で、白い巨体が泳いでいる。

「月行鯨。人の想いを食べる、神様みたいなものだ」

 榊さんは携帯に向かって、完了です、と言うと、息を大きく吐き出して、私の横の壁に背中を預ける。

「月に行く鯨。神っていう言葉は、しっくりこないかもしれないけど」

 榊さんの指が、空に浮かぶ月行鯨の体をなぞる。白く光り輝く巨体は、口を広げては夜の空気を飲み込んでいる。

「いいえ」

 自然と、私の口から否定がこぼれる。鯨の畝須は一気に膨らみ、萎むと、その隙間から、薄黄檗色の光の霧が流れ出し、風に乗る。その中に、たんぽぽの綿毛のような、きらきらと光る粒がまじっている。それは、ゆらりゆらりと、時間をかけて、私たちの頭上に落下する。

「あの鯨は、間違いなく神でしょう」

 光が、月行鯨の背の上を辻風のように舞う。表面をなぞるように光の風が走ると、青々とした苔と、樹木が生え始める。早送りにしたように、植物は急成長を遂げ、花をつけ、実を落とす。植物だけの、鮮やかな楽園。

 落ちてきた、白い花を捕まえる。甘ったるい香りに、頭がくらっとした。目を伏せると、脳裏に、棺桶に横たわった、知らない人の姿が浮かびあがる。

 誰のものかはわからないけれど、悲しい、悲しい記憶だ。

 顔の横に供花を添える。柔らかさを失った固い肌。頭を撫でる、枯れ木みたいな手のひらの感触が蘇る。

「目を開け」

 ばしん、と肩に衝撃が走る。目の奥で光が瞬き、眩暈がした。横を見ると、私の肩に手を伸ばす、榊さんが見える。

「目を閉じるな。眠るな。今、自分が誰かを忘れるな」

 榊さんが、瞳孔の開いた、真っ暗な瞳で、月行鯨を見つめる。畏怖が滲んだ、張り詰めた表情だ。

 そろそろだ、と榊さんが呟く。

 何がと問う前に、ほおお、と空に鳴き声が響く。見ると、音は、私たちの上にいる鯨の鳴き声のようだった。不思議な音色だ。悲鳴のようにも、歌っているようにも聞こえる。

 ジェット機が発進するときに似た轟音に、耳を塞ぐ。

 歌声は蝸牛の中を反射し、脳に突き刺さる。目尻から、涙が滲む。

 鳴き終わった後も夜半に広がっていくその声に、しばらくすると、それよりも少し低い音で、空の向こうから返事が返ってくる。それにまた、頭上の鯨が鳴き返す。

 視線を空の彼方に向けると、真っ白い鯨が、幾匹かで群れになって飛んでいるのが見えた。皆、背中には、真っ白で、豪奢な建物が並んでいる。身をひねれば、瓦屋根が落ち、壁が崩れる。

 月行鯨が、一斉に歌い出す。

 ぼおお、ほおお、とさまざまな音を響かせながら、天空を闊歩する。

 地面が震え、水面が揺れた。校庭の水たまりから、海月や、小さな魚が溢れ出す。鯨が巻き起こした風に乗って、水掻きや触手が揺れ動くたび、光を落とした。小さな海洋生物たちはそのまま空に上がり、闇色の夜空を、光と共に覆い尽くした。

 顔を上げると、私たちの頭上にいた鯨が、低く滑空し、息を吸い込む。暴れる髪と服の裾を抑えた。

 風が地面に吹き荒み、足元に絡まりついた夏の暑さを巻き込む。そのまま風は辻風のように巻き上がり、鯨の元に運ばれる。

 畝須を広げて、風ごと夜を飲み込む。鼻孔から、潮の代わりに光り輝く霧を吐き出す。光は波打ち、形を変え、その背に、華美な城を建てた。空中で鯨が緩やかに周ると、城の一部が崩れ落ちる。鯨の背に乗る一連の建造物は、どうやら、砂のようなものでできているようだった。

 歌声を強め、鯨たちが勢いよく天に昇り始める。周りに浮く海月や小魚も、それに続いた。

 街の中を、風がなめる。アスファルトの上に堆積した重たい空気を絡め取りながら、月行鯨の群れと共に、風が天に打ち上げられる。

 強い風に、息が苦しくなる。こぽり、と胸で何かが沸きたった。

 涙の滲んだ目で、月行鯨を見上げる。澱んだ空気を飲み込み、美しい光にして、地上に返す、天上の神。

 口から、紫色に濁った煙が溢れ出す。煙は空中で身を翻すと、銀色の魚に姿を変えた。両手を伸ばして、慌てて魚を捕まえる。

「これは、取らないでください」

 手のひらの上で魚が跳ね、鱗が瞬いた。

「私の悩みなんです。私の、私の、私の大切な、大切な想いなんです」

 両手を閉じると、魚はそれに沿って体を守るように丸め、手の中で微睡む。魚が、あるはずのない瞼を閉じた。のったりと、尾鰭をゆらめかせる。

「だから、だからどうか、取らないで」

 そう言うと、私の周りの風が、少し弱まった気がした。風は私と、榊さんの横を通り過ぎ、天に戻る。

 鯨たちはまたも口を広げると、風に運ばれた煙と、周りに佇んでいた海月や小魚を取り込む。街の上を飛行し、地上に残った感情を、その腹に収める。浮遊する海月たちをもあらかた飲み込み、夜空にはもう、月と、点々と浮かぶ月行鯨の群れしか残されていない。

「終いだ」

 横で、榊さんが呟く。見れば、先ほどまで美しかった校庭の水は、ただの泥水の水たまりに戻っていた。

 見上げると、月行鯨が、光の軌跡を残しながら、月に向かって泳いでいる。

 丸い、まあるい、満ちきった月。美しい月。寂しさと孤独に輝く、私たちの光。

 視線を落とせば、手のひらの中で、銀色の鱗が光を反射させ、煌めいている。尾鰭が肌を撫でた。手をお盆型に丸め、口に運ぶ。ごくん、と呑みほせば、苦くて甘い、夏の味がした。


「結局、悩みってなんだったんだ?」

 翌日の柊堂。青色の紅茶を飲む。テーブルの向こう側から、榊さんの、じとっとした視線が飛んでくる。

「そんなのどうだっていいじゃないですか。榊さんには関係ないです」

「……大体、鯨にそれ、還さなかっただろ。せっかくの機会を無駄にして」

 紫色の、ガラス玉を左手で弄びながら、榊さんがぶすくれる。マーブル模様は引き、均一の半透明な紫が、柊堂の模型を覆っていた。

「あれは私の悩みです。簡単に渡したりなんかしませんよ」

「意味わからない」

「ありがたいとは思ってます」

 紅茶の中に砂糖を入れ、スプーンでかき混ぜる。ちらりと一瞥すると、榊さんは訝しげな顔でこちらを見ていた。

 くすり、と笑う。

 今なら、たとえ未来に何があっても、笑い飛ばせる気がした。あるかもしれない先の後悔も、同級生からの嫉妬も、面倒臭い陰口だって。全部全部、いつかあの鯨が食べてくれるから。

「私の心が軽くなったのは事実ですから。それに、町もずいぶん換気が良くなりました」

 カップを口元に運び、傾けた。茶葉の香りが鼻を擽る。ここの店員さんの入れる紅茶は美味しい。うちで飲んだ時より、香りが強い。

「そりゃあ、どうも」

 榊さんが、眉に皺を寄せる。

 あの日私が見たのは、月行鯨という神の一種だったらしい。雨の後の水たまりから生まれ、地上の思いを飲み込み、月に運ぶ、巨大なシステム。鯨が畝須から吐き出していた光は、浄化した、感情の素のようなものらしい。それを吸って、私たちはまた新しい感情を生み出す。

 月行鯨は月に赴き、そこで朽ちる。人々の祈りと、願いと、後悔と共に。

 月が白く輝くのは、白骨化した鯨たちのため。カメラで撮るより実際に見た方が、月が大きいのは、数々の想いと、鯨たちの亡骸が、積み重なっているから。

 人々が月を愛するのは、それがかつて、愛おしい誰かの一部だったものだから。

 それを私たちは、きっとどこかで気付いている。

「じゃあ、私帰りますね」

「帰れ帰れ。もう来るなよ」

 客のいない、店を見回す。薄暗く、息のしやすい空気が立ち込める。ここに来るのは、なんらかの悩みを抱えた人。自分じゃ解決できない壁にぶち当たった人。

 ここは、人生の避暑地みたいだ。

 一人ソファに座って紅茶を啜る、榊さんを眺める。

「また遊びに来ます」

 面倒そうな榊さんの顔を尻目に、柊堂の扉を開く。燦々と照りつける太陽が、剥き出しの肌を焼く。店内で冷えた体が、放射熱で温められる。

 帰り道、柊の生垣を通り、家に向かって歩き始めた。

 徐に、ポケットから携帯を取り出す。連絡帳から、ひかり、という文字を探す。通話ボタンを押すと、ツーコール目の途中で、どうしたの、という、ひかりの声が聞こえた。

「ああ、ひかり」

 頭上で輝く太陽を眺める。生き生きと光り、地上にいる全ての生命に、平等にその恩恵を与える。時々うざったくなるけど、私たちが生きるのに、必要不可欠な光だ。

「あのね、私、主役、やってみようと思う」

「え! ほ、本当? 良かった、絶対、絶対やった方がいいと思ってたんだ」

「うん、色々ありがとね」

 数回言葉を交わすと、でも、と、ひかりがおずおずと声を漏らした。なんで急にやる気になったの、と聞いてくる声に、電話の向こうのひかりの姿があまりにも想像できて、笑ってしまう。

「月子?」

「ううん、なんでもない」

 急に笑い出した私に、携帯越しにひかりが怪訝そうな声を返す。後ろを振り返れば、もう、煉瓦造りの洋館は姿を消していた。

「そうだなあ、理由かあ」

 目を瞑れば、今でも瞳の奥に、白い巨体が天を泳ぐ姿が蘇る。

 私の悩みも、後悔も、いつかきっと月に還る。あの美しい鯨たちが、私の想いの残骸を拾って、神々しい月の一部に昇華させてくれる。

 それを思えば、心が少し軽くなる。

 目を開くと、眩しい太陽の光が、視界をいっぱいにした。あの夜とは違う騒々しい暑さに、うっすらと笑みが漏れる。

「小学校を水浸しにするよりかは、大したことないって思っただけだよ」

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