ひりひり煌めく惨めなふたり

青葉える

ひりひり煌めく惨めなふたり

 雑木林をひた走る。まだ追ってきているだろうか。

 そう思って振り向いたと同時に花火が上がり、私を追いかける彼のぎらぎらとした瞳がよく見えてしまった。何を考えているのかわからない、表情のない顔つき。私は振り向いたのを後悔し、前に向き直って必死に走り続ける。彼はサンダル、私は裸足。それが私と彼の関係を表しているようで、今更ながらに泣きたくなった。追いつかれたら何をされるのかわからず、怖い。

 ヒュルル、パーンと夜空に咲く花々が、浴衣で走る二人の半身を照らす。この雑木林の向こう側、神社の境内では、お祭りに来た人たちが笑い合っているなんて信じられない。

 土と石が足の裏に食い込む。原始の人間にとっては、裸足で地面を踏みしめるのは日常の感触だっただろうけど、私にとっては異常な痛みでしかない。そうはいってもだいたいのことの始まりには痛みがある。学校生活や習い事、勉強や部活。痛みのあとに感じられる達成感や温もりを信じて私たちは何かに触れていくけれど、自ら触れる前に引きずり込まれたのが今の私だった。

「あああ」

 喉を潤すべき水分は汗として流れ出し、体力はもう限界。情けない声を出さずにはいられない。サッカー部のレギュラーらしい彼にとってはさぞ笑えるものなんじゃないか。

 走る。走る。走る。確実に彼の方が足が速いのに追いつかれないのが寧ろ怖くなってきた。

 全てが眩い、花火大会つきのお祭り。ずらりと並ぶ屋台、浴衣姿の家族連れや友人同士やカップル。そんな光景の奥で繰り広げられる追いかけっこ。暗闇の中、たまにライトアップされる苦しい舞台。

 踏み出した先がずぼりと凹んで息を飲む。ただでさえ汗まみれなのに、冷や汗と脂汗が一気に噴き出た。私は必死に足を引っこ抜いて、よろよろとまた走り出す。


 私はクラスでいじめられている。

 地味で口下手な私は、高校一年生の間も友だちといえる人はゼロだったけど、時折クラスメイトと喋ったり、学校行事では省かれもせず仲間入りさせてもらえたりはしていた。でも二年生になって早々、学年の中心人物である男子――それが今、私を追いかけている彼だ――が私に嫌がらせをし始め、彼のグループのメンバーがそれを笑うような日々が始まった。もちろん、そんな事態に関わりたくない他のクラスメイトは私を無視。私は見事なまでに一人きりになった。


 そんな私だってついさっきまでは境内で、浴衣姿でりんご飴を持って屋台を覗き、そろそろ花火の時間かな、なんてのんびりと思っていた。一人で夏の雰囲気に溶け込むのはそれなりに楽しかったし、地元のお祭りだから同じ高校の人に会うはずないと思い込んでいた。でも、よりによって例のグループの人たちを見つけてしまい、その直後に彼と目が合った。私は反射的にきびすを返し、彼らがいた出口側と反対の本殿側に歩き、しばらく身を隠していようと思った。そこでふと気配を感じて振り向くと、彼が付いてきていたのだ。私をいじめるときと同じ、感情の見えない顔つきで。私は驚き、焦り、歩くスピードを速めた。すると後ろから聞こえる足音のペースも速くなった。本殿に差し掛かっても立ち止まることが出来ず、どうしようもなくなって本殿の脇を通り抜けたとき、彼が地面を蹴る音がした。恐怖が足元からせり上がってきて、逃げろと脳内で警鐘が鳴った。足がもつれ、草履を模したサンダルが脱げた。履き直す意識より逃げる本能が先立ち、裸足のまま本殿の裏に広がる雑木林に飛び込んだ。朝顔柄の浴衣は形を崩し、肩に掛けていた和柄のポシェットはバタバタと暴れた。そして今に至る。


 いよいよ、彼の息遣いが近くなってきた。緑色の花火が上がったのが視界に入った。私は花火が上がったあとの、パチパチともパラパラともつかない音が好きだ。命の証に音があったらあんな音がするんじゃないかと思う、なんて考えている余裕もない。

 彼はもう、すぐ後ろまで来ている。やっぱりわざと追いつかないように走っていたのだろうか。はあっ、はっ、は、はっ……私はこんなにも必死だというのに。

「ぎゃあっ」

 汚い悲鳴が、花火の音に掻き消されながらも響く。足の裏に尖った石が突き刺さり、遂に私は倒れこんでしまった。ポシェットが地面に叩きつけられ中身が飛び出る。暗くて見えないけれど、浴衣、土で汚れただろうな。お母さん、ごめんね。

 起き上がろうとして息を吸うと、ひどく喉が渇いていて噎せる。動物のように荒い私のものと反対の、緩い息遣いが頭上に在るのを感じた。汗が鼻に入る。惨めだ。でも今の状況がこの一学期間の結果なのだと思い、私は観念して体の向きを変えた。

 色とりどりの花火が、真っ直ぐに私を見下ろす彼の右半身を、座り込んだ私の左半身を照らす。浴衣姿が様になっているのだから、友だちやお祭りに来ている女の子たちと遊んでいればいいのに。

「逃げるなよ」

 彼は言った。あの追われ方で逃げない人間がいるのなら尊敬する。

「お前さ、この一学期間、よく耐えたよ。……浴衣、似合ってる」

 褒められても、何も嬉しくない。


 彼とは一年生のときも同じクラスだった。彼については「格好良いと噂になっているが、チャラそうで怖い」というだけの印象で、関わりといえば日直として「プリントの提出、お願いします」と話しかけにいったことと、彼の肩についていた糸くずを思わず取ってしまったときにぺこりとお辞儀をされたことくらい。入学式の日にクラスの空気に流されて連絡先を交換したこともすっかり忘れていた。

 二年生でも同じクラスになったものの、関わることはほぼないだろうと思っていた。だけど、その始業式の日、全てが変わった。


「『誰も本当のことを知らないくせに』って思えば、簡単に耐えられるだろ?」

 さらりと彼は言うが、簡単なわけがない。皆から無視されることが、「いじめられている」という位置にいること自体が、どれだけ辛いか彼にはわからない。その位置が、たとえ……。

「お前は、いじめられていればいいんだ」

 金色の花火が、木々の向こうで開く。あの音は好きだけれど、一方でどこか寂しい。証は終わりと同意義のことが多いからかもしれない。

 彼は未だ私を見据え、いたって真面目な口調で、言い切る。

「そうやって、俺に守られていればいいんだ」


 私はクラスでいじめられている。――ということになっている。


 始業式の夜、突然かかってきた電話で、彼は言った。

「俺は明日からお前をいじめる男になる。でも実際にはいじめない。俺はいじめるフリをして、お前はいじめられるフリをするんだ。そうすればお前は他の誰かに暴力を奮われたり、罵倒されたりせずに済む。俺たちは同じ視線で高校生活を送るべきだ。独りよがりかもしれないけど、お前のためだから」

 意味がわからなかった。頭がこんがらがり、電話を掛け直したけれど出てくれなかった。

 彼の言葉の意味は、翌日からの生活で嫌でもわかった。彼は私に対し、足を引っかけたり机を蹴ったりするようになった。けれどもその行動の前には予め目配せや耳打ちが来るから、私は転ばないように身構えておいたり、机の中身を鞄に移動したりしておける。投げられるゴミは私に当たらないし、流される噂は小粒なもので、近寄られもしないが悪口を言われるほどでもない。一度、彼のグループの一人が「おとなしく見えて、実はパパ活とかしてんじゃないの?」とからかってきたときは怖かったけど、すぐにピタリと止んだ。彼がさり気なく制止したのかもしれなかった。

 私はいじめられている、ということになっている。その実、そこに悪意はない。だからこそ、この奇妙な関係を強要する彼の意図がわからなくて、私は心底疲れていた。そしてやはり孤立は辛く、周囲からいじめられている人間として認識されるのは悲しいのだった。彼さえいなければ、こんな思いをせずに済んだのに。私は惨めだ。


 花火の明かりで浮かび上がった彼の茶髪が、暗いトーンになっているのに気が付いた。先日いきなり「暗い色と明るい色、どっちが好き」とだけ書かれたメッセージが送られてきたので、震える手で「暗い方です」と一応の返信をしたのだった。

「なあ」

 彼はまた口を開く。私はこのまま一言も発さずに、感情を無にしてやり過ごし、隙を見て逃げようと思っていた。もう散々な姿を晒したから、何を言っても余計に情けなくなるだけだろうと。

でも。

「花火……観に行こう」

 そう誘われて、私の顔はカッと熱くなった。もちろん誘われた嬉しさからではない。どの口が言うんだという怒りと悔しさ、そして痛みが汗と熱として噴出した。ぐつぐつと湧き上がるそれらが衝動となり、私はポシェットから転がり落ちていたソーダ水のペットボトルを掴み、立ち上がる。私は人生で初めてこんなにも感情を表出しているのに、彼の方は動じず、私が誘いを断らないと思い込んでいるような眼差しでいるのが悔しくて、熱が爆発する。

 暗闇に、バキンという音が響く。

 ニコニコマーク――木に隠れて歪な笑顔にしか見えなかったけれど――の花火が上がり、彼の頬と、私が握るボトルが衝突している光景が浮かび上がった。

 殴られた彼は目を丸くしたあと、「あ……」と呟いた。そしてふっと脱力し、地面に膝をついた。私は眉が吊り上がって唇が歪んで顔がぐちゃぐちゃになっているのを自覚しながらボトルのキャップを開け、噴き出た泡が手を濡らすのも気にせず、それを彼の頭上で逆さまにした。しゅわしゅわ、びちゃびちゃ。焦げ茶になった髪と紺色の浴衣が萎んでいく。

 空になったボトルを地面に叩きつけ、私は唸った。この熱は言葉にならない。こんなの報復にしてはちっぽけで、私が惨めな人間であるのにかわりはなかった。

 そう、私は惨めだ。でもそれは、いじめられている人間が惨めだということではない。

 私には、なぜ彼があんな提案をしたか解き明かす勇気がなかった。この関係を本気で抜け出そうとする気概がなかった。この状況がなければ私みたいな人間は本当にいじめられていたかもしれないという考えが消えず、ならば今が一番安全なのかもしれないと安寧すら覚える日もあった。

 自分の人生を自分で切り開かずに、振り回されてばかりでいるのが惨めなのだ。

 彼はなぜ「お前のため」と言って私を追い込むのだろう。「守っている」と言って私を一人にさせるのだろう。正反対の人間同士、関わらずに高校生活を終えるべきだったのに。彼の意図は未だわからないけれど、きっと何もかも上手くいってしまう退屈な生活の暇潰しになる玩具がほしかった、そんな理由だろう。人を支配して屈服させてみたいけど、本当にいじめをしたら問題になるから私を共犯関係に仕立て上げた上で遊んでいる、そんなところだろう。

「振り回されて言いなりになって、私はさぞ惨めでしょう」

 私は歯を食いしばり、しゅうしゅうと息を吐いて言う。

 彼がふらりと立ち上がる。ピンクの花火が、私たちの視線が交わっているのを知らせる。きっと境内ではたくさんの人が花火のフィナーレを、ちょっぴり寂しがりながらも心待ちにしている。街灯と屋台の光と、明るい笑顔の中で。本来なら彼は、そちらにいたはずの人間だ。でも今、彼もこうして暗い場所にいる。

 パパパ、パーン、パーン。証を残す暇もなく、生き急ぐように咲き続ける花火。私たちは出会ってから最も長い時間、視線を合わせた。私は全てを剥き出しにしているのに、彼は静かに、そしてなぜか寂しそうにしている。

「ちえりちゃん……」

 そして、まるで自分の方が振り回されている側のような顔で私の名前を呼んだ。そんな顔をするな。卑怯だ。

 ――でも、こうまでしてもこんな人間ひとり屈服させられないなんて。

「槇村くんも、惨めよ」

 そう言い放つと、視界が真っ暗になった。直後、ドンと大きな花火が上がる。その光が、ソーダ水に濡れた彼の、今にも崩れそうな笑みを照らした。頬を流れる水が涙みたいに見えたけど、そんなはずはない。

 私は彼の横をすり抜けて、来た方向に走り出した。彼は追っては来なかった。

「私の人生なんだ……私のものなんだっ」

 フィナーレを迎えたと思っていた花火が、最後に一つ大きく打ち上がり、雑木林が金色に包まれた。私も、おそらく彼も、痛々しいまでに煌めいた。

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