悪い子

平賀学

悪い子

 小指の先ほどの小さな刷毛がたっぷりとベースコートを含んで、教室の窓から差し込む夕日を受けてつやつや光っている。私はそれを自分の席に座って、机の上に右手を、甲を上にする形で置いて見ている。私の向かい側には中山さんが、椅子を後ろに向けて、私に向かい合うように座っていて、あの小さな小さな刷毛を持っている。マニキュアを塗る前には、爪の保護のために透明なベースコートというものを先に塗るらしい。今日、中山さんから教わるまで知らなかった。

 中山さんが刷毛を私の人差し指の爪にそっと載せる。ひんやりとした感触が、爪越しにも伝わって、少し怖くなった。

「あの」

 空気を喉につっかえさせながらどうにか言葉を吐き出す。中山さんが、私の爪から、私の顔に視線を上げる。黒目がちな瞳はカラーコンタクトだと言っていた。言われなければわからない、というか言われたって私には違いがわからない。

「やっぱりだめだと思う」

「どうして?」

 中山さんが小さく首を傾げる。ゆるくウェーブした、細くて柔らかい髪が、一緒に流れる。

「だって、校則で禁止されてるし」

 マニキュアも、色のついたリップクリームも、もちろんカラーコンタクトも、それから髪にパーマを当てるのも校則違反だ。

 中山さんは瞬きをして、それから微笑んだ。

「じゃあやめる?」

 楽しそうな声。

「やめて、先生に本当のこと言う?」

 嫌だ。

 息が止まりそうになる。返事に詰まった私を見て、中山さんは私から視線を外すと、机の上に広げた化粧品たちに目を移した。青っぽいボトルを手に取る。

「すぐに乾いちゃうから、早く塗らないといけないの。ムラになるし」

 コットンパフを小指と人差し指で挟んで、そこに青いボトルの中身を染み込ませる。つんとした臭い。化学の実験で嗅いだ臭いに似ている。有機化合物の臭い。

「だから塗ってる間は話しかけないでね。失敗したらやり直しだから」

 水分を含んだコットンパフを、さっきベースコートを塗りかけた人差し指の爪に押し当てられる。そのまま少し力を込めて、ベースコートを拭き取られる。中山さんは鼻歌を歌いだす。

 もし先生が教室に来たら。そうじゃなくても、同級生に見られて、告げ口されたら。

 私は優等生じゃいられなくなる。先生からの信用を失う。

 だから気が気じゃないし、逃げ出したいけれど、この前の中間テストの日から、私は中山さんの言うことに逆らえなくなっている。


 風邪を引いたのがよくなかった。

 私はずっと、勉強を欠かしていなかった。板書だってきっちり取るし、どんな授業でもいつ先生にあてられても誰よりも淀みなく正解を言える自信がある。もちろん、不正解をする生徒を当てた方が全体の理解を深めるのには都合がいいから、先生たちに私が当てられることはあまりない。

 スカートを折って短くすることも、必要以上に長い丈の靴下を履いてくることもない。

 私は優等生で、これからもそのはずだった。

 数か月前、高い熱を出して、一週間ほど休むことになった。その間頭がまともに働かなくて、教科書を読むこともできなかったし、簡単な暗記もできなかった。

 ようやく学校に来られるようになったとき、授業の進み具合と私の理解度とは、小さくない差が空いていた。

 平均程度なら問題ない。でも、そのくらいじゃだめだ。先生にさすがと言われるレベルじゃないといけない。順位だって総合一桁をキープしないと、私はそれくらいできるんだから。将来のことも考えず遊んでいる同級生とは違うんだ。たとえば、けばけばしい恰好の、いつも男子の誰がかっこいいなんて話をしている中山さんとか。

 けれど、遅れた分授業を聞いていても穴が開いたみたいに理解できない箇所ができて、余計に理解が遅れる悪循環に陥っていた。睡眠を削れば授業に支障が出るし、何より授業中に居眠りなんて許されない。限られた時間でできる限り参考書や問題集と額を突き合せたけれど、どうしても不安な箇所がいくつか残ったまま、中間テストの日を迎えてしまった。

 どうしよう。ここが出されたら大きく点を失う。そうしたら、順位がいくつ下がるだろう。二桁になってしまうのは避けられないだろう。でもきっと重要なところだから、問題が出てくるはずだ。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 追い詰められて、そうして私は、誰にもバレないことを祈りながら、悪い子になった。


 鬼門だった数学の解答用紙が回収されて、私は息を吐いた。

 よかった。あれなら問題ない。少しミスをしていても取り戻せる程度だ。

 ぎゅうと強く右のこぶしを握って、左手でかばうようにしながら、トイレに立った。早くしないと。

 早足で女子トイレに向かって、洗面台に手を伸ばそうとしたところで、後ろから声をかけられた。

「北村さん」

 鼻にかかるような喋り方。振り返ると、中山さんが立っていた。心臓が跳ねる。とっさに右手を握りなおした。

「何?」

 声が上擦りそうになるのをおさえながら聞く。

「北村さん、さっき調子悪そうだったから。大丈夫かなあって思ったの」

 緩く笑いながら、中山さんが言う。私は少し緊張を緩めた。中山さんは私のひとつ後ろの席だ。てっきり、見えたんじゃないかと思った。

「平気、昨日寝つきが悪かったから、そのせいかも」

 それは嘘じゃなかったから、さっきよりはなめらかに口から出てきた。愛想笑いをして、洗面台に向き直って今度こそ右手を洗おうとしたとき、いきなり強い力で右の手首を掴まれた。突然で抵抗もできないうちに引っ張られて、右手を開かされる。中山さんは私の右手首を掴んだまま、開かれた手のひらをしげしげ見ている。

 私の右の手のひらには、小さな字がびっしり詰め込まれていた。

 心臓が止まるかと思った。

「なんか、ずっと右手ちらちらしてるし、いつもよりびくびくしてたからさ、もしかしてって思ったんだけど、当たりだ」

 珍しい生き物を捕まえたみたいな無邪気な笑顔を向けられる。

 終わりだ。先生に言われる。

「そんな顔しなくても、誰にも言わないよ」

 見透かしたような目でそう言われる。え、と声を漏らすと、中山さんは私の手首を押さえていない方の手を制服のポケットにつっこんで、薄い板を、スマホを取り出す。慣れた様子で片手で電源を入れると、私の右手にスマホをむけて、カシャカシャカシャと音をさせる。

 写真を撮られた。遅れて理解したところで、中山さんはあの鼻にかかったような声で言った。

「代わりに私の言うこと聞いてよ」


 身構える私に対して、中山さんの要求は、想像よりはずっとあっけないものだった。

 まずはスカートの丈を短くすること。少し内側に折り込んで、スカートを短くするのは、女子の大半がやっている。持ち物検査のときだけ元の長さに戻せばいい。でも、わざわざ短くする意味なんてわからないから、私はやったことがなかった。

「それだけ?」

 困惑する私に、逆に変なことを聞かれたみたいに、中山さんはきょとんとした。

「うん」

 意図がわからない。要求するならもっと、中山さんにとっていいことやおもしろいことを言うんじゃないか。たとえば、お金とか。そう思ったけれど、じゃあちょうだいと言われるのも嫌だったから、従うことにした。

 次の日、少しだけ折って短くしたスカートを履いてくると、目が合った中山さんは私にだけ向けて笑った。そのまま友だちとのお喋りに戻ってしまう。

 もしかしたらもう誰かにあの話をしているのかもしれない。写真も、先生に見せているかもしれない。

 同級生も、先生も、自分を注視している気がして、その日はずっと落ち着かなかった。

 でも、放課後になっても呼び出されることもなければ、何か噂が立っている様子もなかった。

 安心して下校しようとしたところで、肩を叩かれた。いつの間にか中山さんが後ろに立っていた。あの、無邪気で、何を考えているかよくわからない笑顔を浮かべている。

「ねえ、北村さん。次のお願い聞いてよ」


 匂い付きの、うっすら色のついたリップクリームを塗ること。

 校則より少しだけ長い靴下を履いてくること。

 小さなモチーフのついたヘアピンをつけること。

 眉を整えること。

 中山さんは少しずつ「お願い」をしてきた。

 リップクリームなんて持ってないと言ったら、そのままドラッグストアまで連れて行かれた。靴下も、商店街の靴下屋さんで、学校の女子御用達のものを選ばされた。ヘアピンも、眉を切るハサミも。

 眉の切り方なんてわからない。そう言ったら、放課後の教室で、中山さんに手慣れた手つきで整えられた。


 そうして、次のお願いが、薄いピンク色のマニキュアを塗ることだった。


 ずっと校則を、少しずつだけど破らされていること、それで先生の信用を失ってしまうかもしれないこと。

 それに、中山さんの目的がわからないこと。

 不安が募って、最近は集中力も落ちてきていると感じていた。これではだめだ。

「ねえ、なんでこんなお願いするの」

 話しかけないで、と言われていたけれど、問いかける。中山さんは私の爪にトップコートを塗る手を止めない。冷たい感触が爪の上を撫でていく。

「うーん」

 爪の方に意識を置いた様子で、半分上の空みたいに中山さんが言う。

「北村さんってなんで校則守ってるの?」

 逆に問い返される。

「それは、だって。守らないといけないでしょう。ルールなんだから」

「スカート長くしてると、何かいいことあるの?」

 言葉に詰まる。中山さんは手際よく、もう薬指に移っている。

「靴下短くするのも、おしゃれしちゃだめなのも、何か理由があるの?」

 刷毛にトップコートを含ませ直す。

 わからない。なんて答えていいのか、正解がない問いかけは苦手だ。教科書にも参考書にも載ってないことを聞かれても困る。

「北村さんって、テストの点はいいけど、頭悪いよね」

 そう言われて、かあっと首筋から顔が熱くなるのを感じた。

「言っておくけど」

 こめかみがどくどく言うまま、言葉を絞り出す。

「私、あのとき、カンニングしてないから。私の実力だけで点を取ってる。あれはただのおまじないだから。あんたみたいな何も考えずに遊んでる人間と違って、私はちゃんとしてるの」

 カンニングをしていないのは本当だ。あの時、不安になって手にメモをした範囲は出題されなかった。

 だから私は、まだ悪い子から戻れる。いい子になれる。

「それ答えになってないよね」

 私の頭ががんがん言い出したのと対照的に、興味薄そうに中山さんは言う。

「どっちにしろあの写真見たらみんながどう思うかなんてわかるじゃん? それこそ、ほんとにカンニングしたかどうかなんて関係ない。道具持ち込んだっていう、ルール違反をしたって時点でダメなんだよ」

 きれいに塗り終えた爪に、ふうっと息を吹きかけられる。

 それから、持ち上がった目線が、私と合う。たれ目ぎみの目を細めると、中山さんは、悪戯っぽく笑った。

「北村さんがちゃんと答えられるようになったら、私も教えてあげる」

 左手出して、と言われて、無言で従う。

 心臓に血が集まって冷えた指先に、中山さんの柔らかくて温かい手がふれた。

「ベース塗り終えたら、マニキュア塗るけど、ドライヤーないし、乾くまでけっこう時間かかるんだあ。トップは明日かなあ。傷がつかないように気をつけてね」

 それから、あの無邪気な笑顔に、どこか今までより楽しそうな空気を感じた。

「もし崩れちゃってたら、最初から塗りなおしてあげる」

 囁く声は、まるで悪い子になるのを誘っているみたいだった。

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悪い子 平賀学 @kabitamago

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