驟雨祭

阿部狐

本文

 些細な放漫、或いは微睡に似た逃避。否、定めて双方。都合の良い御託を母に吐き捨て、塾を欠席した春眠の日。私の世界から色が消滅した。

 幕開けは痛快だった。あたかも使命の如く勉学に励み、自ずと葛藤する級友を余所目に、私はアイスの味選び、カラオケの曲選びで葛藤していた。その上どう転ぼうと、辿り着くは甘味。鶯のように五月蠅く響いた塾からの電話は、やがて虚空に飲み込まれた。

「勉強が嫌いかい? ならば水溜まりに溶かしなさい。僕の幸福は、我が子の無垢な成長なのだよ」

 父の言動から看取したのだが、両親は放任主義だったようだ。高齢だったからか常に私の意思を優先し、我儘にも寛容で、冗談が上手な、都合の良い保護者であり続けた。その見え透いた慈しみに打ち遣りを覚えたことも、更に逃避を加速させる要因となっていた。

 先の見えぬ霧を駆けるよりも、目前の利潤を重んじる。親譲りではなく、紛れもなく私譲りの性だろう。

 しかし、季節が遷移して太陽の照りつける初夏になろうと、逃避行は相変わらずだった。重い空気で、まるで相応しくない教室。数式の広がる空間で私だけが諧謔を弄した。美辞麗句を並べて賢さを偽るだけで、遷移せず、怠惰で、取り残された。

 

 汗の臭いが充満した放課後の教室。自習に勤しむ友と別れて灰色の校門をくぐった私は、赤と橙の諧調に包まれた。夕方とはいえ、じりじりと灼けるような猛暑だ。

「大規模なサウナみたい」

 独りで毒づいた。かつて冗談を言い合った友はまだ教室だ。しかし私は教室を一瞥して、実らない努力だと友を愚弄しながら砂糖菓子の道に逃げるだけだった。

 私の下校は平凡だ。銀杏の植えられた歩道と交通量の多い車道、そして家と学校の中間に八幡宮。雪の降る時期だけ盛況し、虚偽の神頼みが多発する八幡宮だ。他方で夏は閑散としており、敢えて立ち寄る者も見かけない抜け殻。私は可憐な放課後を所望しており、毎日遠回りを駆使して平凡を打破していた。だから億劫だとしても、私は遠回りするはずだった。

 それにもかかわらず、その日の私は本来の下校を選択し、八幡宮を訪れた。遠回りにすら平凡を感取したのか、或いは物の怪に招かれたのか定かではない。定かであったのは、八幡宮が季節外れの大盛況だったこと。そして秀麗な字で「祭」と書かれた提灯が垂れ下がっていたことだった。


 十八年前の私は、当時から万斛な白髪、加えて肝斑と皺の目立つ両親から生まれた。たいそう苔むした二人であったから、友の親よりも年老いた親が憎く、小学校の授業参観では毎回、左手を振りながら柔和に微笑む母と対照的に、私は苦虫を噛み潰したようだった。

 一方的に嫌悪していた親だが、祭りは例外だった。屋台を経営する男性達が、両親を祖父母と勘違いして私に菓子を与えてくれるからだ。その瞬間は親を好いていたし、同時に契機を施してくれた祭りが大好きだった。遠い目をする両親の手を引き、更なる菓子を想望したものだ。

 懐古しながら、私は八幡宮の鳥居をくぐった。杉の優しい匂いに包まれる。鳥居から拝殿までは一本道で、道の脇に陳腐で無難な屋台の数々が並ぶ。談笑する壮年達、背伸びした浴衣の少女達、初々しく手を繋ぐ男女、すれ違う人々の姿形は様々で、しかしどれもが煌めいた。紅色の孤高だった太陽が、無慈悲な砂時計のように消滅を始める頃だった。

 黄昏時の八幡宮は、射的や金魚すくいをはじめとした屋台の影響で賑々しい。私はその輝きの外で、最低限の照明で存在証明を行う綿飴の屋台へ向かっていた。

 綿飴が好きだった。月並みな割り箸に纏わりつき、儚い蜃気楼のようで、無彩色で着飾ることのない、雪女に似た綿飴が好きだった。べたべたとした気色悪さを厭わずに食感のないそれを齧ると、待ち望んでいた唾液が調和を始めて、最後は必ず甘い。自らの猥雑な食らい方さえ顧みないほど愛おしいものだった。

 私は綿飴の屋台へ辿り着く。店主だけではなく、客をも覆う三寸屋台だった。だが、屋台には誰もいなかった。休憩中なのだろう。肩透かしを食らい、途方に暮れる。道を行き交う者達は綿飴に目も暮れず、私は邪魔になりながら、ただ立ち尽くした。

「君は、綿飴を買いに来たのか?」

 突然投げかけられる声。振り向くと、長躯な青年が私に柔和な笑顔を浮かべていた。白のポロシャツと限りなく漆黒に近いボトムスに身を包んでおり、薄い顔と黒縁の丸眼鏡が調和している。

 私が恐る恐る頷くと、青年は私に近寄りながら辟易した表情で言葉を続けた。

「ご愁傷様。綿飴屋は絶賛休業中だ。呆れたものだよ。これがデートなら大失敗だ。女性を待たせる男性は指輪を買うべきではない。君もそう思うだろう?」

 実の所、初対面の私に対して饒舌な青年の存在が気味悪かった。静まった空と照明の薄明かりが恐怖を助長していたようで、私の唇は小刻みに震えていた。

 適当な相槌を打って敏捷に後退りをすると、後方にいた中年男性と衝突してしまい、私と男性はそのまま石畳に体を打ち付けた。人々の視線が注がれる。共に激突した男性の反応を恐れた私は、更に唇を震わせた。

「すみません」

 しかし、真っ先に謝罪を告げたのは私ではなく、青年だった。

「俺のせいなんです。俺が彼女を押したんです。だから、責めるなら俺を責めてください」

 青年は嘘を交えて、情けなく頭を下げながら男性を諭す。その男性はむくりと起き上がり、捲し立てる青年を一瞥した後に、小声で毒づきながら去った。集まった視線も、青年への軽蔑を除けば疎らになっていった。

 また逸れ者に戻った私にも、青年は頭を下げて詫びた。

「君にも、ごめんなさい。怖がらせてしまって。ただ君と親しくなりたくて」

 先程までの震えは衝撃と共に去った。それどころか、青年が道化師の恰好を装した傀儡に見えた。きっと、邂逅から暫時も経たぬ女に無様な旋毛を晒す彼が滑稽で仕方がなかったのだ。

 だから私は、友達口調で余裕を演じていた青年に対して、敢えて高飛車で若年寄のような口調を使うのだ。

「単純で明快な口説き文句ね。いいわ、乗ってあげる」

「口説き、か。今だけなら都合の良い解釈かもしれない」

「まだ気取るの? もうメッキは剥がれたのに」

 青年はそれ以上口を開かず、代わりに無防備な私の手首を掴んで歩き出す。

「早速屋台を回ろう。そうすれば、少しは剥がれた中身も気に入ってくれるはずさ」

 振り返り、微笑みながら歩を進める青年。私は両親と紡いだ在りし日の祭りを追憶しながら、今度こそ常闇の祝祭に足を踏み入れた。

 

 真っ直ぐな足取りが辿り着いたのは、鳥居の傍に佇む型抜きの屋台の前だった。近くには粗末な木製の机が少しと、自らの型抜きを実況する小学生達。丁度その一人が失敗して、怨み言を吐きながら残骸を口に放り入れた。

 私が小銭を取り出そうとすると、青年がその白い手で制止する。

「悪いが、その蟇口に出番はない」

「いや、それは不公平だよ。払わせて」

「転ばせてしまった償いだ。最も、硬貨二枚で解決する贖罪ではないが」

 高飛車な口調を忘れた本来の私に、青年は変わらぬ気取り方で譲らなかった。私を制止した彼の手は、いつしか硬貨を握って店主へと向かう。それから程なくして、硬貨は澱粉の絵画二枚へと姿を変えた。若緑に星型が描かれた、馴染み深い代物だ。

 青年はその一方を私に差し出し、私と共に小学生達の集う机へ向かった。机には丁度二人分の空間が存在し、中央には乱雑に配置された爪楊枝、周りには闇を照らす提灯が過剰に並んでいた。

「法外な光は時に闇へと変容する。月明かりが理想的だ。君も思わないか?」

 私の分の爪楊枝を差し出しながら青年が問う。彼の袖から漂う夏のむさ苦しさが、妙に懐かしかった。

 二人、型抜き、夏祭り。私と青年は会話しながら星型を削っていた。安っぽい音質の祭囃子が彼の声を遮り、聊か憤ってしまうほど充実した時間だ。たまに軽口を叩き、純粋に綻びた。周りの小学生達の懐疑的な視線に気づくまで、ただ無垢な少女でいられた。

「陳腐な遊戯だが、時を忘れるほど熱中できるものだな。現実逃避にはうってつけだ」

 ところが、突如発せられた逃避という単語の響きで、私の手は停止する。狼に見つかった羊のように、少しの震えを帯びながら。

 法外な光に包まれて、私は今の今まで逃亡者であることを忘却していた。ふと、校門から一瞥した今夕の教室を顧みる。道、友、全て置き去りにしたあの場所を、もう一度振り返る。私が今握っているのは、鉛筆ではなく爪楊枝。書いているのは数式ではなく星型の溝。かつて私が愚弄した友にとっては、私こそが侮蔑の対象だったに違いない。

「どうした。今の君は、まるで数学で解法が分からない時のそれに等しい」

 青年は怪訝そうな表情で、憔悴する私を見つめる。現実的な比喩を用いた彼の言動が憤懣だったのか、また逃避に戻った私は力みすぎて、爪楊枝で澱粉の絵画を破壊してしまった。そして呆気にとられる暇もなく、残骸は周りの小学生達の餌と化した。

「また罪が増えてしまったな」

 青年は悲しく微笑み、綺麗に剥ぎ取られた自らの星を握り潰してしまった。

 

 私達は爪楊枝を排棄して、鳩の如く残骸に群がる小学生達を余所目に月明かりの照らす参道へ踏み出した。合成樹脂のくず物が目立つ道を往く。それを私自身の猥雑な心境と重ねて、自分勝手に憔悴していた。他方で、視界に飛び込むお面屋のそれの如く、私は笑顔の仮面を貼り付けた。

「次は射的をしようじゃないか。どうも君は、作るよりも壊す方が得意そうだ」

 青年の皮肉に苦笑しながら、私はまた逃避の盃に酒を注ぐ。私は酔いたかった。覚束ない千鳥足で、提灯に頬が火照るようで、ほろ酔いの夢で惰眠したかった。虚空の蜃気楼に理想郷を創るだけで、私は幸せな童話でいられたのだ。

 その妄想が薬だったのか、色褪せた射的の屋台へ辿り着く頃には、仮面の奥で本当に微笑むことができた。

 青年は店主に駆け寄り、機敏な動作で二人分の硬貨を手渡す。私は青年の後ろで澄ました顔をしながら、さも当然のように振舞った。赤銅色のコルク銃と数発分の弾が支給される。私は青年の横に立ち、支給されたそれのずっしりとした重量を感じていた。

「ガム、飴、子供騙しの玩具。値段に不相応とも考えられるが、むしろ陳腐な的の方が躊躇が要らなくて助かるものだ」

 青年は装弾を終え、あたかも狙撃銃のようにそれを構える。対して私は不格好に身を乗り出して、頼りない照準を定めた。慣れない姿勢で体を痛めながら、私は横の青年を瞥見する。彼の横顔は凛々しく、しかし双眸は物憂げだ。私は直感的に、以前に見た両親の遠い目と、物憂げな青年の瞳を重ね合わせてしまった。

「射的の攻略法は、すなわち利き手で銃を支えることだ。素晴らしい喜劇の裏には、例外なく敏腕な黒子がいるものだよ」

 呟きと共に発射された青年の銃弾は、吸い込まれるようにガムの箱へ命中し、そのまま重力に囚われた。しかし彼は気取った振る舞いを崩さずに、次の標的を探る。青年に全ての景品を盗られまいと、私は左手の人差し指を曲げた。

「昔から観察眼に優れていると自負している。行き過ぎてしまう時もあれば、墨を塗られたように発動しない時もある。今はきっと前者さ」

 私が装弾する前に、またもや青年はガムの箱に適中させる。倒れはしなかったが、もしも人間ならば出血多量だった。彼の射撃の腕前は店主も目を見張るもので、吐息に似た感嘆の声を漏らしていた。

 確かに青年の射撃術は鮮やかで、尊敬を通り越して畏怖すら感じさせる代物だ。しかしそれよりも、青年の気取った態度と物憂げな瞳が釈然としなかった。彼はまるで空中楼閣の皇子であり、夕立で消散してしまう不確定的存在のように思えた。

 だから私は最後の一撃を終える前に、別れを惜しむ恋人のように、振り絞った声を彼に届けるのだ。

「あなたのこと、いい加減教えてよ。今のあなたは、朧げなヴェールで顔を潜める結婚詐欺師に似ている」

 懇願。青年は狙撃手の構えを解き、私を睥睨する。獣のような、しかし慈しみの混じるもの。同時に放った私の一撃は、安っぽい音を立てて、それっきりだった。

「君こそ、どうして虚勢を重ねる?」

「虚勢?」

「本当に朧げなヴェールなら、型抜きの時に茫然としていた君を見逃していただろう。そうだ、君の耳にはまだ『逃避』の言葉が残響しているはずだ」

 彼から告げられた「逃避」で、現実を直視した瞬間を反芻する。滑稽で無様で、それでも光に逃亡した私を反芻する。

「素性を知らない方が幸せだろう。例えるなら、俺は霧。現れて消える、夏の七不思議で構わないさ」

 青年は悲しく微笑み、また銃を構える。おそらく、最後の一つだ。彼の勇敢で冷徹な狩人に似た風情、そして汗の酸っぱい匂い。好意とは違う、彼に告げるべき言葉が、マグマのようにふつふつと浮かび上がる。噴火までの猶予は要らなかった。

「私、受験生なの。でも勉強が嫌で、塾も行かないで、今日まで逃げてきた」

 青年は撃たない。銃を支える右手が、心なしか震えているように見える。

「常闇の逃避行で幸せだった。知らない方が幸せだった。だけど、もう夢はおしまい。七不思議で心は躍らない。歳を取り過ぎた」

 だから教えて、と続けた私の声は、青年の手より震えていた。初対面の時とは違う恐怖の身震い。刹那の沈黙ですら苦痛だった。

「君は美辞麗句の鬼だな」

 その時、青年の右手が停止した。その瞳はただ真っ直ぐ、提灯の灯りに反射して煌めく。

「夢を吐き出したら、腹が減ったろう?」

 突き抜ける轟音と共に、ガムの箱が情けなく落下した。

 

 宵闇はとうに過ぎ、この星霜で月光は頼りにならない。それどころか厚い雲が月を覆い、覚束ない視界を更に黒く染め上げる。その感覚的な静寂が、むしろ心地良かった。

 射的を終えた私達は、提灯だけが指標の道を往く。肩を組む壮年達、互いに視線を逸らす浴衣の少女達、卵に触れるように抱擁する男女、すれ違う人々の姿形は様々で、しかしどれもが嗚咽した。この時刻からが正念場というのに、屋台の店主達は店仕舞いを始める始末だ。

 私は先を進む青年の背中を追っていた。迷いのない足取りがどこか律儀で、私の代わりに頭を下げた数時間前を回想した。ただ、悲壮的な雰囲気に反して、私は笑顔で軽口を叩く。

「日も跨いでいないのに、店仕舞い? とんだ子供向けのお祭りね。お子様ランチでも販売したらどうかな」

「何を言う。むしろ酒や煙草を売るべきじゃないか」

 青年も冗談を返すが、その声色は嗚咽する人々のそれに等しい。その時、私はやっと沈黙を覚えた。口を噤んだまま進む私は、先程と打って変わって死刑囚のようだった。

「そう押し黙るな。もう着いた」

 青年の声で立ち止まる。私達の前には三寸屋台、あの綿飴屋が佇んでいた。しかし例の如く店主は不在。たまらず私は行方不明の店主に不平不満を漏らす。

 ところが、青年は微笑んでいた。初対面の時と似た気味悪さと、それ以上の愉楽を纏っていた。

「君は、この綿飴屋が見えるのだな?」

 応え、私はこくりと頷く。青年は愁眉を開いて静かに綻び、そのまま屋台の裏へ回った。片隅に眠っていた蓋然性が、拍動と共に増大していく。脅迫のように、扉を叩く。そして数秒後、あまりに呆気なく扉が開放された。

「いらっしゃい」

 青年は屋台の裏から現れて、そのまま屋台の隅にある機械の電源を入れた。機械には円形の空間が存在し、そこから轟音が発せられた。

 

 机一つで隔たれた私達。二人の世界は、機械の轟々とした回転音、それと作為的な灼熱。申し訳程度の照明だけが依然として絢爛で、青年の表情と雰囲気を告げ知らせる。

「あなたが、綿飴屋の店主なの? どうして黙っていたの?」

「君が満腹そうに見えただけだ」

 青年は涼しげな顔で言ってのけるが、すぐに憔悴感を漂わせて言葉を続けた。

「いや、俺の身勝手だよ。君の御伽話になりたくてさ」

 伝心する寂寥。心地良かった静寂が、牙を向いて首筋に噛みつく。彼方から響く慟哭の数々が、頼りない足首に掻い付く。それでも私は、青年の剥がれた中身を凝視した。

 その熱心な凝視に押されるように、或いは射的の所望に応えるように、青年はボトムスのポケットから一枚の写真を取り出す。

「素性を問われるのは、きっと最初で最後だろう。これが解答だ」

 左手で手渡されたそれは、一度皺くちゃにされた経験のある、荒い画像の写真だった。

 三人が微笑んでいた。薄い顔と黒縁の丸眼鏡が、見知り越しの彼が、左手に綿飴を持った彼女が、鳥居の前で微笑んでいた。変わらぬ風貌の青年と、若かりし頃の私の両親だった。

 

 空を覆う黒い雲が唸り、ぽつぽつと泪を流し始めた。視界の隅で袖を濡らす人々は、それでも結構と言わんばかりに身を任せる。三寸屋台に寄り添った私と青年だけは、零れる感情を知らずに済んだ。代わりに、私の震撼する手から写真が零れそうになるだけだ。

「両親は、とても厳しい人だったよ。特に勉強に関しては」

 轟く機械にザラメ糖を投入しながら、青年は私に、若しくは虚空に呟き始める。彼の喘鳴を、無慈悲な雨音に押し流しながら。

「だから気が付いた時には、勉強が一番の友達だった。学校と塾を往復する毎日が、何の変哲もなくて、俺もそれ以上を要求はしなかったつもりだ」

 青年は私と視線を合わせない。真顔で割り箸を取り出して、それを凝視するだけだ。雨天が屋台を刺激して、激しい音が立て続けに響いた。

「俺が君と同年齢だった時の初夏だった。厳しい両親が、息抜きと題して、初めて俺を祭りへ連れて行った。当時の俺には、古臭い遊戯も新鮮だったものだ。成功するまで澱粉の絵画を削って、撃ち落とすまで銃を構えて、他者から見れば滑稽だっただろうな。君に渡した写真も、その時のものだ」

 財布の減量にもなった、と続けた後に、青年は苦笑する。ただ私は、場の雰囲気を汲み取るのが苦手だった。表情変わらぬ私を一瞥して、彼はまた真顔に戻った。

 青年は割り箸を機械へと伸ばし、丁寧な円を描いた。しかし、まだ白雲は纏わりつかない。

「両親にとっては息抜き、されど俺にとっては逃げ場所。翌日、俺は塾を抜け出して一人で祭りに行った。それを聞いた両親は大激怒。のこのこ帰宅した俺に説教の嵐を浴びせるんだ。当然だよ」

 自嘲の混じる苦笑。今度の私は空気を読み取って、嗤わなかった。

「傲慢な自尊心だった。都合の良い御託を母に吐き捨て、日を跨ぐ時刻に家を飛び出した。電灯も街明かりも頼れないほどの雨が降っていて、でも、俺には関係無くて。誰もいない街を駆けた。泥の車道を走ってやった。転倒して全てが黒く染まろうと、幸せだった。常闇の逃避行で、俺は幸せだった!」

 語気を強めて吐き出した後、青年は顔を背ける。反射した水滴の光は、きっと雨の悪戯ではない。

「呆気ない最期さ。車に轢かれたんだ。紛れもない、俺を追っていた両親の車に」

 青年の握りしめた割り箸が、過剰な振動を繰り返す。楕円に近い乱雑な図形を描き、やがて心もとない白い綿を纏った。ただ一度先駆者が出現すると、それは群がるように、不格好に膨大していく。型抜きも射的も見事な彼の、ただ一つだけの猥雑。

「ずっと謝りたかった。遠い目で見つめる両親に。もう一度夢が見たかった。型抜きも射的も上手になったから。吐き出してほしかった。君を俺の二の舞にさせないために。御伽話でいいから、七不思議でいいから、二度目の我儘を願った。二十余年の流星群に願っていた」

 異形で、野暮で、あまりに待望し続けた綿飴。儚い蜃気楼のようで、無彩色で着飾ることのない、雪女に似た綿飴。機械を止めた青年は私に向き直り、机越しにそれを差し出す。割り箸は手汗を吸い取り、少し色褪せていた。ただ、今は色褪せてほしい。物憂げな体温を、握りしめて共有していたい。

 綿飴を手渡した後の青年は、雨の憂鬱に抱擁されぬよう、また虚勢に似た気取った態度に戻る。

「つまり、俺と君は兄妹ということだ」

「あまり似ていないね」

「いいや、そっくりだ。特に、俺達の気取った言い回しは父さん譲りだろう?」

 二人して笑った。お互いに、今しか笑えないと思っていただろうから。

「初夏の時期になると、俺のように未練がましい死霊が、この祭りに集う。俺達が勝手に始めた集会だが、いつしか俺達が中心要素になってしまって」

「未練は断てた?」

「ああ。君もそうだと嬉しいが」

 黒い雲が薄れて、月が私を覗く。耳障りな神様の泪が乾く。星河一天を予感させる白い雲に、私は齧り付いてやった。

「特別は不要だ、ただ絢爛と輝け。そして最後の我儘を聞いちゃくれないか、綺羅星。俺の幸福は、両親の無垢な笑顔なのだよ。だから、二十余年の驟雨が黒雲を溶かした時、両親の首を縛る未練を断ってくれ」

 願望。永久か刹那か分からぬ祈祷。私が三寸屋台を抜け出して見上げた空は、明瞭に月を投射する。暗雲を綿飴色に染め上げる。その綿飴雲は、雨に打たれたように溶けて、星空の喜劇の裏方に回る。密度が半分になった石畳で、人々は目を細めた観客だ。

「私、受験頑張って、二人の未練を断ち切ってみせるよ」

 雨上がりの酸っぱい臭い。それを彼のむさ苦しい匂いに投射しながら、私は水溜まりの道に踏み出した。砂糖菓子の道を雨に溶かして、もう振り返らない。決意の返事も望まない。望むなら、天翔ける流れ星に合格祈願を。

 虚空に誓った決意が、いつか御伽話として話せますように。

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驟雨祭 阿部狐 @Siro-i

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