否定恐怖症

御厨カイト

否定恐怖症


「葛城~?今日もさ、このプリント運んどいてくれる?」


「え、あ、うん、分かった」


「あと、ここに置いてあるノートとかも教室に運んどいて」


「うん、分かった……」


「よろしくー」



今日も私はクラスメイトに押し付けられた仕事にせっせと励む。

両手に積み重なったノートとプリントを持ちながら、よろよろと。

のんびり落とさないように運んでいく。




教室に着いたら、ドアを足でガラガラガラッと開け、持ってきたものを教卓の上に置き「ふぅー」と息を吐きながら自分の席へ座る。

そんな一息ついたところに友人の遥が声を掛けてきた。



「ねぇ、葵」


「あっ、遥、どうしたの?」


「また今日もアイツらの言う事聞いたの?」


「言う事聞いたっていうか……まぁ、そうだね」



あっけらかんと答えると目の前の遥は呆れたような顔をしてくる。



「はぁー、本当にアンタという奴はそろそろ断ったり否定することを覚えなさいよ」


「そんなこと言ったって遥だって知ってるでしょ、私の体質の事」


「葵の『否定恐怖症』のこと?」


「そう」


「知ってるけど、それもそろそろ克服しないと」


「恐怖症って克服出来るの?」


「いや、知らないけど」


「何それ」


「い・い・か・ら、いつまでも『否定』をすることを怖がってたらこの先、生きていけないよ?私たちももう高校生なんだから」



有無を言わせない口調でそう主張してくる遥。

圧が凄い。



「でも……」


「……葵が躊躇するのも分かる。それでも、アイツらみたいにそんな葵の性格を利用して仕事を押し付けてくる奴らだっているんだよ?」


「……」


「勿論こればっかりは葵自身の事だから、結局どうするのかは葵に任せる。でも……凄く心配している友人が傍にいることも忘れないでね」


「遥……」



丁度そこでチャイムが鳴った。

遥はニコッと微笑み、自分の席へと戻っていく。


授業が始まるが、私は自分の体質の事で頭がいっぱいになっていた。




私は……否定をすることが怖い。

昔から人からの頼みごとに対して断ったりするのに恐怖を感じる。

そんな自分の体質の事を私は『否定恐怖症』と呼んでいた。


ネットで検索しても全くもってヒットしないから、もしかしたらこの症状を持っているのは私だけなのかもしれない。

……こんな特別は嫌だけど。


それにこの体質の事はホントに仲の良い友人(遥とか)にしか話していない。

それでも、一緒に学校生活を送っているからかクラスメイトには「頼み事を断らない便利な奴」と印象付けられてしまった……気がする。

いや、まぁ、確実にそう。

仕事を任される機会がどう考えても増えたし……



私も流石にこの状況はダメだと思ってるから克服しようと思ってるんだけど……現状思ってるだけのまま。

どうしても怖くて、今までのようなこのぬるま湯に浸かっていたい。

でも、遥がそこまで私の事を想ってくれてたなんて……



私も頑張らないとな。



「次は葛城……おい葛城」


「は、はいッ!」


「はい、じゃなくてここの問題解いてみろ」


「えっと……分かりません……」


「おいおい、ちゃんと授業聞いとけよ。じゃあ、木村、答えろ」



慌てて立ったのにそう言われストンと静かに座る。

少し周りに笑われてしまった。


強く決心した途端にこの仕打ち。

……授業中なのは分かってるけどなんか初っ端から運が悪いなー、もう。





そんなことを思いながら、私はシュンと1人落ち込むのだった。










********







自分の体質を治すことを決心してから何日か経ったある日。

私はいつも通り、克服について何も進んでいない自分に対して情けなく思いながら登校していた。


……正直な話、どうすれば克服できるのか全然案が思いつきません!

まぁ、人からのお願い事をちゃんと断るようにしたら一件落着な話ではあるんだけど……

それは自分自身でも勿論分かってる。

でも……怖い。


一歩を踏み出せない。


なんなら恐怖症による恐怖とその恐怖によって「否定すること自体が怖い」と思い込むようになってしまった事によって起こる恐怖の二重恐怖によって尚更足が進まなくなってる。



……自分を変えるのってこんなにも難しんだな。



そんな感じで朝からブルーな気持ちになってしまった。

学校にも着いたし、流石に気持ちを切り替えないと。





という訳で少し音楽でも聴こうとスマホを開こうとしたその時、自分の下駄箱に何か入っている事に気づいた。




「ん?何これ、手紙?」



チラッと裏返すと「3-4 近藤」と書いてあった。

差出人だろうか。



中身が気になるので開けてみる。

中には便箋が1枚。

そして、文章が1文。



『話したいことがあるので、放課後、屋上に来て下さい』



……随分と簡素化された文章だな。

それにこれぐらいの内容ならわざわざ手紙にして言ってこなくても……



そんな中、ある一つの考えが私の脳内を巡る……が、私はその考えを即座に打ち消した。



流石にこれが「ラブレター」だなんて、恋愛漫画脳すぎるな。

いや、でも……もしかしたら……



打ち消したはずの考えが頭の中をぐるぐると回る。

やがて頭のキャパを超えそうになったため、強制的に考えるのを止めた。


また後で考えることにしよう。



そして、思考を現実の方へ切り替えるといつの間にか教室のドアの前に立っていた。

「なんと!?」と驚きながら、ドアを開け教室の中に入る。

すると、目が合った遥が声を掛けてきた。



「おはよう、葵。……うん?その手紙どうしたの?」


「さっき自分の下駄箱の中に入ってたんだ」


「へー、今時下駄箱に手紙って古いねー。もしかして、ラブレター?」


「うーん……そう、かもしれない」


「えっ!?マジで?誰から?」


「3年4組の近藤君から」


「ちょ、ちょっと中見せてよ」


「うん、いいよ」



私は持っていた手紙を遥に渡す。



「えっと、どれどれ……『話したいことがあるので、放課後、屋上に来て下さい』……?……何これ?」


「分かんない」


「……凄くシンプルな手紙だね」


「それは私も思った」


「これがラブレターかどうかは置いといて、この3年4組の近藤君とは面識あるの?同じクラスになったとか」


「同じクラスになったことは無いけど、委員会が一緒。それも3年間」


「話したことは?」


「あるよ。性格も良いし、仕事がメチャクチャ出来る人って印象」


「ふーん……」


「それがどうしたの?」



遥は何故か怪訝そうな顔で腕を組んでいた。

そして、口を開く。



「いや……実は私もこの近藤君って子知ってて。それも悪い方で」


「えっ、何それ」


「と言っても、噂ではあるんだけど週末によくカラオケでバカ騒ぎしてるとか金遣いが荒いとか、とにかく悪い話ばっかりなんだよね」


「えー、でもそれって噂でしょ?」


「それはそうだけど……とにかく、もしこれがラブレターだったとして葵は近藤君の告白、受けるの?」


「……気が早くない?」


「もしもの場合に備えとくの。あんたの場合は尚更。で、どうするの?」


「……遥の意見を聞いても?」



決心できない私はおずおずした様子で遥の助けを借りる。



「私は勿論『断る』一択。ただでさえ受験で忙しいとそれに加え恐怖症についても克服しないといけないのに単純に『恋愛』なんて無理でしょ。それにそもそもあまり好きじゃない人の告白を受ける意味があるのって話」


「な、なるほど……」


「っていうか、そう考えると今回のは良い機会なんじゃない?」


「えっ?」


「あんたの『否定恐怖症』を克服する奴。丁度良いじゃん、頑張って断ってきなよ」


「ま、まだラブレターだと決まった訳じゃないから大丈夫だよ」






……と思ってたんだけど、






「葛城葵さん、好きです!俺と付き合ってください!」





まさか本当に告白されるなんて思ってもなかったな。






放課後、少しドキドキしながら屋上に向かうとそこには近藤君が1人待っていた。

そして、私の姿を見るなり告白して来たって訳。




「え、ちょ、ちょっと待ってよ。イマイチ状況が呑み込めないんだけど……」


「あっ、ごめんなさい!少しテンパってしまって」


「……取り敢えず、近藤君は私の事が好きっていう認識でオッケー?」


「はい」


「理由を教えてもらって良い?」


「えっと、きっかけとしては1年生の時に委員会での活動中に黙々と1人で仕事をこなしていく葛城さんの姿に一目惚れしたからです」



1年生の時……あぁ、なんか仕事押し付けられた時のやつね。



「それまであまり葛城さんと話した事無かったんですけど、それから積極的に話しかけるようになってもっと好きになっていった感じです」



なるほど……確かに凄く話しかけたり、作業を手伝ってくれるなと思ってたけどそういう事だったのか。



「なので……もう一回改めて言わせてください!葛城葵さん、好きです!俺と付き合ってください!」



そう言いながら、近藤君は手をこちらに差し出してくる。




……むむむ、どうしたものか。

いや、どうするもなにも断るしか無いよなー。

遥が言ってたことも一理あるし。

でも……


チラッと彼の方を見る。

緊張しているのか手が微かに震えている。



『否定』に対する恐怖感というのは案外こういう人からの期待感とかを裏切れないという気持ちから来ているのかもしれないな。



それでも、今回はそういう自分の体質、甘さを克服する絶好の機会。

近藤君には悪いけど、今回は断らせてもらおう。



そう思い、『ごめんなさい』と断ろうとしたその瞬間――



「ッ!」



来た、が。

急に呼吸が浅くなり、冷や汗がタラりと垂れる。

そして自分の鼓動がいやに大きく、速く聴こえてくる。


この『否定恐怖症』の嫌な所は『否定』が出来ない事だけじゃなく、『否定』しようと思っても身体的症状が出てくる所。

この症状も怖いからこそ、より一層『否定』出来なくなってくるのだ。


今回も漏れなくそれ。

耐えようと思っても、今度は口が動かない。

ただ『ごめんなさい』と言うだけなのに。

悔しい。



流石に近藤君もそんな私の姿に戸惑いながらも「だ、大丈夫?」と声を掛けてくる。

それに私は大丈夫じゃないけど「大丈夫」と苦笑いをする。



ダメだ、苦しくて涙まで出てきた。

この症状から逃げるためには『同意』するしかない。

これまでのより遥かに大きい頼み事でも無理なのか。



やっぱり、自分を変えるのは難しいんだな……





結局、今回も私は断ることが出来なかった。





「で、結局オッケーしちゃった訳だ」


「……はい」


「はぁー、『否定恐怖症』っていうのは本当に困ったものだね。……薄々そうなりそうだと思ってたけど」



頬杖をつきながら、しらーっとした目で見てくる彼女。

目線が刺さって凄く痛い。



「私も今回はいけるかなと思ったけど……案の定ダメだった」


「ホントにあんたって子は、もー」


「ごめん……」


「……まぁ、今回は克服しようと頑張ってこれだからしょうがないね。決めたのは葵だし。それはそうとして、今後どうするの?昨日、告白されちゃったんだから」


「あっ、そうだ!それで遥に話したいことがあったんだった」



私はあの後考えていた、ある考えについて話す。



「何?」


「遥って私が告白を受けるのは反対って言ってたよね」


「言ったね。ちゃんと理由も含めてだけど」


「そう!でも、私、あの後考えたんだけど今回の一件でもしかしたら私のこの体質が治るかもしれないの」


「……と言うと?」


「だって、人と付き合うっていう事は大分生活に変化があるじゃん。それって今までの生活とはまた違う刺激だったり影響がある訳でしょう?という事は私の体質にも何か変化があると思わない?」


「……うーん、確かに一理ある……けどその相手が近藤君かぁ……」



まだ難しい顔で唸る遥。

……まぁ、当然かもしれない。



「何、まだ心配してるの?」


「そりゃそうでしょ。私は近藤君に対して良い印象持って無いんだから」


「でも、私にはやっぱり良い人そうに見えたけどなー。告白の時もすごく緊張してたのか手が震えてて可愛かったし」


「まぁ、葵がそう思ったんなら良いだけど……。結局、付き合うのは葵自身だしそれに外野がとやかく言ってもしょうがないか」



「ふぅ」と遥は少し息を吐く。

その溜息が失望から来てないことを切に願う。



「……と言うか、そもそも葵は近藤君と付き合う事に対して抵抗は無いの?」


「うーん……こうなってしまった以上しょうがないなという気持ちも少なからずあるけど、抵抗に関してはあんまり無いかな。委員会とかで結構長い期間一緒に活動したりして彼がどんな人かもしかしたら表だけかもしれないけどある程度知ってるから」


「そう、葵がそう思ってるならそれで良いわ。多分これから色々忙しくなるだろうけど頑張ってね」



優しく私の事を案じるような微笑みを遥は見せる。

ホント彼女のような友達がいて良かったなと思う。




そんな私たちの話し合いが綺麗に締まった、丁度その時――



「葛城さん、今日から一緒に帰りませんか?」



話題となっていた近藤君が教室のドアから顔を出してそう話しかけてきた。

そこで私の横にいた遥の存在に気づいたのか軽くペコリと頭を下げる。

そんな彼の様子に私と遥はお互い「ふふっ」と笑みを零した。



「分かった、今行く。それじゃ、遥、また明日ね」


「うん、また明日」



私は机の横に掛けていた鞄を持って彼の元へ向かう。



「じゃあ、行きましょうか」


「うん」





この時の私はこれからどうなっていくのか、どう変われるのか期待とほんの少しの不安で満ち溢れていた。













そして、この日から私はあまり遥と連絡を取らなくなった。














********









それからの日々は何だか凄く早く感じた。

主な理由としてはやっぱり受験。


就職では無く進学を希望したため、ずっと勉強三昧な日々で曜日感覚すらも薄れていたと思う。

志望校についても元々行きたいところがあったから、進路相談会の時も特に『否定』に怯えること無くスムーズに決めることが出来た。

……ちなみにもう入試は終わって……無事合格しました!

これで晴れて春から大学生です!



恋愛の方はどうかと言うと……本人たちもびっくりするほど上手くいってる。

最初があんなんだったから正直な話あまり続かないと思ってたんだけど、今の今まで続いてます。

それも良好な関係のまま。

何なら、私の方も近藤君……じゃなくて湊の事が好きになっちゃった。

……まぁ、そらそうだよね。

常に好意を振り撒いてる人が隣に居たら好きにもなっちゃうよね。

ちなみに彼も私と同じ大学を志望し、合格したので春から同棲が始まります!

やったね!



そして、最後はやっぱり私の体質、『否定恐怖症』について。

まだまだ完全に治った訳じゃないけど、少しずつ良くなっている……気がする。

いや、確実に良くなっていると思う。

未だに『否定』することには恐怖を覚えるけど、前ほど症状自体も酷くないし頑張って堪えたら何とか否定できるぐらいにはなってきた。

周りが結構気を遣ってくれたり、やっぱり精神的な支えが出来たことで私の心にも変化が起きているんだと思う。



それにしても、この数か月で色々な良い事が起こりすぎている。

まるで今までこの『否定恐怖症』によって損していた部分を一気に取り返した感じ。

やっぱ、神様は見てるんだな!





……遥とは逆に最近あまり連絡を取っていない。

学校では勿論話すけど、やはり恋人が出来ると時間をそっちに充ててしまう。

今までLINEとかの通知欄の一番上は基本的に遥だったのに、今では何個か下になってしまってる。

遥も志望していた大学には合格したみたいだけど私と違って県外だし、より一層連絡が取りづらくなってしまうな。


……まぁ、何かあればあっちの方からまた連絡してくるでしょ。





そろそろ卒業の時期も近づいてくるし、それが終わったら春休みからの大学入学。

あぁ、早く同棲する部屋を探さないとな!











********








あれからまた数か月が経ち、新生活が始まった。

同棲する部屋も大学にも近くて良い場所が見つかり、引っ越し作業も滞りなく終わった。



大学にも入学し、授業も始まった。

毎朝湊と一緒に登校できるのは高校と変わらないけど、変わらないからこそ嬉しい。

湊はサークルにも入って毎日楽しそうだ。



「葵、コートってどこに置いた?」


「玄関のハンガーラックに掛けたはずだよ」


「あっ、ホントだ。ありがとう」



……まだまだこの同棲の距離感には慣れない。

ドキドキされっぱなしだ。



「そういえば、大学の先輩にカラオケ誘われてるんだけど葵も来る?」


「えっ、私は……い……行かない……」


「……そう、分かった。よく頑張ったね」



今の一瞬でも呼吸が浅く、冷や汗が垂れる。

これでも前よりは大分症状は良くなったけど、それでも苦しい。

そんな私の様子を見て、湊は優しく微笑み頭を撫でてくる。


私の方から彼に日常的に私の意志を聞く頼み事をして欲しいと頼んでいる。

単純に私が『否定』する事、断る事に慣れるため。

多分これのおかげで私の体質はどんどんと良い方向へ向かって行っていると思う。

ホント協力してくれる湊には感謝しかない。



「よしっ、準備できたしそろそろ行こうか」


「今日も同じ時間割?」


「いや3コマ目が違うし、何なら今日は俺4コマ」


「それなら今日は私がご飯作るね。何が食べたい?」


「葵の料理は何でも好きだから任せるよ」



凄く嬉しい事を何事でも無いようにすんなり言ってくれる彼。

顔がニヤけてしまう。



「じゃあ、湊が特に好きな肉じゃが作って待っとくね」


「やったぜ!憂鬱な1日が最高の1日に変わった」


「フフッ、何それ」



そうして、私たちは今日も一緒に大学へと向かう。










この時まではこの楽しい時間がずっと続くと思っていた。













********







またまた時が流れ、この新生活にも慣れてきた頃。

私はある事に頭を悩ませていた。


いや、別に自分の体質の事についてでは無い。

逆にある程度はもう『否定』出来るようになってきたから、もう『否定恐怖症』と呼ぶほどでは無くなっているのかもしれない。



私が頭を悩ませているのは湊についてだ。

大学やサークルでの活動にも慣れ、先輩たちとも仲良く過ごせるようになっていた彼だがここ最近、随分と金遣いが荒い。

友人や先輩たちとの遊びにバイト代の殆どを使い込むほどになってしまった。

何なら、最近は私にもお金を借りるようにもなってしまった。


最初は少額で貸してもすぐに返してくれていたから安心していたけど、今では1回に貸す金額が万を超えるなんてザラ。

まだ、ちゃんと返してくれているだけ良いけど……これが続くとなったら大分心配だ。



ここで遥が昔言っていた彼に対する悪い噂を思い出した。

確かあの中には「金遣いが荒い」っていうのが入っていた気が……

……いや、高校の窮屈な空気から大学の自由な空気になったから今まで抑えていたものがただ溢れ出してしまっているだけだと思う。

そう思いたい。



……だとしても……これ以上は流石にダメだよね。



「ただいま」



そんな事を考えていたら丁度良く彼が帰って来た。



「お帰り、今日も遅かったね」


「あー、先輩たちと飲みに行ってたから。流石に酒は呑んでないけど」


「じゃあ、晩御飯食べて来ちゃったの?」


「おん……もしかして準備してた?」


「うん……前にも言ったけどそういう時は事前に連絡してって言ったよね」


「ごめん、忘れてた」


「はぁ、作っちゃったから明日の朝、ちゃんと食べてね」


「分かった」



溜息をつきながらキッチンに置いていた料理にラップをかけ、私は冷蔵庫に入れる。

すると、リビングで突っ立っていた湊が口を開いた。



「ねぇ、葵。また少しお金貸してくれない?」


「えっ?また?この間も貸したよね」


「まぁ……そうだけど、ちょっと入り用で」


「聞くだけ聞くけどいくら?」


「2万くらいかな」


「2万って……何に使うの?」


「今度また先輩とかとゲーセン行ったりカラオケ行ったりするから、それで使うの」


「それなら自分のバイト代使って遊べば良いじゃん」


「バイト代が余ってたらそもそも葵に金貸してもらわないよ」


「……それに前に貸したお金もまだ返してもらってないんだけど」


「それに関しては来月またバイト頑張って返すからさ。なっ?頼むよ」



そう懇願してくる彼の表情に少し揺らぎそうになる。

でも、ダメだ。

今回ばかりはちゃんと断らないといけない。

まだ『否定恐怖症』は完全に克服してはいないが、彼の為にも今回は頑張って乗り越えなくては。


一度ゆっくり深呼吸をする。



「……前から思ってたけど、これ以上は………ダメ。流石にダメ!もう貸せない!」



よしっ、言えた!

まだ胸がドキドキしているけど前よりは酷くない。

恐怖についてももう少しで克服出来そうだ。

ここまで来れたのは湊のおかげだし、湊もこのまま私の言葉で思い留まってくれたら……



そう思い、湊の顔を見る。

すると――




「……チッ、何だよ」




冷たい声が聞こえた。

そして見える失望の顔。

ゾクッと体が震える。

これは……『恐怖』だ。



「……えっ?」


「そうか、分かった」



短くそう言うと彼はお風呂に入るためか脱衣所へと向かって行った。




……今まで聞いたことの無いような温度の声に見たことの無い表情。

まさか、あんな態度を取られるなんて思ってもいなかった。

彼の対して親愛の情が強いからかものすごくダメージが大きい。


それに今まで『否定』をする前に恐怖を感じていたのに、今回は『否定』をした後に恐怖を感じた。

……私はどうすれば正解だったのだろう。

ぐるぐると色々な考えが頭の中を巡ってしまう。


……取り敢えず、お風呂から上がった湊がどんな感じで接してくるかで対応を考えよう。

機嫌直ってると良いな。







そんな私の心配とは裏腹に、お風呂から上がった時にはいつもの優しい湊に戻っていた。













********











あの日から湊が私にお金を借りることは無くなった。

だけど、それによって友人などにお金を借りるようになりトラブルが絶えないらしい。

流石に深くまでは知らないけど。

その所為もあってか最近は家にいる時の機嫌が基本的に悪い。



……同棲を始めた時はまさかこんな事になるなんて思ってもなかったな。

いつまでもキラキラとした生活を送れると思ってたのに。

……何だか久しぶりに遥と話したくなってきた……って、あっ、前のスマホ間違えて水没させちゃって新しいスマホに変えたから遥の連絡先消えちゃったんだった。

はぁー、最近ツイてないな私。

『否定恐怖症』についても克服へ良い方向に向かっていると思ったのに、前の一件で断るのに結構躊躇するようになっちゃったし。



こういう時に限って湊も帰ってくるの遅いし、ホントやんなっちゃう。



「ふぅー」と息を吐き、頬杖をつきながらチラッと時計を見る。



……それにしても……本当に帰ってくるの遅いな、湊。

今までも何度か結構遅くに帰ってくることはあったけど、日を跨ぐことは無かったのに。

……流石に心配だから寝ないで待っといてあげるか。







数十分後






リビングの机でウトウトとうたた寝をしていると玄関の方からガチャガチャと音が聞こえた。



「……湊?」



やっと帰ってきたのかな?



少し眠い目を擦りながら、玄関の方へ向かう。

どうやら焦っているのか鍵穴に鍵がうまく入らず、空回りをしているようだった。

いつまで経っても入ってこないので内側から玄関の鍵を開けてあげようとしたその時――



丁度、鍵が開いたのか湊が中に入って来た。

……うん?何か様子がおかしい。

凄く落ち着きが無いし、瞳孔が開いている。

何かあったのかな?



そう思い、声を掛けようとした瞬間、



ガバッ



急に湊に抱き着かれた。



「え、ちょ、きゅ、急にどうしたの湊?」



不意なハグに驚きながらも、少し照れてしまう私。

だが、次の湊の言葉に何もかもが吹っ飛んだ。





「葵……俺……人殺しちまった……」






……えっ?

今、なんて言った?

人を殺した……?

……どういう事?

私の聞き間違い?




「……えっ?今、湊、なんて言った?」


「……だから……人を殺しちまったんだよ!」




……聞き間違いじゃなかったか。

いや、だとしても全くもって意味が分からない。

いつ、誰を、どうやって、何で……?


でも、まだ本当かどうか分からない。

もしかしたら湊の悪戯かもしれない。

……だとしたら余りにもたちが悪いけど。



そんな私の予想は見るも無残に壊された。



よく見ると湊の服にはべったりと赤色の何かが付いている。

トマトのような生気のある綺麗な赤色では無く、死んでいるようなとても赤黒い赤色。

多分、これは血なんだろうと直感的に感じた。

というか、顔の至る所にも赤い斑点があるけど、これも血なのか……



……絶対今じゃないけど、取り乱している人が目の前にいると冷静になれるというのを今自分の身で実感しています。



取り敢えず、このままだと何も進まないので湊を落ち着かせて話を聞かなくちゃ。

一旦このハグの状態を解かせ、落ち着かせる。

……ちょっと待って、手にも血がついてんじゃん。



「ちょっと湊、一旦落ち着いて」


「ふぇ?」


「そんな取り乱しても何も進まないから、一回状況を整理させて。一体さっきまで何があったの?」


「え、えっと……だ、だから、今日は先輩たちとゲーセンとか行った後に、と、友達の山田にあの大学の近くの公園に、よ、呼び出されたんだ。そ、それでいつも通り『金返せよ』って言われたから『今金無いから無理』って言ったら、それで、し、痺れを切らしたのか、あ、あいつ、ナイフ取り出して『今払わねぇと殺すぞ』って脅してきて、それで、じょ、冗談だと思って笑ってナイフを取り上げようとしたらあいつも抵抗してきて、それで、し、死にたくなかったから、と、取っ組み合いをしてたらあいつがいつの間にか血だらけで倒れてて、俺は手に血だけのナイフ持ってて、それで……」




あー……完全にアウトな奴じゃん。

え、これどうしたら良いの?

……と、取り敢えず、警察に連絡した方が良いよね。



そう思った私はスマホを取り出して警察に電話しようとする。



「ちょ、ちょ、ちょっと待って、今それどこに電話しようとしてるの?」


「どこって……け、警察だけど」



そう言った瞬間、湊は私の手にあるスマホを床に叩き落とした。



「えっ、何すんの?」


「け、警察はダメだよ!」


「ダメって……人殺しちゃったんだから警察に言わないと」


「何で?何で言わないといけないの?俺は別に悪くないのに!ナイフを持ってきてたアイツが悪いのに!」


「でも、殺しちゃったんでしょ?なら、警察に電話しなくちゃ」


「俺は悪いことしてない!俺は悪いことしてないだ!あいつが悪い!全部あいつが悪い!」



……これは話にならないな。

どっちにしたって悪い方に転がるのなら警察に行った方が……


「俺は悪くない!」とずっと呟いている湊を横目に私は床に落ちたスマホを取ろうとする。




ガシッ




「!?」




腕を掴まれた。



「葵……頼むから俺の事を助けてくれよ。頼む、頼む!」


「助けてって言われても……どうもできないよ……」


「葵だけが俺の味方なんだ!俺が頼れるのは葵しかいないんだ!だから……お願いだから俺の事を助けてくれよ……!」



涙を流しながら、私に縋って来る湊。

これに関しては流石に断る一択なんだけど……



そう思った瞬間、体にゾワッと悪寒が走る。

そして急に呼吸が浅くなり、冷や汗が垂れてきた。

……まだ『否定恐怖症』は収まって無かったか。

あまり症状が酷く出ることもここ最近は無かったから油断してた。

そんな事を考えていく内にも鼓動がドクッドクッと速くなっていき、視界が狭まっていく。


ただ断るだけなのに凄く苦しい。

凄く悔しい。



でも……どうすれば……

このまま彼の言葉に同意したって、待ち受けているのは地獄だけ。

どう考えても断るしかない。

……くっそ、何で私は『否定恐怖症』なんだ!

こんな厄介な体質が無かったら私はもっと楽しい生活が遅れていたはずなのに……

それでも……そこまで考えても私の体は、心は『否定』することに恐怖を覚える。




やっぱり、自分を変えることは難しいのか。

あぁ、苦しい、苦しい、苦しい……






回らない頭を無理やり回しながら考えても、私は……私は……








「わ、分かった。湊の事、助けるよ」









あぁ……私はこんな状況になってもやっぱり『否定』するのが怖いみたいだ……


















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