鈴虫

 あれは、二年前の初夏のこと。


 リーン リーン リーン

 鈴虫が鳴いている。

 澄んだ美しい音色が梅雨明けの空に響きわたっている。


 七月の初め。こんな季節外れにいったいどうして鈴虫が鳴いているのだろう。僕は不思議に思い、虫のの聞こえるほうへ歩き出した。


 リーン リーン リーン

 虫の音に釣られて、僕が古い倉庫まで来た時、草むらの中にテープレコーダが置いてあるのに気が付いた。


「テープ?」

 僕はカセットレコーダを持ち上げる。スピーカーから聞こえてくるのは、追いかけていた虫の音に間違いない。なんだか拍子抜けして、僕はカセットの再生を止めた。

 季節外れの鈴虫はいなくなり、セミの声が聞こえはじめる。

 僕は持ち上げたカセットレコーダをどうしたものかと、しばらく見つめていた。


「返して!」

 突然、後ろから声がする。驚いて振り返ると、果たしてそこには小さな女の子が立っていた。

「君かい? こんないたずらをしたのは」

 僕がそう言うと、女の子は怒ったようにこっちをにらみつけて来る。

「いたずらじゃないもの! 返して!」

 女の子はそう言うと、僕の側まで走ってきて両手を差し出す。そのまま返してもよかったのだが、なぜだかいじわるをしたくなった。


「なんでこんな事をしたんだい? 言ったら返してあげるよ」

 僕は女の子の手を交わしてカセットレコーダを頭上高くに持ち上げる。

「鈴虫のお墓」

 女の子はそう言って、僕の後ろの草むらを指差した。よく見ると、一箇所だけ草の生えていないところがあり、地面には大きな石が埋めてあった。

「お墓?」

「そう。お墓。鈴虫飼ってたの。それが去年の今日、死んじゃったの。だから、仲間の声を聞かせてあげてるの」

 つっかえつっかえしながらも、女の子は僕に説明してくれた。

「テープ。頑張って録ったの。返して!」

 きっと、去年の秋にでも鈴虫が鳴いている声を録音したのだろう。手を伸ばす女の子に、カセットレコーダ再生ボタンを押して返してあげた。


 リーン リーン リーン

 また、鈴虫の音が響きわたる。


「お参りしてもいいかな?」

 僕は女の子に対するお詫びの意味も含めてそう言った。すると、今までムスッとしていたその子が急に笑顔になる。

「うん。いいよ」

 女の子はそう言って、大きくうずいた。


 今年、六月の終わり。梅雨の晴れ間の一日に、たまたまあの時の倉庫の近くを通りかかった。

 僕は気まぐれに「鈴虫の墓」に足を向ける。まだ時期が早過ぎたこともあって、女の子もテープもそこにはなかった。ただ石の墓標だけは、二年前と同じようにそこにある。僕はその前にしゃがみ込むと、目を閉じて手をあわせた。お参りが終わると、立ち上がって元の道に戻る。

 その時、どこからともなく鈴虫の音が聞こえてきた。僕は女の子が来たのかと思い、声のする方へ歩みを進める。すると、道の向こうの紫陽花の手前まで来た時、一匹の鈴虫がいるのを見つけた。鈴虫はしきりに羽をこすりあわせ、澄んだおとを響かせている。

 手を伸ばそうと僕がかがんだ時、大きな木材が頭の上を過ぎていった。


「すみません。ケガはありませんか?」

 声をかけられて見ると、トラックが横転していて積荷の木材が散乱している。

 あそこに立っていたら、きっと大怪我をしていただろう。

 僕は後ろを振り返り、もう一度鈴虫の方に目を向ける。しかし、ここに鈴虫の姿はなかった。

「もしかして、助けてくれたのかい?」

 何もない紫陽花の下に問いかける。その時、かすかに鈴虫のが聞こえた。


 リーン リーン リーン

 僕は青空を見上げにっこりと微笑む。

「大丈夫ですか?」

 駆け寄って来るトラックの運転手に、軽く手を振って答えると、僕はまた歩き始める。

 それは、頭上に広がる空の青が美しい、心地いい昼下がりの出来事だった。


 

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