3

 生徒の「さようなら」の挨拶と同時にリュックを背負って教室を出た。なるべく早く帰りたい。早く昇降口につけば混んでいないし、人と顔を合わせる必要もない。廊下の人ごみを抜けていく。

「石崎さん?」

 声で誰かがすぐわかって、僕は振り向いた。

「一緒に帰ろ」

 本田真仁が僕の肩に手をかけるところだった。彼はちょこっと首をかしげてほほえむ。僕はこくこくとうなずいて彼の隣へつく。自分よりだいぶ高い位置に彼の頭があって、緊張した。

 気まずさに何も話しかけられないでいるうちに、無言のまま昇降口についてしまった。人がまばらになると、僕たちが二人でいることが目立ってしまう気がして、思わずうつむいた。それぞれ靴を履いて外へ出ても、まだ僕らはしゃべれずにいた。

 絵にかいたような初夏の空と雲。少し汗ばんだ背中に風が吹いて心地よい。坂をゆっくり上っていく。

「石崎さん」

 彼は前を向いたまま僕に話しかける。

「え、なに?」

「あの……突き指、大丈夫だった?」

「大丈夫だよ。利き手じゃなかったし」

「そっか」

「それより、本田君は、頭痛、だっけ?」

「あ、大丈夫。仮病使って授業休んでただけだし」

 彼はけろっと笑ってみせる。

「ちょっ、それほんと?ほんとにぐったりしてたから体調不良かと」

 元気に返そうと思ったら、思いのほか自分の声が高くなって焦る。でも、彼は隣で笑っている。いたずら、見つかりましたって感じの笑顔。

「数学の時間眠かったから、保健室に来て寝てた」

 あの時は寝起きだったからぐったりしているように見えたのか。

「えー、本田君ってそんなことするタイプだっけ」

「なんでほとんど話したことないのに俺のこと知ってんの」

 はは、と笑って、なんとなくだよ、と誤魔化す。あの日から真仁をずっと見てたとは言わない。君のこと王子様だと思ってた、なんて言わない。

「それよりさ、なんであの時は頭痛が痛いなんて嘘ついたの」

「いや、なんとなく。面白いかなと思って」

「面白くないよ」

「笑ってたじゃん、石崎さん」

「そうだっけ?笑わなかったと思うけど」

「いや、ちょっとにやけてた」

「ほんと?」

 まるで男女の会話みたい。低い彼の声と、高い自分の声が交互に聴こえる。ぎこちなくて甘酸っぱい距離感と、抜けるような青空。なんだか普通の恋のような。思い上がりかもしれないけど。

「いつもさ、そうやって授業さぼってんの?」

「違う。今日はたまたまだよ」

「なーんだ、また……」

 保管室に行ったら会えるのかと思った。その言葉を慌てて飲み込んで、続ける。

「本田君、道どっちだっけ」

 ちょうど坂を上り切って十字路にさしかかっていた。

「左かな」

「あ、私右だ」

 ちょっと名残惜しそうに視線を泳がせてから、彼はじゃあ、とつぶやいた。

「またね」

 手を振る。ターンして右へ。たぶん彼には見えないくらいまで歩いてから、僕は小さくため息をつく。車がすぐわきを通って、その音が心にさざ波を立てて去っていた。

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