第330話 番外編④『おめでとうのお返し』
コーヒーの香りはわりと好きな方だ。
喫茶店に入ると漂っているそのにおいは、不思議とコーヒーが飲めるような気分にさせてくれる。
もちろん、飲めないんだけど。
「いま」
「なんて?」
前の席に座る陽菜乃ちゃんと隆之くんが驚いた顔をしている。そういえば、梓に言ったときはさほど驚いた様子はなかったな。
もしかして、何となく気づいていたとか?
「えっとね、だから」
「僕ら、付き合うことになったから」
今日はあたしと優作くんの関係進展の報告会だ。梓は昨日、部活の帰りに済ましてある。今日は予定があったみたいだから。
二人とも、あたしたちの顔を交互に見て、何か言おうとするけれど言葉が出ずに口をパクパクさせている。
「そんなに驚くかね?」
優作くんが眉をへの字に曲げた。
あんまりそういう素振りを見せていなかったのはこっちなんだけどね。だって、なんかちょっと恥ずかしいし。
「そりゃ、なあ?」
「うん。あ、でも、お似合いだとは思うよ?」
もうすぐ四月も終わる。
つまり。
優作くんと付き合うことになってから、一ヶ月が経とうとしているのだ。
あれは春休みも終わりが近づいてきた日。
桜の花びらがひらりはらりと舞い落ちる、暖かい晴れの日のこと。
*
「ごめん、待った?」
「いや、僕もさっき来たとこだよ。ナイスタイミングだ」
その日、あたしたちは何度目かのデートをしようと予定を合わせた。
あたしは隆之くんのことが好きだった。その気持ちを彼に伝えて、ちゃんと振られて、ちゃんと諦めた。
それでもやっぱり、心の何処かには傷があって、それが本当の意味で癒えたかなと思えたのは文化祭が終わった頃だったかな。
その頃から、優作くんとは一緒にいることが多くなった。
意図的にそうしていたのか、偶然そうなったのかは、あたしには分からない。
一つ分かっているのは、あたしはその時間を楽しいと思っていたということ。
「それじゃあ行くか」
そして。
修学旅行の日。
やんわりとではあるけれど、優作くんから思いを告げられた。それから、あたしは彼との未来をずっと考えた。
何度かデートを重ねて。
そうして、ようやく答えを導き出した。
そんな中での今日という日。
「そうだね」
あたしたちは水族館へとやって来ていた。
映画を観たり、買い物したり、カラオケに行ったり、二人でいろいろしたけれど水族館は初めてだ。
水族館の最寄り駅で合流して、そのまま水族館へゴーという流れ。
優作くんはダークグレーのカーゴパンツに黒のインナー、その上からライトブルーのシャツを羽織っている。
これまでも彼の私服を見る機会はあったけど、ちゃんとオシャレなんだよね。毎回服が違うところもポイントが高い。
今は特に気を遣っているのかもしれないけれど。
あたしも一応、気合いは入れてきたつもりだ。
ホフホワイトのVネックボレロカーディガンにネイビーのプリーツミニスカート。足元は黒のショートブーツ。
普段はあんまり穿かないミニスカートなんかを着ちゃったりしている。彼と合流したとき、優作くんの視線がちゃんとあたしの生脚に向かったのを見逃しはしなかった。男の子だからね、仕方ないね。
そんなわけで、今日はお互いにいつもより少しだけ気合いを入れた一日となっております。
水族館に到着すると優作くんがチケットを見せてくる。どうやら先に購入を済ましていたらしい。
お金を払うと言えば「別にいいよ。気になるなら、中で飲み物でも奢ってくれ」と返してくる。
さらっとできてしまうところは、うん、やっぱりポイント高い。
優作くんはなんというか、視野が広い。とにかくいろんなところを見ている。
段差にはいち早く気づくし、人とぶつかりそうなあたしを引っ張ってくれるし、もちろん歩幅は常に合わせてくれている。
慣れてるなあ、としみじみ思う。
そういえば優作くんの恋愛事情は詳しく聞いたことがない。
どこをどう見てもイケメンだし、気遣いとかできるし面白いし、普通にモテるとは思うんだけど。
どうなんだろうな。
「お、カクレクマノミ」
「ニモだよね?」
「そうそう。この魚はさ――」
時折、魚のうんちくというか、ぷち情報みたいなのを挟んできたりする。
優作くんは魚が好きというのはこの日初めて知ったことだ。
楽しそうに話している優作くんの顔をじっと見てると、彼がそれに気づく。
「あんまり見られると普通に照れる」
いつもはクールというか、スマートな雰囲気全開なのに、顔を赤くして照れている。こういうところは可愛いなと思った。
「ごめんね。楽しそうに話しているなーって思って」
「悪い。話しすぎたか?」
「ううん。もっと聞かせてよ」
結構長い間一緒にいて、いろんなことを知ってきたつもりだけれど、まだまだ知らない一面ってあるんだなぁ。
そんな感じで、ゆっくりと中を回って、イルカショーを見たりアシカの餌やり体験をしたり、あたしたちは一日中水族館を楽しんだ。
時間の経過をあっという間だと感じるくらい、あたしにとって今日という日は有意義だった。
水族館を出た頃には夕日は沈もうとしていて、一日の終わりを予感させる薄暗さに寂しさを覚える。
「ちょっといいか?」
「うん」
どこか寄りたいところがあるのかな、とあたしはあまり深く考えずに首を縦に振る。
歩き出した優作くんの隣に追いついて、歩幅を合わせて歩く。
「僕、水族館好きなんだよ」
「そうなのかなーとは思ってたよ。魚の話してるとき、すごい楽しそうだったし」
「そんなにか?」
自覚はないのか、優作くんは恥ずかしそうに頬をかいた。人間って存外そんなもんだよね。あたしも好きなものを話すときはあんな感じになってるのかな。
「うん。子供っぽいというか、優作くんも男の子なんだなーって」
「なんだそれ」
はは、と彼は笑う。
この水族館は海に面していて、ぐるりと建物を回って進んでいくと海が見える。
夕日を失った海はどんよりとしていて暗く不気味に見えた。
あたしはそんな海の景色をちらと見て、優作くんに視線を戻す。
「付き合ってくれてありがとな。僕の好きなこの場所に、今日どうしても来たかったんだよ」
ひと気のない道を進んでいくとテラスが見えた。明かりの灯ったぼんぼりがその場所を照らしている。
あまり知られていないスポットなのか、たまたまなのか、見渡してみたところ人の姿はないみたい。
「どうして?」
ある程度のところまで行くと、優作くんは足を止める。そして、あたしの方を向いた。
彼の真剣な眼差しに、あたしは目を逸らせなかった。
「そういえば、ちゃんと言ってなかったなと思って。今日言おうと決めたから」
ああ、そういうことか。
彼もあたしと同じことを考えていたんだ。
今日という日を特別にしようと思ってたんだ。
「くるみのことが好きなんだ。だから、僕と付き合ってくれませんか?」
まっすぐで。
飾り気のない言葉。
でも。
うん。
そっちの方がいい。
だって、きっと多くを語ると気持ちが言葉に隠れちゃうから。
「はい。喜んで」
あたしは彼の手に触れて、そのままぎゅっと握る。
あたしの答えを聞いて、優作くんは安堵の息を漏らした。さっきまでのクールな雰囲気はどこへやら。
「そんなに緊張してたの?」
糸が切れたように表情を崩した優作くんに尋ねると、彼は「当たり前だろ」とジト目を向けてくる。
「言っとくけど、今日一日ずっと緊張しっぱなしだったんだからな」
「そうは見えなかったよ? なんかデート慣れしてる感じがしてたもん」
「慣れてないって。デートの経験なんて、きっと志摩よりも少ないぜ」
隆之くんは陽菜乃ちゃんといろんなところに行っただろうからね。そりゃ負けても無理はないよ。
なんて。
でも、見え方は変わるなあ。
慣れているように見えていたけど、内心ではどきどきしてたんだ。
「その割には、そんな感じ出てなかったね」
「そりゃ、好きな子の前ではカッコつけたいだろ。これから告白しようってんだから尚のことな」
好きな子、とか普通に言っちゃうんだな。
友達としての優作くんは優しくて面白くて、良い人だなと思えるけれど。
恋人になると、また別の一面を知ることになるんだな。
うん。
楽しみだ。
「優作くんも可愛いところあるんだね」
あたしは、あははと笑いながら言う。
優作くんは恥ずかしそうにそっぽを向いた。耳まで赤くなっているので、本気で照れているんだな。
「これから、隆之くんたちに負けないくらいいっぱいデートしようね」
*
あたしと優作くんと。
隆之くんと陽菜乃ちゃん。
四人でお茶をした帰り道。
隆之くんと優作くんは少し前を二人で歩いている。仲良さげに笑いながらじゃれ合っている。
そんな二人を見守るように少し後ろを歩くあたしと陽菜乃ちゃんは、まるで保護者のような気分だ。
やんちゃな子供を見守るお母さんはこういう気分なのかな。
なんて。
「けど、ほんとに驚いたよ」
陽菜乃ちゃんが改めて言う。
なんのことを言っているのかは確認するまでもない。
「ごめんね。隠してたわけじゃないんだけど、なんかタイミングが分からなくて。付き合ったその日に連絡しようかなとも思ったんだけど」
陽菜乃ちゃんは付き合うことになって、すぐに教えてくれた。
あれは修学旅行の中でのことで、そういうタイミングがあったからではあるんだけど。
「思ったんだけど?」
「陽菜乃ちゃんには、ちゃんと直接言いたかったんだ。それにしても、遅くなったけどね」
あはは、と笑うしかない。
陽菜乃ちゃんは怒っている様子はなくて、報告が遅れたことよりも、あたしたちのことを喜んでくれてるみたい。
「ううん。わたしとしては、直接伝えてくれて嬉しいよ。おかげでお返しできるし」
「お返し?」
なんのことだろう、とあたしは首を傾げる。陽菜乃ちゃんはそんなあたしを見ておかしそうに笑った。
「くるみちゃんは、わたしたちのことをおめでとうって、ちゃんと直接言ってくれたから。もしもそういうときがきたら、わたしもちゃんと伝えたいって思ってたんだ」
「陽菜乃ちゃん……」
陽菜乃ちゃんはあたしの手をぎゅっと握る。彼女の思いが、温かさに乗って伝わってきた。
「おめでとう、くるみちゃん」
「ありがと、陽菜乃ちゃん」
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