第190話 あなたの隣にいるために①
昨日は帰宅するや否や泥のように眠ってしまった。よほど疲れていたのだろう。
まあ、あんなことがあったのだから疲れないわけがない。これまでにないプレッシャーと緊張感だったからな。
けどそれも昨日で終わりだ。
今日はとにかく楽しいだけの一日が待っている。
緊張は……しないこともないけど。
「……」
そんなわけで朝からシャワーを浴びている。寝起きの時点で眠たさはほとんどなかったけど、シャワーを浴びると完全に僅かに残っていたそれも吹っ飛んだ。
ちょうどシャワーを終えてリビングに戻ったタイミングで母は出発のタイミングを迎えていた。
「昨日は大変だったみたいね」
「なんの話?」
せっせと準備を進める母が手を止めずにそんなことを言ってきた。しかし思い当たることがない。
帰ってくるや否やすぐに寝てしまったからそう感じたのだろうか。
「演劇、代役で参加したんだって?」
母はにたーっと笑う。
「なんで知ってんの?」
そんなこと一言も言ってないのに。
まさか観に来ていたとか? 昨日は生徒の家族は入場可能だったはずだから、有り得ないことはない。
いや、母は仕事だったからやっぱり有り得ないな。梨子は学校があったはずだし。
「まさかあんたが主役として舞台に立つ日が来るとはね。中学生のときだっけ、頭の中ぜんぶぶっ飛んでセリフ言えなかったの」
「嫌な記憶を思い出させるな」
それは昨日の時点でもうすでに思い出してるんだよ。トラウマとして、しっかり俺の邪魔してくれた。
「主役って言えば、当然だけどセリフの量も他より多いわけでしょ。よくやり切ったわね」
自分でもそう思う。
最初は頭の中が真っ白になった。けど、陽菜乃が助けてくれたからなんとか最後まで走り切ることができたのだ。
「一人じゃなかったから」
言ってから、自分が恥ずかしいことを言ったことに気づいて、誤魔化すように食卓についた。
恐る恐る母のリアクションを見ると、案の定にんまりと笑っている。
「あんたの口からそんな言葉が聞けるとはね」
ふっと小さく息を吐いた母は準備を終えたカバンを手にして立ち上がった。
「それじゃあ母さん仕事行ってくるから。今日も楽しんでらっしゃい」
あ、そうだと思い出したように母が財布からひらひらとお札を出して渡してくる。
「なにこれ」
「昨日頑張ったご褒美」
「最高なんだが」
*
土曜日なのに制服を着て学校に行っているというのは何だか変な感じだ。
通行人が平日に比べると少ないから、違和感を覚えざるを得ない。
そんなことを思いながらペダルを踏む。昨日に引き続き、いつもより少し早い時間に登校しているのはやっぱり気持ちが高揚しているのだろう。
昨日は柚木に遭遇したけど、今日は誰とも会わなかったな。などと思いながら駐輪場に自転車を置いて昇降口へと向かう。
そのとき。
「おっす」
肩をぽんと叩かれる。
こんなナチュラルに触れながらの爽やか挨拶してくるのは、俺の知り合いには一人しかいない。
「おはよう」
樋渡だ。
大役をやり終えたからか、樋渡の表情はどこか清々しい。もしかしたら俺も似たような顔をしているかもしれないな。
「昨日は大変だったな」
「そうだな。もう二度とごめんだよ」
本音を漏らすと樋渡はケタケタと笑う。なんとかやり切ったけど、やっぱり柄ではない。できることならもうあんな思いはしたくない。
「いい思い出になったろ?」
「……それはな。多分、一生忘れないと思う」
俺の思い出に強く、深く、印象づいたのは確かだ。もし十年後なんかにクラスメイトと会う機会があれば話題に上がるのは間違いない。
「今日はどうするんだ?」
「今日は予定がある」
「日向坂か?」
「なんで分かるんだよ? 超能力者か?」
半眼を向けると、樋渡はにやにやと笑っていた。こいつのこの顔は何度見ても慣れない。しっかりイラッとさせてきやがる。
「いやいや、どちらかと言うと探偵だよ。まあ、推理っていうほどのことはしてないけどな」
「というと?」
「確実にクラスにも馴染み始めている志摩だけど、友達はまだ少ない。いろいろあったから、くるみと回る線はないだろ?」
「それ挟まなきゃダメなのか?」
これいつまでいじられるの?
柚木がもっとショック受けてくれればこんなことにはなってないのに。いや、ショック受けられて疎遠になるのも困るけど。
柚木がいじってくるのまずなんとかしなきゃいけないのかね。
「秋名とも仲はいいけど文化祭を二人で回るって感じはしないし、親友である僕とも約束はしていない。そうなると、残すところは日向坂しかいない」
だろ? とドヤ顔を作りながら樋渡が言った。
「いいねえ、デート」
「そっちはどうするんだ?」
「んー、まだ考えてるとこ。沢渡が来るらしいから一緒に回るか……でも、あいつのデートを邪魔するのも悪いからな」
「沢渡くん来るんだ。デートってことは例の?」
「そうそう。一緒に文化祭に行きたいって誘われたみたいだぜ。入場には招待券がいるから僕が渡したんだ」
へえ、と俺は感心の声を漏らす。
彼も頑張ってるんだなあ。
「なんか、良い流れが来てるから告白しようとか言ってたけど」
「まじで?」
「ああ。文化祭もお祭りって考えれば雰囲気的に悪いとも言えないからな。チャンスかもしれないな?」
「なんでこっちを見る?」
「さあ」
くくっと、相変わらず俺をからかってくる樋渡は楽しそうだ。
しかし、告白か。
告白なあ。
「告白ってどのタイミングでするべきだと思う?」
「それは世間一般的な話か?」
靴を履き替え、教室へと向かう。
二日目なので校内はなおも文化祭ムード全開で、廊下を歩くだけでもワクワクさせられる。
周りにいる生徒も話題は文化祭の話ばかりだ。
「そうだな」
「僕も経験がないからアドバイスってほどのことは言えないけど、やっぱり人の話を聞いてると人それぞれなんだよな」
樋渡ほどの男になると、そういうシチュエーションに関わることもあったのか。
今でこそ、俺といることが多いけど普通に友達多いし恋愛シーンを目にする機会もあったのだろう。
「好きと分かったら告白する奴らもいたし、好きじゃないけど嫌いじゃないからとりあえず付き合ってみるって奴もいた。逆にゆっくり歩み寄ってゴールインってのも見たことある。お前らの場合はたぶん後者だよ」
「けど、ゆっくりしてると愛想尽かされるって言うじゃん」
「そういう人もいるな。女ってやっぱり相手から告白してほしいもんだろ? オッケーサイン出してるのに告白してこないと自信失うんじゃないか?」
「そういうもんかな」
「けど、みんながみんなそうってわけじゃないよ。時間をかけてゆっくり歩み寄るのを好む人だっている。周りが急かすからって理由で動くと、失敗したとき後悔するぞ」
あくまでも自分で決めろと、樋渡はそう言いたいのだろう。失敗しても後悔のないように、というのは難しいんだろうけど出来るだけそうなるように、人は悩んで考えるんだろうな。
「だから、沢渡が考えて決めたことなら僕は告白することを止めたりしないし邪魔もしない。ということで、文化祭は大人しく他の友達と回ることにしようかな」
そう言った樋渡は考え込むような、少しだけ難しい顔をしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます