16




 休み明けの月曜日はいつも体が鉛のように重かった。

 だが今日はなにか、違う。

 体がどこかふわふわとして足元が頼りない。

「おい宮田ー? お前今日どうした? なんかいつも以上にプラプラしてるな」

「なんですかぷらぷらって…」

 午前中の会議のため会議室へ続く廊下を歩いていると、後ろから来た建部に肩を叩かれた。振り向くと建部は物凄く不安そうな顔をしていた。

「いや、なんか──風邪か?」

「大丈夫です」

「そうか?」

 ん、と顔を覗き込まれて冬は思わずのけぞった。

 近い。

 その距離の近さに冬は思わず思い出してしまった。

 あの夜。

 まさか大塚があんなことを言い出すなんて。

 あんな──

 思い出しただけで体温が上がった。

「? おまえなんか顔赤い?」

「い、いや、えーと…」

「やっぱり風邪か?」

「ち、違いますって」

 不思議そうな顔をして首を傾げる建部に冬は愛想笑いを返した。

 これ以上追及されると何か言わなくてもいいことまで言ってしまいそうだ。

 じゃあ、と冬は廊下の先を指差した。

「おれ会議室準備あるんで」

「いやオレもだろうが?」

 行先は同じだと建部は顔をしかめた。

 ほら行くぞ、と肩を叩き冬を置いてさっさと行ってしまう。それを慌てて追いかけようとして、上着のポケットの中でスマホが震えた。

 プライベートのほうなので出ることは出来ないが、ちらりと確認する。

「──」

 大塚だ。

 表示されていたその名前に、体温がまた上がった気がした。


***


 あの夜。

 長い話の後で、大塚は冬に気取られぬようにそっとため息を落とした。

 やはり昨日の自分の直感のようなものは間違っていなかったのかもしれない。

 あの男──名取佑真はやはり、少なからず冬に執着があったのだ。

(だからあの目か…)

 走り出したタクシーの窓越しに見た視線。

 無表情な瞳の奥に、ゆらりと、小さな灯が揺れて見えた。

 あれは欲だ。

「嫉妬か…」

 思わず呟くと、冬が顔を上げた。

 ひとり分距離を開けたリビングのラグの上、間に合わせ程度で買った小さなローテーブルには二人分の飲み物が置かれている。

 長い時間キッチンのテーブルに座るのは大塚は苦手だった。話をするなら、それも長い話なら、床に座ってするのが好きだ。

 迎えはいいと言われていたのに外に出たのは、もしかしたら冬が途中で帰ってしまうのではないかと、──ふと、そんな気がしたからだ。

 マンションの前の道を駅のほうへ向かって歩くと、冬はもうそこにいた。立ち止まるので声を掛け近づくと、暗がりの中でも分かるほど、彼は青白い顔をして立っていた。

 引き寄せて連れ帰った。

 朝とは違う服装だということに気がついたのは家に入れてから──冬がリビングに座ってからで、そのあまりの幼く見える様にどきりとした。

 何を飲む、と聞いた声がらしくなく上ずっていたような気がして、冬が気づいていなければいいと思った。

「それで、証拠を見せろって言われて…、おれ咄嗟に大塚さんの名前を言ってしまって…」

 ほんとにすみませんでした、と冬は頭を下げた。顔色は変わらず青褪めていて、大塚はその横顔を眺めながらコーヒーが入っているカップに口をつける。酒でもあればよかったのだろうが大塚は酒を飲まないので家にあるはずもなかった。

「それは気にしなくていい」

「ほんとに…、気づいてくれてありがとうございました」

 頭を下げた冬に大塚は苦笑する。

「役に立ってよかったよ」

「でも…、なんでわかったんですか」

「声が違ってた。あのとき、スピーカーにしてたんじゃないのか?」

「そう、です」

「それにあんなことを冬がふざけてかけて来るとも思えなかったしな。必ず理由があるだろうと思っただけだ」

「それで?」

「ああ」

「……」

 唇が何かを言いかけて開き、閉じた。

 さっきから冬は、自分では気づいていないだろうが同じことを繰り返している。大塚は冬が自分から言うまで待つつもりだった。何かを訊きたそうにしているのは、話のはじめから分かっていた。

 急かすつもりはない。

 時間はまだいくらでもある。

「で? その、名取くん…、はそれで納得したのか?」

「どう、ですかね…」

 冬は言葉を濁した。躊躇ってまた口を開く。

「読めないところがあるから、どこまで納得してるか…多分、また何か言ってくると思います」

「そうか」

 確かにそんな感じだったな、と大塚は名取を思い出しながら思った。ああいう奴は普段にこにことして人当たりがいいが、ふと真顔になったとき、それまでのことが嘘のように別人に見えてくるのだ。大塚の知り合いにも同じようなやつがいる…

 何を考えているか分からない、か。

 冬の言うようにそう簡単に諦めるような奴ではないだろうと大塚は思った。

 あの執着を見れば分かる。

「それで? そのときはどうするんだ?」

「それは…」

 言い淀んだ冬が唇を引き結ぶ。

「適当に言って誤魔化します」

「それで通じる?」

「……──」

 誤魔化しが通じる相手だとは思わなかった。

 それは冬もよく分かっているのだろう。

 空白の期間のほうが長いとはいえ、それほど好きになるにはどれだけの時間を共有したのか──

 それを思ったとき、ふと大塚の腹の底がざわりとした。

 俺の知らない時間。

 ゆっくりと大塚は言った。

「じゃあ、俺と付き合うか?」

「……え?」

「何を言われてもいいように、本当に付き合えば問題ない」

「え、え…?」

「名取くんを納得させるまで」

 息を呑んだ冬の顔が見る間に赤くなっていく。

 さっきまでの青褪めた顔色よりよほど良くて、大塚は胸の内で笑みをこぼした。

 ああやっぱり、こっちのほうがいいな。

 は、と何かに気づいたように冬は首を振った。

「そ…っ! そんな迷惑はかけられないです…!」

「いいから」

「いやでも…っ」

「迷惑って思ってるんだったら、名前を出した時点で俺は怒ってる」

「──」

「すぐに電話を切って、話なんかしないだろ」

 そしてあんなふうに言ったりしない。

『俺が好きだって言ったんだろ?』

 あの瞬間、大塚は冬への気持ちをはっきりと自覚した。

 好きだと思っている。

 こうして夜中に家に入れるほどに。

 声では足りず顔を見たいと思うほどに。

「だから気にしなくていい。納得させるまで俺を使えばいいだろ」

 冬が今も名取を好きでもいい。

 傍にいれば忘れさせてやることが出来るかもしれない。

 忘れさせて、振り向かせたい。

 いつか自分を好きになればいいと思う。

 こんな気持ちは初めてだ。

 大塚はふたり分のカップを手にして立ち上がった。冬の分のコーヒーはほとんど飲まれずすっかり冷たくなっていた。

 シンクの中に開け、電気ケトルで新しく湯を沸かす。

 相変わらずコーヒーしかないが仕方がない。そう思ったとき、ふと大塚は思い出した。そういえば、あれがあった。

 沸いた湯を注ぎ、大塚は冬の所へ戻った。

「…? これは?」

 いい香りのするカップの中身に、冬が目を落とす。

「貰いもんなんだ」

「へえ…、いただきます」

 カップに口をつけひと口飲む。ふわりと立ち上る湯気が冬の頬を撫でた。

「あ、美味しい」

「なんだったか…、薔薇のお茶らしい」

「ばら? 薔薇ってこんな感じなんだ」

 緩やかな沈黙が落ちてくる。

 ふたりで黙ってローズティーを飲んだ。

「…大塚さん、あの」

 やがて冬は、あの、と何度も言いかけてからようやく大塚に訊いた。

「おれのこと…気持ち悪くないんですか…?」

「どうして?」

「ど──うしてって──それは、その…」

 冬は口をつぐんだ。息を呑み、さらに青褪める。

「おれが…、男を、友達を好きで…」

 気にしていたのはそれか。

 やっと言った冬に大塚は小さく息を吐いた。

「それが?」

 冬の目を捉えまっすぐに見た。

 え、と瞠る目に、もう一度言う。

「それが何?」

「それが何って、だって…」

 そんなことは何も問題ではない。

「人を好きになるのに、男も女もそれほど関係ないんじゃないか?」

「──」

 現に自分は冬に惹かれている。

「俺が嫌?」

「そんなことは──」

「じゃあ俺を使え」

 さっきも言った言葉を強めにすると、冬は口を閉ざした。

「…本当にいいんですか?」

 少しうつむいた顔が赤い。

 ああ、耳まで真っ赤になっている。

「佑真が今度は何を言うか分からないの、に、っ──」

「だからだろ」

 冬が驚いて顔を上げた。

 それもそうだろうな、と大塚は思う。

 急に手を取られ握りしめられたら、きっと誰だって同じ顔をするだろう。

 大塚は自分の手の中の冬の手を強く握った。

 自分の指よりもずっと細い。冬の手は確かに男の手だが、大塚の手のひらにすっぽりと収まってしまう。

「お、おつかさ…っ!」

「気持ち悪かったらこんなことしない」

 だから大丈夫、と言うと、冬は大塚に両の手のひらを握りこまれたまま顔を真っ赤にしてうつむいた。

「わ、わか、分かりましたから、放し…」

「少し慣れておくか」

 慌てている姿に、錯覚しそうだな、と大塚は思う。

 まるで自分に気があるようだ。

 冬が俺のことを。

「…おおつか、さ」

「その敬語をやめたら放してやる」 

「いや、ちょ…」

「出来なかったらこのままだぞ」

「あ…っ」

 ほら、と大塚は手の中でもがく冬の手を捉え、指を絡ませた。まるで恋人同士のように、逃げられないように指と指を絡めていく。

 泣きそうな顔に少し意地悪をしたくなった。

 ああ、いいな。

 うつむいたままの顔を覗き込む。

 重なった指の間をわざと指先で撫でた。びくりと冬の指先が跳ねた。

「あと大塚さんも禁止だ」

「え、な──っ」

 顔を上げた冬と目が合った。

 大塚の口の端が自然に上がる。

 悔しそうに唇を噛みしめた冬が観念して名前を呼ぶまで、大塚は宣言通り繋いだ手を離さなかった。


***


 自分の手をじっと見つめる。

(あんな…)

 あんなに甘い人だなんて思わなかった。

 まだ感触が残っている気がする。

 この手を大塚の手のひらが覆っていた。

 同じ男なのに全然違う、厚みのある手のひら。自分の倍はありそうなごつごつとしっかりした長い指。昔から細いばかりの自分のものとはまるで違っていて、羨ましいと思った。

 おれもあんな手がよかったな。

 診察してもらったときの器用な手つき。歯科医なのだからそれは当り前だろうけれど、あんなに大きな手で繊細な作業をこなしていた。

 でも。

『この人、普段は歯医者じゃないんですよ』

 診療所にいたあの賑やかな看護師がそう言っていた。大塚自身もそんなことを話していた…

 あの人、普段は何をしているんだろう。

 結局冬はあの夜も泊まり、翌日の昼過ぎまで大塚と一緒にいた。

 夕方から大塚は仕事があると言って、途中の駅まで同じ電車だったのだ。

『じゃあまた』

 また、と言って冬は先に降りた。乗り換えの駅で大塚を見送った。

 思えば冬は大塚のことをほとんど知らない。何も、歯科医をなぜしないのかも、何で生計を立てているのかも。

『俺と付き合うか?』

 あんなことを言われて驚いた。

 そして嬉しかった。

 たとえ、名取の目を誤魔化すためだけでも。

 もっと大塚のことを知りたい。

 もっと…

「もーなーに? 宮田くんご飯冷めるって!」

 杉原の声に、はっと冬は我に帰った。

 顔を上げると少し怒ったような顔をして杉原がこちらを見ていた。

「え、あ、ごめん」

「もお! 食事中にスマホ弄るのダメってお母さんから言われなかったのー?」

「あはは…すみません」

 そうだった。今冬は杉原と昼食を取りに出ていたのだ。安くて狭くて旨いところを見つけたけれどひとりで入りにくいからついてきて! と杉原に引っ張って連れてこられた本当にその通りの食堂の中だった。

「私ずーっと話しかけてたのに」

「ごめん。考え事してた。お詫びに好きなの取っていいよ」

 ほら、と皿を差し出すと、杉原は躊躇することなく一番大きなエビフライを取った。冬が注文したのはミックスフライ定食で、そのエビフライが凡そその皿のメインだった。

「いただきまーす!」

「…少しは遠慮しろよ」

「こういうのは遠慮しないって決めてるんだ」

 杉原らしい言い草に冬は声を立てて笑った。

 美味しそうにエビフライを食べた杉原が、ああそうだ、と言った。

「こないだの休出のとき、宮田くん待ち合わせしてたの?」

「え?」

 急な話題に冬は食べる手を止めた。

「ほら、フルタックの人。高校の同級生? 建部さんが前言ってたけど、…」

 んー、と思い出そうとしている杉原に冬は言った。

「それ、ゆ…、名取のこと?」

「あ、そうそう! その名取さん」

 杉原はぱっと目を輝かせて頷いた。

 冬の胸の中がかすかに曇る。

「名取が何?」

「あーなんかずっと待ってたっぽいって、なっちゃんが言ってたから」

「? なっちゃん?」

「あ、前沢さんのこと。あの人名前奈摘だから」

 ああ、と冬は曖昧に頷いた。それよりも気になるのは…

「待ってたって、なに?」

 あのとき名取は急に現れた。用事のついでに来てみたと言っていた。

 杉原は意外そうに目を丸くした。

「え? なっちゃんが忘れ物して社に戻ったら、入り口に立ってたって言ってたから」

「た…」

 立ってた?

「あれ? 違ってた?」

「あ──いや、そう、待ち合わせてた…」

 不思議そうな顔をされ、慌てて冬は訂正した。

「時間間違えてたんだよ、あいつ」

「あーそうなんだ? 中に入れてあげればよかったのに」

「それは駄目だろ」

「ふふ、そっか、だよねえ」

 そこでその話は終わり、話題は次に移っていく。杉原の話を聞きながら、冬の胸の中はざわざわと落ち着かなかった。

 あの日、前沢たちが帰ったのは昼食の後。それから一度戻って来たなら、遅くても十五時前だろう。冬が社を出たのは十六時を過ぎていた。その一時間以上も前に名取がいた?

 おれを待っていた?

『よかった、間に合ったみたいで』

「──」

 あれは嘘だった?

 ひやりと背筋が冷たくなった。

 あんなに好きだと思っていた。この気持ちを消したいほどに。

 けれど知っている名取とはまるで別人のように見えるのは、気のせいなのか。

 ふと思い出す。

 名取がこちらを向いた、遠い日。

 あのとき。

 いつも笑顔を絶やさない彼が無表情に向けた視線。それは逆光の暗い陰の中に沈み、目を凝らしてもよく見えなかったことを。

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