15




 長い散歩から帰り着いたのはもう二十三時を回っていた。家の鍵をいつもの場所に戻した途端、大塚は何か一つ忘れていることに気がついた。

 なんだ?

 何か一つ大事なことがあったはず…

 なんだったか、と何気なく視線を巡らせて、棚の上に放り出した鍵に目が行った。

「…あ」

 鍵。

 そうだ、鍵だ。

 田野口が勝手にポストに入れたと言っていた診療所の鍵だ。

「ったく…」

 もう朝でいいかと思い──しかし気になった。いくらなんでも不用心すぎる。仕方がないと大塚はため息を吐き、もう一度外に出た。もう夜中と言ってもいい時間なので、出来るだけそっとドアを閉める。

 エレベーターで階下に降り、マンション入り口横の集合ポストに向かう。自分の部屋番号のポストを開けると、確かに中には白い封筒が入っていた。

 大塚はそれを取り出してその場で開けた。封筒の中身は鍵がふたつと紙が一枚。畳まれたそれを広げてみれば、田野口からの言伝だった。

 読む大塚の目元が徐々に険しくなった。

 あいつ。

「肝心なことを言わなかったな」

 そこには大塚に代行してほしい日時が記されてあったのだが、その曜日が前とは異なっていたのだ。先日行ったのは確か火曜日で、松本からも毎週火曜に田野口が来ると聞いていた。けれど次大塚が行くのは…

「金曜?」

 仕事で一番時間が読めない日だ。

 くそ。

 なぜ前もってちゃんと確認してこないのか。

 そこまで考えて大塚はため息を吐いた。おそらく事前確認をしてこないのは、そうしてしまうと断られる確率が高いと踏んだからに違いない。腹が立つことは多いが、やはり田野口は自分をよく知っているのだ。

「仕方ねえな」

 踵を返し部屋に戻る。待機していたエレベーターに乗り、玄関を開けると、部屋の奥から音がしていた。

 なんだ?

 着信? 

 廊下を進み、音のありかを探る。最後に確認したのはいったいどこでだったか…

「どこに置いたんだ俺は」

 昼間も探したのだ。

 冬に連絡先を教えようとして、結局見つからず番号だけを交換した。

 音を頼りに辺りを見回すが、リビングにはなく、大塚は寝室を開けた。暗い部屋の中、壁際にかかっている上着のポケットがうっすらと光っている。

 ああ、そうか。

 昨日の夜使って、それきりだった。

 取ろうとした途端、ぷつりと音が切れた。

 確認して見れば、画面には覚えのある番号が表示されている。

「……」

 大塚はスマホを手にリビングに戻った。

 冷蔵庫にマグネットで留めておいたメモ書きと見比べる。それは昼間連絡先を交換したときに書いたものだ。スマホが出てきたら登録しようと思っていた…

 間違いない。

 冬だ。

 どうしたのだろう。

「──…」

 大塚はかけ直した。

 呼び出し音が鳴るが、たった今かけてきたというのに冬は出ない。

 おかしいな。

 一度切り、もう一度かける。

 しばらく鳴らし諦めかけたとき、冬が出た。

 どこかほっと、大塚は安堵した。伸びすぎている前髪をかき上げる。

「今かけてきたみたいだけど、どうした?」

『…あの、…』

「ん?」

 声はいやに遠い。

 しかもなぜか外の気配がする。

 まだ仕事中なのか?

「冬?」

『………あの、史唯ふみたださん』

「──」

 名前を呼ばれ、大塚は一瞬声を失くした。

 史唯さん、ともう一度──今度ははっきりと冬は言った。

『あの、…、あのさ、おれたち、付き合ってるよね…?』

 その言葉に息が止まった。

 耳に当てたスマホからは冬のひそかな息遣いが聞こえてくる。

「──…」

 何かあったのだ。

『おれが、付き合ってって言った…』

「……」

 大塚は目を閉じた。

 小さく落ちた沈黙に集中する。

 ささやかな気配に腑に落ちた。

 ああ、そうか。

『史唯さん、あの…』

「何言ってるんだ?」

 冬が息を呑んだ。

 これは誰かに聞かせているのだ。

 すぐそばにいる。

 大塚はそれが誰か分かるような気がした。

 …あいつか。

 重い沈黙が続いている。大塚はゆっくりと、言い聞かせるように言った。

「違うだろ? 先に言ったのは俺だ」

『…ぇ、…』

 戸惑う声に大塚はふ、と笑みをこぼした。

「俺が好きだって言ったんだろ?」

『…──大塚さ、…』

「冬」

 と大塚は言った。

「今、外?」

『は…、う、うん…』

 外にいる、と冬は言った。

「ならうちに来い」

 息を呑む気配に、少し言い方が強かったか、と大塚は言い直した。

「いいからおいで」

 怒っていると思われたかもしれない。

 状況からすればそうだろう。

 こんな電話を、冬自身が望んではいなかっただろうに。

「迎えに行くから」

 出来るだけ優しい声を心がけた。

少しの沈黙の後、うん、と冬は頷いて通話は切れた。


***


 こんなことになるなんて。

 全然──思いもしなかったのだ。

 どうしてあんな言い訳をしてしまったのか。

『おれには…、もう恋人がいるんだ。だから…』

 名取との間に沈黙が落ちた。

 なぜかこんなときに限って誰も通りかからない。

 気まずさを飲み込んで、冬は名取から目を逸らさなかった。

 そしてゆっくりと、名取は薄い笑いを浮かべながら言った。

『へえ、それ誰?』

『……』

『あの歯医者?』

 思わず目を瞠ってしまった冬に、名取は満足したようにくすりと笑った。

『当たりだね』

 しまった。

 反応してしまった。名前など適当に言えば逃げ切れると思っていたのに。

(そうだ)

 ふたりは昨日顔を合わせているのだ。

 けれどひと言も名取の口からそれが出ないから、すっかり忘れてしまっていた。

『…そうだよ。だからもういいだろ』

『証拠は?』

『は?』

 冬は耳を疑った。

 訊き返すと、名取は小さく首を傾げた。

『だって付き合ってるなら証拠、見せられるよね?』

『なんでそこまで──』

『じゃあ嘘なんだ?』

『…っ』

『それって、嘘をついてまで僕から離れたいほど、僕をまだ好きってことだろ?』

『違う…!』

 どうしてそうなるのだ。

 相変わらず名取は表情を崩さなかった。昔からそうだ。喧嘩になると冬は一方的に詰め寄られ言い負かされる。頭では分かっているのに矢継ぎ早に核心をついてくる名取には勝てたためしがなかった。そして最後にはいつも、冬が負けを認めて逆切れのようになって終わっていた。

 でも、今日はそうなりたくない。

『じゃあ、電話かけて』

 冬はぐっと唇を噛みしめた。

 酔った中年の男が何事かとこちらを見て通り過ぎていく。

 夜の繁華街の路地、道の真ん中で向き合って言い争う自分たちは、一体他人からはどう見えているのだろう。

『かけてよ、ミヤ』

 冬はスマホを手に取った。

 出来れば出て欲しくない。

 こんなことに巻き込んで、きっと嫌われてしまう。頼むから出ないで欲しいと祈りながら、冬は震える手で大塚に通話を繋げた。


***


 一体何をしているのだろう。

 ここに来るのは今日二度目だ。

 最終に乗り、冬は大塚の最寄り駅に着いた。

 昼間も通った改札を抜けて外に出る。あのときは今と逆で帰るほうだった。またすぐ来るだなんて思いもしなかった…

 迎えに行くと言われて頷いたが、すぐにいいと返しておいた。

 小さな子供でもあるまいし、26にもなる立派な成人の男が夜道を一人で歩けないわけがない。それに大塚の住むマンションは駅から少し離れてはいるがほぼ一本道で、たった二度目だけれど道を間違えようがなかった。

「なにやってんのおれ…」

 情けなくて申し訳ない。

 きっと大塚は怒っているだろう。

 電話越しの声は冷たかった。それもそうだ。あんなことに巻き込んで──あんなことを言わせたのだ。

 大塚が察してくれなければ、きっと今日はまだ、名取といたに違いない。

 でもどうして彼は分かってくれたのだろう。

 あんなこと、ふざけるなと一蹴されて終わると覚悟していた。

 実際、驚いているのが伝わってきた。

 何も男でなくともよかったのだ。

 知っている女性の名前を言えば──杉原なら喜んで協力してくれそうだし──よかったことなのに。なのに、真っ先に頭に浮かんだのは大塚だった。それを名取に指摘されたのは、分かりやすく顔にでも出ていたのか…

 どちらにしても謝るしかない。

 事情を話して。

「──…」

 話して、謝って…許してもらえるだろうか?

 事情を打ち明ければ、汚いものでも見るように軽蔑されるかもしれない。

 男なのに、ずっと男友達に片思いをして──離れて再会して、それでもまだ好きな気持ちを失くせないなんて。

「気持ち悪いよなあ」

 自分だったらきっと構えてしまう。軽蔑はしないだろうが、接し方が無意識に変わるかもしれない。多様性に重きを置き始めたとはいえ、やはり刷り込まれた常識には抗えないのだ。

 せっかく仲良くなれた。

 これから良い友人として付き合って行けたかもしれない。

 冬はため息を吐いて昼間来た道を辿った。同じ景色が逆向きに行き過ぎる。夜はもう遅く、足取りがやけに重いのは、いろいろなことで体が疲弊しているからなのか。それとも…

 あと少し、大塚のマンションが見えてきた。

 見上げる窓にはぽつぽつとまだいくつかの明かりが灯っている。

 引き返したい。

 今ならまだ顔を合わせずに済む。

 このまま帰りたい。

 そう思ったとき、向こうから歩いてくる人影に目が留まった。

 その顔が見えるところまで来て、冬の首筋が強張った。

「冬」

 ゆっくりと大塚が歩いてくる。

「あ、──大塚さん、あの…っ」

 謝らなければ、と勢い込んだ冬の腕を大塚が掴んだ。

「おれ──」

「いいから、おいで」

 いつかと同じように、大塚は冬を引き寄せるようにすると耳元でそう言った。

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