10



 振り返ると見知らぬ男が立っていた。

 ミヤの名前を呼んでいる。

 どこの誰だ?

 ミヤの知り合い?

 だとしても、そんなふうに気安く呼ぶなんて──

 胃の底が灼け爛れるようだと名取は思った。



「…誰?」

 振り返った男の声はひどく冷たかった。

 すっと細めた目、タクシーの停車ライトの点滅に浮かび上がる顔は、居酒屋で見た顔とは別人のようだった。

「大塚と言います。その人、宮田冬さんじゃないですか?」

 ひどい警戒だ、と大塚は思った。

 なるべく刺激しないようにと、丁寧な口調を心がける。

「…あなたは?」

 男が言った。名乗ったことが功を奏したのか、わずかに警戒心が解けている。

「私は先日宮田さんの治療をした歯科医です。ここで」

 大塚はポケットから名刺を出した。まさかこんなことで役に立つとは思わなかったが、人生何があるか分からない。

 男は名刺を受け取った。表を見て裏返し、また表を見る。随分前に作ったが殆ど人に渡すことなく財布の中に入れっぱなしになっていたそれは、角が幾分古びていたが、この暗がりでそれが分かるはずもない。

「あのー、乗りますか? 乗らないんなら行きますけど?」

 後部ドアを開けたまま待っていたタクシー運転手が窓を開けて身を乗り出した。大塚は男より先に運転手に言った。

「乗ります。もう少し待っててください」

「歯医者が何の用ですか?」

 男が運転手と大塚の間に割って入るように言った。

「宮田さん、酒を飲んだんでしょう? 実は同じ店にいて、あなたが彼を抱えているところを見たもので。彼、強めの鎮痛剤を飲んでいるはずです」

「鎮痛剤?」

「痛み止めです。あーこれ、宮田さんの鞄?」

「おい、ちょっと…!」

 大塚は男が持っている鞄をサッと取った。確かに見覚えがある、これは宮田冬のだ。

 あの日大塚が診察室まで持っていったものだ。

「何勝手に開けてるんだ…っ」

 この時間に効いているなら飲んだのは夕方か、居酒屋に行く直前か。強いとは言ってもそれほど長い間効いているわけではないからだ。それなら──この中に。

「あ」

 ファスナーを開けて開くと、一昨日渡した薬袋が、そこに入っていた。

「あんたいい加減に…!」

「うるさい!」

 声を上げた男を、大塚は睨みつけた。

「この状態はアルコールと鎮痛剤による副作用だ! いいから彼を後ろに乗せろ!」

「──」

「おい!」

 大塚は舌打ちした。

 男が怯んでいる隙に、冬の体を男の腕から奪うように引き剝がし、タクシーの後部シートに冬を抱えたまま乗り込んだ。手を伸ばして道路に転がった冬の荷物を引きずり込む。

「すいません出してくれ、早く!」

「あっ、ハイッ!」

 ドアが閉まる寸前、我に返った男が大塚を見た。

 目が合った瞬間タクシーが走り出す。

 大塚は嫌なものを見た気がした。

 ゆらりと揺れた男の目。

 あの目の奥にあった、あれは…

「あの…、どこ行きましょうか…?」

 か細い声が聞こえ、大塚は我に返って顔を上げた。

 ルームミラー越しに気弱そうな顔をした運転手と目が合った。

「…ああ」

 そうだった。

 そうだ。

 行先など何も──考えていなかった。

 大塚は深く息を吐き出し、前髪をかき上げた。

 仕方がない。

「あー…、じゃあ、**町まで。近くなったらまた言います」

「は、はい…」

 運転手は小さく返事をすると、左折のウインカーを出した。

 ここからしばらくは道なりに行くだけだ。

 抱えたままの冬ごと大塚はシートに背を預け、力を抜いた。

 


 どうかしてる。

 本当に、どうかしている。

 スマホを片手に大塚はキッチンの蛇口を捻った。

「ああ、そうか。…分かった、いや、呼びかけには応じてる。ああ、そうだな」

 通話の相手に頷きを返しながら、ちらりとリビングのほうを見た。

 その床に散らばったスーツのジャケットと鞄。そこから続く廊下の中ほどのドアは半分開いている。

「とにかく様子を見るよ。悪かったな、こんな時間に」

 相手がさもおかしそうに笑った。耳に痛いそれを遮るように、それじゃ、と言って大塚は通話を切った。これでひとつ貸しが出来たと、今頃切れた電話の向こうで相手は笑っているだろう。

 大塚はため息をつき、スマホをその場に置いた。

水の入ったグラスを手にリビングを大股で抜ける。

 半分開いたドアから中に入り、ベッドの上に横たわる冬を見下ろした。ベッドサイドの明かりが眠る彼の顔を淡く照らし出している。オレンジの光の中で見る彼の顔はまだ青白かった。

 大塚はグラスをベッド脇の小さな棚の上に置いた。

「…宮田さん?」

 肩をそっと揺すると、ん、とくぐもった声がした。横向きに寝ていた冬が寝返りを打ち仰向けになる。

 きっちりと上まで留められたシャツとネクタイが捩れている。

 ああ、…苦しそうだな。

「ちょっと、──悪いな。…いいか?」

 大塚はベッドに乗り上げた。

 ぎしりと男二人分の重さにマットが軋む。

 冬の首元に手を伸ばしネクタイを解いた。シャツのボタンをふたつほど外して襟元を開ける。

 解放されて楽になったのか、ふ、と冬がため息のような息を吐いた。

「宮田さん?」

 青白い頬を手のひらで軽く叩く。

 気がついただろうか。

「宮田さん…?」

 行先を聞かれて口をついて出たのは、自分のマンションの場所だった。

 他にいくらでも手はあっただろうに、どうしてこんなことをしているのだろう。

 あの男に事情を言って病院に連れて行けと言うだけでよかった。

 なのに。

「…らしくねえな」

 家の中にほとんど人を入れたことがない。ほんの少し前までいた同居人が最初で最後だと思っていた。

 自分のベッドで眠る、今日で会うのは三回目の男。

 たった三回会っただけだ。

「気がついた?」

 冬の瞼が薄く開き、大塚はその目を覗き込んだ。

 ベッドについた自分の手が、冬の顔の横で重く沈む。

「…ん、…」

「気持ち悪くないか? 水は?」

「……んう」

 眩しいのだろう、けだるそうに手の甲で目元を覆う。

「…、みず…、い」

 いる、と呟いた声はまだ少し呂律が回っていなかったが、大塚はほっとした。

 意思の疎通が出来るなら、大丈夫そうだ。

 よかった。

「起こすぞ?」

 空いている手を冬の頭の下に差し込み、腕で首と肩を支えるようにして大塚は持ち上げた。くったりと力の抜けきった体は何の抵抗もなく上半身を起こした。

「ほら、こっち」

 自分で首を支えられないのだろう、のけぞってしまわないように大塚は冬の上半身を自分の胸に寄りかからせると、棚の上のグラスを取った。本当ならペットボトルで飲ませるのが楽なのだろうが、あいにく切らしていた。そもそもあまり買い置きをしないから、冷蔵庫の中は水はおろか食べるものがなにもない。

 大塚はグラスの縁をそっと冬の唇に当てた。

「水だよ」

「……ん」

 呼びかけに薄く唇が開く。大塚はこぼれないようにゆっくりとグラスを傾け、水を流し込んだ。

 こく、と冬の喉が上下して飲み込んだのが分かる。落ち着いたのを待ってまたグラスを傾けた。

 それを何度か繰り返していると、冬が首を振ってグラスから唇を離した。

「もういいのか?」

「ん…、」

 冬の目が開き、ぼんやりと大塚を見上げた。

「宮田さん?」

 焦点を結ばないそれが、涙の膜の下でゆらゆらと揺れている。

「どうし──」

 どこか苦しいのか。

 目を覗き込むと、冬はゆっくりと腕を動かし、大塚のシャツの胸に指を這わせた。冬を運ぶときに着乱れてしまった皺だらけのそれを、どこか幼い手つきでぎゅ、と握りしめる。

「……、…ゆうま…」

「──」

「…、んで…、おれ」

 涙が目尻を伝って流れていく。

 冬は誰かと自分を間違えている。

 ゆうま。

「──」

 あいつか、と大塚は直感した。

 あの男の名前。

「…で、わすれ、…た、のに」

 子供のようにくしゃりと冬の顔が歪んだ。

 なんで、と震える声で繰り返す。

「おれ、…えに、また、あらわ、れ、た…んだよ…、っ、なんで…っ、おれ…おれ、っ」

 シャツを握りしめていた指が縋るように大塚の肩を掴んだ。シャツのこすれる音がやけに響く。

「まだ、す、…おまえの、こと、…き、なの? なんで、…も、…やだ、あ…っ」

「…ああ」

 あいつが好きなのか。

 あの中庭で聞いてしまったふたりの会話では再会したようなことを言っていた。

 どれくらい離れていたかは知らないが、再び会ってもまだ好きでいる。

 でもあの男は結婚している。

 冬の気持ちを知っているだろうに、自分の結婚式に呼んでいた。

『僕に好きって言ったの、ちゃんと覚えてるよ』

 そう言われ、泣きそうな顔で飛び出して行ったくせに。

 また居酒屋で会っていた。

 しかもふたりきりで。

 会わなければ傷つかないだろうに。

 どうして──

「…なんでなんだ?」

 大塚は眉を顰めた。

「どこがいいんだ、あいつの」

 低く呟くと、冬の腕が大塚の首に絡まった。そのまま軽く引き寄せられて息を詰めた。驚いていると冬の泣き顔がすぐ目の前にあった。

 息がかかるほど、近く。

 近い──

「──」

 触れ合ってすぐ唇は離れた。

 冬はそのまま抱きついてきた。

 首筋に感じる柔らかな髪、肩に当たる冬の体温がじんわりと沁みてくる。シャツの濡れた感触に大塚は冬の背に腕を回し、胸の中に囲い込むように抱きしめた。

「…よしよし」

 大丈夫だよ、と囁いて髪を撫でた。

 らしくない。

 誰かを慰めている自分自身に大塚は驚いていた。

 こんなことは誰にも、誰にもしたことがないのに。

 誰ひとり、心を動かされたことはなかった。

「泣くな」

 腕の中の体が小さく震えた。

「……、ゆ…」

 ゆうま、と小さな声で冬が呟いた。

 耳元にそれは甘く、悲しかった。大塚は抱き締める腕に力を込め、今度は自分から唇を重ねた。

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