9
よほど縁があるのだろうか。
まさか、また会うなんて。
大塚は持ち上げた箸をゆっくりと動かし、皿の中のものを摘まんだ。
宮田冬はこちらに気づいていない。
視線が無意識に向いてしまう。
グラスを持つ手。
彼は向かい合って座る男と話しているが、話しているのはもっぱら相手のようだった。
その相手の横顔に、大塚は手が止まった。
あいつ。
あのときの──
「……──」
薄い笑みを浮かべている、あの横顔は間違いがない。こんなに時間がたった今でも覚えている自分もどうかと思うが、一度見たら忘れられない男ではあった。
相変わらず気に食わない男だ。
柔らかな甘い雰囲気、女が好みそうな見た目、優しげだが…
「それはどうだろうな…」
「おまたせしましたあー」
思わずぽつりと呟いたとき、注文の品が届いた。
***
持ち上げたグラスをテーブルに置いた。
ざわざわと騒々しい店内にもかかわらず、その乾いた音はしっかりと耳に届いた。
まるで自分たちの周りだけ外界から遮断さているみたいだ。
金魚鉢の中にいるように。
透明な膜が張られている。
「ミヤ、これ美味いよ? 食べないの?」
来たばかりのテーブルの上の皿を名取がその指先ですっと冬のほうに押した。
空腹だけれどあまり食欲も湧かず、注文したビールをちびちびと飲んでは、取り分けただし巻き卵を口にしていた。
名取が差し出した皿をちらりと見る。たしかに美味しそうだ。鶏の竜田揚げにたっぷりのネギと大根おろし、それにいい香りのするポン酢がかかっている。甘酸っぱい味が好きな冬はこういうものに目がなくて、とたんに空腹を覚えてしまった。さっきまで食欲がないと思っていたくせに我ながら現金だな、と思いつつ取り皿に分けようとすると、名取がその皿を横から取った。
「貸して、僕がやるよ」
なんで、と言うよりも先に皿に盛られ、目の前に置かれた。
箸を握ったまま宙に浮いていた手で、冬は自分のほうに引き寄せた。ひと口食べて、じわっと口の中に広がる旨味に、思わず頬が緩んだ。
「美味いこれ」
「でしょ? このまえも同じようなの頼んでたよ」
「あー…、そうだったっけ?」
このまえ、と言われて冬が思い当たるのは、先週の打ち合わせ後の昼食だが、こんなメニューを頼んだだろうかと首を傾げた。昨日の朝ご飯でさえ思い出せないのに、先週のことなどもう忘れ去っている。
「忘れたの? 僕と日向とミヤと、三人で食事しただろ」
「…あー、そうだっけ」
ひやりと胸の奥が冷たくなる。
名取と再会してすぐ、結婚式に招待され、その相手を紹介したいからと、名取に半ば強引に約束を取り付けられた食事会。
場所は今日のような居酒屋で、ずいぶんフランクだな、と思ったものだ。
「そう。そのときもミヤはこういうの食べてたよ」
「よくそんなの覚えてるな」
「まあね」
名取は笑ってグラスに口をつけた。冬と同じビールだが、彼はもう三杯目だった。一杯飲んだだけで頭が少しぼおっとするのに、名取は少しも酔った感じがない。顔色も来たときと変わらない。水のようにビールを流し込むと、近くの店員におかわりを頼んだ。
それからふと、冬を見て、思い出したように笑った。
「昔よく行ってた高校の近くの定食屋、覚えてる?」
唐突な話題に冬は食べる手を止めた。
定食屋? と口の中で呟いてから、ああ、と思い出した。
「あったな、そんなの。なんだっけ、ミシマヤ…?」
思いついた名を考えずにそのまま言えば、名取はそう、と頷いた。
「三司馬屋。ミヤいつもチキン南蛮食べてたな」
「そんなつまらないことなんで覚えてるんだよ…」
確かに三司馬屋は学校から歩いてすぐのところにあった定食屋だ。安くて盛りがよく、部活をしている生徒は皆一度は行ったことのある店だ。
懐かしいとは思うけれど、高校のときの話題など思い出したくもない。
名取と出会ったのは高校だった。しっかりと彼の存在を認識したのは、割とすぐで──一年のとき委員会に誘われてからどんどん親しくなっていった。
それはまだ自分の気持ちを自覚する前のことだ。
「楽しかったな、あのころ」
名取は頬杖をついた。バランスの取れた彼の体が傾いた。
「うん、楽しかった」
「三司馬屋のおじさんに気に入られてたよね」
「ん」
この会話を早く終わらせたくて、冬はグラスの中に残っていたビールを一気に流し込んだ。もう生ぬるくなったビールは思うより不味い。
グラスを戻そうとして、冬の視界がぐらりとぶれた。
「──…」
ふわふわとした浮遊感。
なんだろう。
いつもならこれくらい飲んでも全然平気なのに、疲れているんだろうか。今日は酔いが回るのが早い。中ジョッキ半分を一気飲みはさすがにまずかっただろうか?
水が欲しい。
今飲んだばかりなのに喉が渇く。
「お待たせしましたあ」
大学生くらいの若い男性店員が名取のビールを持って来た。空いたグラスを下げようとする彼に冬は自分の空いたグラスを渡して、新しく注文した。
「あの、烏龍茶ください」
「あー、はーい」
間延びした返事をして店員はテーブルを離れた。途中、奥の団体客に呼ばれ、グラスを手に持ったままそちらに向かう。見るともなしに見ていた冬は、ふと視線を感じて顔を戻した。
「…え、何?」
どきりとした。
名取がじっと冬を見ていた。
「もう飲まないの?」
「え、あ、ああ、なんかちょっと酔い回って来たから、お茶にするよ」
「ミヤは結構飲めるんだよね?」
「? まあそこそこに…何で知ってるんだよ」
再会してまだそれほど経っていない。会わなかった八年の間にお互い成人したのだから、一緒に酒を飲むのはこれが二度目だ。一度目は酒を飲むと言うよりも話をする場であったから、本当の飲みはこれが初めてということになる。
冬は名取がどれほど飲むのか知らないし、どんな酒を好むのかも分からない。前のときもビールを飲んでいたようだけど、そんな話をした覚えはない。
くすりと名取は笑った。
「建部さんに聞いたんだよ。ミヤのこと、教えてくださいって言ったら色々話してくれたよ」
「ちょっ…! 祐真、何でそんなこと…!」
「建部さんっていい人だな」
「いい人だよ、だからってそんなプライベートな話するなよ」
大体いつの間にそんな話をしていたのか。
だって、と名取は言った。
「ミヤは僕のこと避けてるだろ?」
「──…や、そんなことは」
「そう?」
笑顔のまま返答を促されて、冬は仕方なく頷いた。本当は避けている。ふたりきりになりたくないし、今だって早く帰りたい。
早く離れたい。
「じゃあまた誘ってもいいんだ?」
頬杖をつき、名取がわずかに身を乗り出した。
出来ることなら首を横に振りたい。
だが、一瞬冬はためらって、言った。
「それはいいけど」
「本当? 嬉しいな」
にっこりと名取が笑う。
仕事の関係が出来ている今、簡単に駄目だと言ってはいけない気がした。
「じゃあ、そろそろ二軒目に行く?」
え、と冬は目を瞠った。
「いや、おれはもう…」
「明日祝日で三連休だし、いいよね?」
祝日ではあるが、冬は休日出勤の日だった。
やらないといけないことがある。
「悪いけど明日は──」
「おまたせしましたあ」
先程の店員が烏龍茶を持って来た。喉がカラカラだった。テーブルに置かれると、冬はすぐにそれを手に取ってごくりと飲んだ。
「…ん?」
胃に落ちてから違和感に気づいた。
「これ烏龍ハイだ…」
さっきの店員が間違えたのか。そういえば注文をした後に別のところの注文を受けていた。
どこに行っただろう。
店員を目で探していると、名取が小さく笑った。
「別にお茶だしいいんじゃない?」
「いやでも、これ頼んだ人が困るし」
「関係ないだろ。ミヤが困るわけじゃないし、あの店員が悪いんだよ」
「それはまあそうだけど…」
言いながら冬はまずいな、と感じた。
客のオーダーだったのか、飲んだ烏龍ハイは結構強めに作ってあった。喉が熱い。ふわふわとした浮遊感が増している。
「ごめ、おれ…、なんか酔ったかも…」
「ん? 大丈夫?」
「佑真、おれ帰る」
今にも瞼が落ちそうだ。
脱いでいたジャケットに袖を通し、立ち上がろうとして、かくんと膝が崩れた。
あ──
「おっと」
傾いた体を名取の腕が抱きとめた。
支えられ、椅子に戻される。
「会計しよう」
「さ…、か…」
財布は鞄の中に、と冬は言えなかった。呂律が回らない。
なんだこれ。
舌が痺れて…
だるい。
体を支えていられない。
たまらずに冬はテーブルに突っ伏した。
「大丈夫、僕が…」
ちゃんと送っていくよ、と言う名取の声が聞こえた。
***
食事を終え、人心地ついた大塚は、ちらりとまた視線を向けた。
その先には宮田冬とあの男がいる。彼はこちらに気づかず、目の前の男と話していた。
話している内容まではさすがに聞こえない。
何してるんだ俺は。
「馬鹿か…」
気になるなら声を掛ければいいだけだ。
なのになぜか出来ない。
出来ないくせに、前だけを見ているあの目が何かの拍子にこっちを向かないかなんて──どこのドラマの話だ。
三度あったのだからもうないだろう。
そろそろ出るか、と大塚は伝票を手に取った。ここにいるとずっとあのふたりを気にしてしまいそうだ。
だが席を立とうとして、異変に気付いた。
「……」
宮田冬の体が揺れている。
離れたここから見ても顔色が悪い。
連れの男に何か言って立ち上がろうとして、その体が揺れた。
──あ
倒れる。
思わず足を踏み出したとき、男がさっと彼を抱きとめた。その体をもう一度座らせ、店員を呼びその場で会計を済ませると、荷物を持ち、立たせた彼を支えながら店の出入り口に向かっていく。
大塚のすぐ後ろを通った。
肩越しに振り返ると、宮田冬は目を閉じていた。
寝てる?
「大丈夫ですかお客さん」
店の責任者らしい男性がふたりの後を追いながら声を掛けた。
「ええ、大丈夫です。そんなに飲んでないんですけどね、彼疲れてたみたいで、つぶれてしまって」
「表にタクシー止めてきましょうか?」
「いえ、平気です。ありがとう」
男はにこりと笑った。
大塚は眉を顰めた。
酔いつぶれた?
抱えられている彼はぐったりとして固く目を閉じている。
酔ったにしては青白い顔。
はっ、と大塚は思い当たった。
「あ…」
──まさか。
まさか。
くそ、と大塚は胸の内で舌打ちした。
薬だ。
きっと彼は──
「ありがとうございましたあー」
財布から紙幣を抜きテーブルに置くと、大塚は出て行った彼らの後を追った。
暗い人通りの先に、ふたりが見えた。
男は彼の腰を抱き、その腕を自分の肩に回している。
ぐったりとぶら下がっているだけの体を抱え直すように抱き寄せると、男は足を止め、道路に向かって手を上げた。
タクシーだ。
気が付いたのか、ゆっくりと減速してやってくる。
まずい。
「おい、ちょっと!」
大塚は走りだした。
大声で呼びかける。
「ちょっと待って! そこの──宮田さん!」
彼を抱えた男が振り向いた。
ハザードを点けたタクシーが彼らの前に停まる。
男は大塚を横目に見た。
「…誰?」
すっとその目を鋭く細め、冴えた声で言った。
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