第一話 異分子の転生

二千二十三年六月、僕は会社を辞めた。


 社会人になって二年が経過していた。限界なんて言葉じゃ表せないほど僕の心はおかされていた。アイスクリームをスプーンですくうように心がえぐられて、溶けていく。ああ。もう泣くことも疲れた。感情の起伏もなく、ただ太陽がぐるぐると回っているのを横目に見ながら、生きる最低限の活動をしていた。髭はだらしなく伸び、頭をかくとが舞う。部屋にはゴミが飛び散っており、人と名乗ることに申し訳ないとすら感じる。


 布団に入るのが怖い。この六畳の部屋の隅々から恐ろしい形相の暗闇が静かに叫びながら僕を襲う。僕の心に居座る闇は、襲ってくる暗闇を取り込み大きな化け物へと成長してしまう。将来のこと、お金のこと、彼女がいないこと……全てが大きく膨れ上がってしまう……そんな時、僕は自分を守るための呪文を唱えている。「アニメの世界のように異世界に転生したい。自分が人として生きていていいと思える世界に行きたい」と。


 ある日の夜、布団にうずくまっていると声が聞こえた気がした。遂に幻聴でも聴こえたのだろうか。いや、そこまでお酒は飲んでいないはずだが……低く重く、それでいて優しい声が響いた「……これからお前を連れて行く」……え? それだけ? 思わず心の中でつっこんだ。すると体がガスを入れた風船のようにふわりと浮いたと思うと目の前にある暗闇に吸い込まれていく。ただ、この暗闇は僕の知っている暗闇とは違う。温かいような、まるで自分の全てを受け入れてくれるような親しみのある暗闇だった。


 冷たくて硬い……布団から抜け出して畳に寝ているのだろうか? いやもっと硬いなにか……ゆっくりとまぶたを開くとそこは家ではない。「どこだここ?」思わず口から漏れていた。知らない土地だ。草木はほとんどなく、地面は荒れ果てている。茶色の大地はすぐに水と接していた。夜のはずだが、太陽が空の低い位置に居座り僕を照らす。朝か、夕方か分からないが、太陽の周りの空が、柔らかい茜色に染まっている。


 ここは僕が望んだ世界なのだろうか? もしかしたらとても強い能力を持っていたりして……両手を遊ばせるようにクルクルと回して変なポーズをとってみたりした。……何も起こらなかった。周りから見たらただの変人である。


 その時、僕は気がついた。この体が自分のものではないことに。全身にイノシシの毛を貼り付けたサルのような姿をしている。すると、奥の方から叫び声が聞こえる。声がするほうに近づくと僕と同じようなサルが三人で言い争っている。一人は日本語、一人は英語、もう一人は……スペイン語……かな? を話す人? サル? がいた。なかなかに恐ろしい顔をしている。あらゆるものを噛み砕けそうな大きな歯、にらみつけるために作られたのかと思うほどの鋭い目、全てが恐ろしい。もしかして僕もこんな顔をしているのだろうか?


 どうやらお互いの言葉が分からないらしい。同じ言葉を繰り返し叫んでいる。まるで現実から目を背けるために現実が入る隙を叫んで無くしているように。僕は語学、特に英語が得意なので三人の仲介に入った。通訳の仕事をしていて鬱病うつびょうになったのに、何故かおくすることなく割って入った。そんなことができたのは、ここを夢だと思っていたからなのかもしれない。


 話を聞くと日本語を話す彼は僕と同じでついさっきここに来たらしい。もう二人は僕たちよりも先輩だった。この世界では先に来た者が偉くなる、いわゆる年功序列の体制になっているという。


 今二人から聞いたことを日本語に翻訳して伝えると日本人らしき男は一言呟いた「そんなの、俺には関係ねぇ。上から物言ってんじゃねーよ」それを聞いた僕は背筋が凍った。こんな気持ちになるのは、大量の毛虫に追いかけられる夢を見た時以来だ。確実に喧嘩けんかが始まる……そんなことを考えているうちに、彼は突然二人に殴りかかった。一人に拳を振り下ろすと、もう一人を左足で蹴り飛ばした。なんて身体能力なんだ! と思わず感心してしまった。早く逃げなければ……そう思った時にはもう手遅れだった。二人とも倒れこんだが、すぐに立ち上がると僕たちに殴りかかった。僕は喧嘩けんかなどほとんどしたことがなかったのでただひたすらに殴られ続けた……


 はぁ。僕は転生しても辛い目に遭うのだなぁ。そう思った。

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