第7話
自分にしか見えない死神を追いかけ、熊の出没するという山に美月をひとり置き去りにしてしまった罰として、スメラギは昼をおごるはめになった。愛車のビートルを走らせるその帰り道、街道沿いに蕎麦屋をみつけ、そこらでは名物だという蕎麦を食べることになった。
スメラギのおごりというので、美月はメニューから一番高い天ぷらそばを躊躇なく選び、二人前を注文した。
「お前……よく食うよな……」
美月は学生時代から大食漢だった。そのくせ太らない。食べても太らない体質なのだという。中学、高校のバスケ部の練習後にはスメラギと連れだって近所の食べ物屋をはしごした。夕食前の話で、美月の母親が美月のためだけに五合は炊くという夕食は別腹であった。
「これでも食べなくなったほうさ」
人のおごりだと余計に美味いらしく、美月は衣の音も軽やかに海老の天ぷらにかじりついた。懐具合を気にして味わっているどころではないスメラギだったが、蕎麦のつるりとしたのどこしのよさに思わず美味いとうなった。
「お蕎麦、ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」
蕎麦湯をもってきた中年の女に美月は親し気に声をかけた。どうやら店のおかみだったらしく、美月の賞賛に気をよくしたのか話が弾んだ。
「ここいらは水がおいしいんですよ。だからその水を使って打つお蕎麦もおいしくなるんです」
美月がおかみと蕎麦談義に花を咲かせている間、スメラギの目は店の入り口近くにある熊の剥製をとらえていた。
熊は仁王立ちの姿勢で両腕をあげ、今にも襲いかかろうとする格好である。牙をむいて度胆を抜くばかりの迫力で、店に入ってくる客は剥製と気づかず、一瞬身構えてしまう。スメラギたちも店に入った時は驚かされた。
「入り口のあの熊の剥製、凄い迫力ですね」
「そうでしょう。あれね、うちのおじいさんが若かった頃に仕留めた熊なんですよ」
いつの間にか、美月とおかみの会話は熊の剥製の話題にうつっていた。
「このあたり、熊がよく出んの?」
二人の会話に唐突に割り入ったのはスメラギだった。
「昔はね、よく出たみたいですよ。この辺も昔じゃ森が深かったから」
「今は? 今も出る?」
「今は…どうでしょうね。10年くらい前に一時期、山に入った人が襲われたって話があったけど、最近は聞かないですからねえ、そういえば。開発が進んで、熊の方から逃げ出したのかもしれないねえ……」
襲われたら命を落とすかもしれない熊だというのに、その姿をみかけなくなったというおかみの口ぶりはどこかさびしげであった。
「深山の神隠しの森。ここからそんなに遠くない場所だけどさ、あそこには今も熊が出るみたいだぜ?」
スメラギの後を次いで美月が熊の爪痕を目にしたと付け加えた。
「へえ。あそこいらでは今もまだ出るんですかね。神隠しの多かった10年前ぐらいには実は熊にやられたんじゃないかって噂だったけど……」
やはり地元の人々は熊の仕業ではないかと疑っていたらしい。神隠しの神の正体とはどうやら熊と定まっているようだ。
スメラギはつと席を立ち、熊の剥製のもとへと歩み寄っていった。
台座の分だけ熊の方が頭一つ抜きん出ているが、背の高さは180センチのスメラギと同じか、少し低いくらいである。両手をあげた格好なので、印象としては2メートルも3メートルもある巨大熊にみえる。スメラギは熊に正面からむきあい、対抗するかのように自分も両手をあげて同じような格好をしてふざけていた。
「おかみさん、熊ってマツタケ食うの?」
ふさげた格好のまま、スメラギは尋ねた。
「マツタケ? そりゃ、熊は雑食だからあれば食べるだろうけどね。でもそりゃまたずい分グルメな熊だよね」
“美食家(グルメ)”という言葉に、店内の客たちが声をたてて笑った。
「マツタケ食べようとおもったら、スーパーまで買いにいかないと。熊がマツタケ食べたくてスーパーまで買い物に行くんだったらおもしろいね」と、客のひとりである中年の男がゲラゲラ笑い転げた。
「でも、ここらへん、マツタケ採れるよね?」とスメラギ。
「冗談いっちゃいけません。ここらでマツタケなんか採れませんよ。とれるなら私ら、とっくに蕎麦屋畳んでるって」
うまい蕎麦が食えなくなるからそれは困ると男はちゃちゃを入れた。どうやら地元のなじみ客であるらしい。
おかみは嘘は言っていないだろう。嘘をつく理由がない。スメラギと美月は黙って顔を見合わせた。二人は採れないというそのマツタケが群生する森を訪れてきたばかりだった。
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