闇にのまれる

 

 


『お嬢ちゃん、そう怖がるこたぁねぇよ。これからお前さんは、金持ちの貴族の元でうんとかわいがってもらえるんだからな』


 遠い日の、ぞわりと肌が粟立つ記憶。


 ざらりとした男の毛むくじゃらの腕の感触と、どんなに暴れてもびくともしない固い筋肉。

 酒の匂いとすえたような汗の匂いが混ざり合って、吐き気が込み上げ。


 あの日、私は必死に逃れようと暴れました。こんなに力が自分にあったのかと思うほど、全力で。

 けれど、たった七才の子どもの力が大の大人の男に敵うはずもなく。


 あっという間に私の体は床の上に飛ばされ、まるでごみのように転がされたのです。


『暴れるんじゃねぇよ。大人しくしてねぇと、その顔に一生消えない傷を作ってやったっていいんだぜ?』


 そう言って、あの男は黄色い歯を見せてにやにやと笑い声を上げたのです。

 そして、その手を私の喉元に。



 助けて、やめて。

 触らないで。

 お父様の元へ返して。



 そう叫ぼうと思うのに、喉に張り付いたようにうめき声ひとつ出てこなくて。



 怖い……。

 怖い……、怖い……怖い……。


 誰か……助けて……。

 お父様……、私をここから助け出して……。


 怖い……。

 怖い……、怖い……。


 誰か、助けて……。


 心の中はそんな恐怖で支配されるばかりで。



 なんて無力でちっぽけなんだろう。

 絶望の縁で、泣きじゃくるしかできない子どもの私は。


 あまりにも小さく、まるで地面に転がる小石ほどの存在感しかなく。

 それがとても悔しく、悲しい。



 だからこそ、必死に歩んできたはずでした。


 お父様にもお母様にも弟のマルクにも心配をかけず、迷惑をかけず生きていけるように。

 たとえ恐怖を克服することはできなくても、それでも笑って強く生きていけるように。


 セリアンやオーレリーたちに背中を押してもらって、前へ前へと進んでいるつもりでした。

 少しは、強くなったつもりでいたのです。



 なのに――。





 ◇◇◇◇◇◇




 ガラガラガラガラ……! ガタンッ!!


 身体に伝わる強い衝撃に、はっと目を開けたつもりでした。

 けれど、目の前に広がっていたのは暗い闇で。


 一瞬記憶が混乱して、思考が止まります。


 あぁ、そうだ。

 私、誘拐されたんだわ。……また。




 ガタンゴトンと激しく音を立てながら、走る馬車の荷台。

 大きな箱の中に無理矢理閉じ込められた私は、目隠しをされた真っ暗な視界の中で、必死に恐怖に耐えていました。


 これがただの悪夢なら、どんなに良かったでしょう。

 どんなに絶望的な悪夢でも、夢ならばいつか覚めるのですから。


 けれど、これがまぎれもない現実であることは、口の中に広がる鉄臭い味が証明していました。止まらない身体の震えをなんとか止めようと、ぎゅっと唇を噛みしめる度に、血の味がにじみます。


 けれど、今の私にはその痛みすら感じられなくなっていました。


 心を占めるのは、あの恐怖。

 七才の頃に感じたのと同じ、あの大きな闇です。


 まるで頭から覆いかぶさられ、ドロドロとした闇の中にすっぽりと飲み込まれてしまいそうな恐怖に、支配されていました。


 それは身体が勝手にガタガタと震えて止めようがないほどに、思わず血がにじむほど唇を噛みしめていることにも気づかないくらい、強い恐怖で。


 怖い、という思いだけが意識を支配して、他に何も考えられなくなっていました。

 

 ……一体どこへ向かっているのか。

 なぜこんな目にあっているのか。


 そんなことすら、考えられないほどに。



 分かるのは、自分が闇の中にいてどこかへ運ばれているということだけ。

 目隠しをされた上箱の中に閉じ込められていては、当然時間の感覚などありません。


 けれどきっと、お屋敷からもジルベルト様のいる王宮からも、随分遠ざかってしまったに違いありません。


 このままどこへ連れ出されるのか。

 そして、どこかへ連れ出した後、何をされるのか。


 歯がガチガチと恐怖で鳴り、それを止めようとますます強く唇を噛み締めるけれど。

 身体は滑稽なほど震えたまま。


 身体を抑えようにも手足はきつく縛られていて、自分を抱きしめることすらできず。




 まさか人生で二度も誘拐の憂き目にあうなんて、思ってもいませんでした。


 そういうめぐり合わせなのでしょうか。

 一度目の誘拐で男性恐怖症となって、では二度目は――?


「ふっ……うぅ……」


 喉の奥から嗚咽がもれます。


 じわりと目隠しの布にまた涙がにじんで、もはや水分をこれ以上受け止めきれなくなった布から頬に涙が伝い落ちていきます。


 後ろから羽交い締めにされた時の、あの筋肉質な腕の感触。少し酒の匂いの混じった吐息。


 遠いあの日の記憶と今自分の身に起きている実感とが混じり合い、今にも叫びだしそうです。



 なぜこんなことに。あんなに今朝は嬉しく幸せな気持ちだったのに。

 浮かれていたバチが当たったのでしょうか。


 そんなことを思いながら、いつしか疲れ果てた私は意識を再び失い。


 そして、再び目を覚ました時。

 外から聞こえる話し声に気がついたのでした。




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