4章
お飾りの妻、さらわれる
アリシア王女が去り、再び平穏を取り戻したその日。
私は浮かれていました。とてもわかりやすく。
「ふふっ……。いいお天気ね。セリアン?」
完全に浮かれきってふわふわとした足取りの飼い主を、セリアンが呆れた目でじっと見ているのに気がついて苦笑します。
「だってジルベルト様が、『いってくる、ミュリル』って言ってくれたのよ? くるっと私の方を振り向いて、小さなお声だったけど私の名前も呼んで」
それは今朝、ジルベルト様がいつものように屋敷を出発しようと馬車に乗り込んだ時のこと。
届きそうにもない小さな声で「いってらっしゃいませ」と手を振った私に、ジルベルト様はくるりと振り返り、そして――。
一瞬、聞き間違いかと思いました。
でも確かにジルベルト様の口から、聞こえたのです。
『……いってくる、ミュリル』と。
そして、きれいな青みがかった銀髪をさらりと揺らして慌てて馬車に乗り込んだその耳は、遠目でも明らかに朱に染まっていて。
その様子がなんだかとても、とても――。
「……かわいかったのよね。なんだかちょっと……小さな子みたいで。……ふふっ。オーレリーもそう思うでしょ?」
足元に座り込んでいたオーレリーに同意を求めてみたけれど、こちらを見上げ不思議そうに首を傾げています。
あんな顔を見たことがあるのは、きっとほんのわずかな人だけでしょう。
それがなんだか嬉しくもあり。
少なくとも氷の宰相としてのジルベルト様しか知らない方にとっては、あまりに印象が違いすぎて驚くに違いありません。
「ね、セリアン? もちろん物理的には無理だけど、心の距離は少しくらい近づいたと思っていいのかしら。どう思う? ……やっぱりそう簡単にはいかないかしら?」
セリアンは首をぶるぶるっと振ると、呆れたように鼻を鳴らしてむしゃむしゃと飼い葉を食べ始めました。
「もう、セリアンったら……」
きっと今日もお帰りは遅いでしょう。
アリシア王女の一件で、きっとお仕事が滞っていたに違いありませんから。
ならば、心配をかけてしまったお詫びに何かできることはないかと考えて、またふふっと笑いがこみ上げます。
胸の奥にこみ上げるくすぐったい思いに、頬を緩ませながら。
自分の中にほわほわと生まれはじめたあたたかな喜びに、鼻歌を歌い。
明らかに浮かれた足取りで、桶の水を替えようと井戸へと足を踏み出したその時でした。
ヒヒイイイイインッ!!
セリアンの警戒心を露わにしたいななきと。
ガウッ! ウーッ! グルルルル……ワンワンッ!!
オーレリーの激しいうなり声に、はっと振り向いた私は。
「っ!! だ、誰っ……!」
こちらへと真っ直ぐに走り寄る大きな黒い影がふたつ、いえ、みっつ。
突然のことに足がすくみつつも、とっさに持っていたバケツをその影に向かって投げつけようとしたものの。
その影たちの動きは素早く無駄のないもので、バケツはただ地面に転がっただけでした。
それでもとっさに身をひるがえし、屋敷の中へと逃げ込もうとした私でしたが。
大きな声を上げる間もなく動きを封じられ、口元を何か嫌な匂いのする布で覆われたのです。
「……っく!」
体を締め上げるほどに強くつかみ上げられた私は、反撃もままならず、うめき声を上げるのが精一杯でした。
「……急いでずらかれっ!」
しゃがれた低い声が耳元で聞こえ、ざわりと全身に悪寒が走ります。
その瞬間、私は思い出しました。遠い日のあの出来事を。
ずっと私を苦しめ続けているあの忌まわしい、運命の日の出来事を。
ああ、この感じは知っています。
忘れたくても到底忘れられない、あの恐怖。
七才のちっぽけな子どもだったあの日、聞いたものと同じ種のものです。汚らわしく欲にまみれた人の心を持たない、すべてを踏みにじるようなどす黒いもの。
あの時と同じ強い恐怖に全身が固まり、声を発することも抵抗することもできず。
まるで丸太のように担ぎ上げられ、荷馬車へと乱暴に放り込まれ。
そしてそのまま連れ去られたのでした。
どんどん遠ざかる、警戒心と怒りを露わに騒ぎ立てるセリアンとオーレリーの声。
その声を聞きながら、鼻先に感じる薬のせいというよりはむしろ、耐え難い恐怖に意識が遠のいて私は気を失ったのでした。
後に残されたのは、
『アリシア王女の身柄と引換えに、一億ガルの身代金を要求する。詳細は追ってしらせる』
と乱暴な字で書き殴られた一通の文と。
怒りに目を血走らせ、興奮冷めやらぬセリアンとオーレリーの姿。
そして、異変に気がつき急ぎかけつけたラナとバルツによってすぐに、それは王宮へと伝えられたのです。
私がアリシア王女と間違われ、一億ガルの身代金と引き換えに誘拐されたとの知らせが――。
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