第一章 芦屋凛
第1話 面倒な出会い
「お前さぁー、たまには付き合ってくれても良いじゃん」
「悪ぃな、今日は日直だし、帰ってからも何かと大変なんだよ、家事とか」
昼休みに遊びに行こうと誘ってきたのはクラスメイトの
稲葉と俺は去年から同じクラスだが、未だに学外で遊んだことは無い。それなのに誘い続けてくるのだから最早意地や日課の様なものなのだろう。
「一人暮らしなぁー。自分で家事やるのはめんどいけど、やっぱ羨ましいわ。遊び放題じゃん」
「どうせ実家でも遊び放題だろ?」
「そうだけどそうじゃないじゃん? ほら彼女とか、彼女とか」
「先ずは彼女作ってから言え」
稲葉はいた事もない彼女を指折り数えている。
昔は愚かにも、心を読んで人助けという名の嫌がらせをし続けていたもんだから、心を読まずに話すのが少し苦手になっていた。同年代と比べればまだまだコミュニケーション能力は劣っているだろうが、異常なほど低いわけではない。中学三年間の訓練期間がなければ、今頃誰とも喋ることができなくなっていただろう。
「そうそう! 彼女と言えば西澤。今度は6組の竹田をフッたらしいぜ。これで何人切りだ?」
「さぁな。実際はもう彼氏でもいるんじゃね? 大学生とかさ」
「それありそうだよなぁ。だって見てみろよ」
稲葉はそう言ってクラスの女子グループに目線を促した。女子三人で机を寄せて弁当を食べている中に一人だけ目立つ人物がいる。艶やかな黒髪に整った顔と屈託のない明るい笑顔を浮かべている女生徒、それが件の
稲葉曰く、才色兼備で性格も良く男女問わず人気者らしい。らしい、というのも俺はあまり話した事がないので知らないのだ。
「ま、俺には高嶺の花過ぎて鑑賞用だわ。何処かに俺の身の丈にあった可愛い子はいないもんかねぇ」
「身の丈にあった可愛い子って矛盾してね? 先ずは可愛い子の身の丈に合うように努力しろ」
「正論で殴るのやめて? 心が砕けちゃうから!」
●
放課後になった。黒板を綺麗にしたし、クリーナーも掛けた。後はこの日誌を片付けて終わりなのだが、これが意外と進まない。
クラスであった事や、気付いたことなんかを書くのだ。だがクラスの事なんか気にしていないのだから書くことがない。
かれこれ二十分くらいは誰も居ない教室で頭を悩ませている。
以前稲葉は『皆頑張った』の一言で終わらせていたが、俺の変に真面目な性格がそれを許さないのだ。結局知りもしないクラスの事などどんなに悩んだところで書けるはずもなく、一人でずっと答えのない難問と向き合っていた。
「わっ!」
突然の声に驚いて振り向くと、西澤が立っていた。光を反射させた綺麗な黒髪をたなびかせ、ニヤついた顔をしながらこちらを見ている。内心ふざけた事をしやがってと苛立ちを覚えたが、学校の人気者にこの程度のことでふざけんなと文句を言う程愚かでは無い。
「ビックリしたなぁもう」
「あははははー。ごめんねー。白石くんそれずっと悩んで書けてないでしょー? そういうのはコツがあるんだよ? 貸してみー」
突如現れた西澤は、隣の席に座って手を伸ばしている。俺は外していた手袋を付けてから、日誌とペンを渡した。
俺たち以外誰もいない教室にはどこかで演奏しているブラスバンドとボールを打つバッドの音、それと西澤がスラスラと書くペンの音が微かに響いていた。
「こういうのはノリと勢いが大事なのだ。こんな感じかな? これでどうだ!」
「いやどうだってそれ、俺が書いたことになるんだけど?」
西澤は日誌をクイズ番組のフリップでも出すかの様に、机に立てて俺に見せた。日誌には可愛らしく装飾したような文字で、よくガンバったと書いてある。どうやら才色兼備は稲葉と同レベルらしい。稲葉が高嶺の花と称した西澤は意外にも稲葉の身の丈に合っていたのだと、俺は何とも言えない気持ちになった。
「まぁいいじゃん。先生も、『白石にはこんな一面があったんだなぁ』位にしか思わないよ?」
「……ならまぁいいか。助かったわ。ありがとな」
西澤の全く似ていない担任の声真似はさておき、人の好意を無下にして書き直すのも引っかかるし、そもそも書けないから困っていたのだからこのままでいいだろう。
西澤から日誌を受け取り、カバンを持って教室の出入口へ向かう。
「ちょっとまって!」
教室の戸に手をかけると西澤の良く通る声で呼び止められた。
「コレコレ! 忘れ物だよー!」
西澤が御丁寧に俺のところまでペンを渡しに歩いてきた。それにありがとうと応え、手が触れないようにペンを受け取り、今度こそ教室を出ようとする。しかし、またもや教室の戸を開けることはできなかった。
「ねぇ、ちょっと聞いてもいい?」
「今度はなんだ? いい加減職員室行きたいんだが」
俺は若干の面倒くささを声にのせて言った。確かに日誌の件で世話にはなったが、こう何度も邪魔をされては差し引きマイナスだろう。
西澤は白くて長い指を真っ直ぐに伸ばし、ペンを持つ俺の手を示した。
「それ、いつも手袋してるでしょ? 理由聞いても平気?」
「これか? アレルギーかなんか分からんけど素手で色々触ると痒くなることが多いんだよ。それで付けてる。夏はしんどいぞ」
手袋をいつもしていれば誰だって気にはなる。変な薬品を素手で触れば痒くなる事はあるだろうし、それがアレルギー反応か何かは知らないのだから嘘をついてはいない。こう言っておけば大抵の人は気を使って触らないようにしてくれるから便利だ。だから俺はいつもこうやって答える。
西澤は整った顔を露骨に嫌そうに歪め、少し過剰とも取れるリアクションで肩を竦めた。
「夏は蒸れそうだもんね。そかそか。いつまでも引き止めちゃってごめんね、白石くんまた明日ね」
今度こそこれでお別れだろうと、手をヒラヒラと振ってから中々開けることの出来なかった戸をあけた。
人がつく嘘に一々何かを思う程子供ではなくなったが、かと言って自分が嘘をつくのは苦手だ。俺は日誌に西澤作と一言付け足してから提出した。
学校から歩いて帰る。今日は思っていたより時間も精神力も使ってしまったので夕飯を作る気にはなれない。繁華街にあるコンビニへ寄り、唐揚げ弁当を片手にぶら下げて店を出る。揚げ物は色々面倒だから家ではやる気が起きず、こういう時は優先して選んでしまう。
「せんぱーい! 待たせてごめんなさーい!」
男のひとり暮らしなどズボラなものになりがちだ。本来なら自炊して節約しなければならないのだが、ついつい時間の方を節約してしまう。
「せんぱーい、待たせたのは悪いですけどそんな怒らないでくださいよー!」
時間と手間をかけて作った料理よりコンビニ弁当の方が美味い時なんかは本当に節約出来たのだろうか、むしろ損をしていないかと疑問に思ってしまうのだ。そんな事をつらつら考えながら歩いていると誰かに後ろからドンとぶつかられた。
「ねぇちょっと。話しかけてるんだから待ってくれてもいいじゃないですか」
「誰だよお前。離れろ」
俺は急に腕にしがみついてきた見知らぬ女生徒を引き剥がす。だが女生徒は剥がされる前に顔を寄せて小声で話しかけてきた。
「すみません。人助けだと思って話を合わせてください」
人助け。俺はその言葉に少し心が冷めていくのを感じた。女生徒は返事も聞かず、バニラのような甘い香りを残して半歩ほど離れる。
「だから謝ってるじゃないですかー。日直で帰りが遅くなっちゃったんだからそんなに怒らなくても……」
当たり前の様に始まった謎の小芝居に、しらんよと吐き捨て帰り道を歩く。
「下手くそか。もうちょっとうまく合わせて下さいよ。じゃあ仲直りも済んだ事だし一緒に帰りましょ!」
俺の返事は気に入らなかった様子なのに、この女生徒は小芝居を続けながら勝手に横を歩いて着いてきた。
「あ、先輩そこ右で」
女生徒はまるで仲のいい友人に見せるような笑顔を俺に向けて勝手に行き先を告げる。だが俺の家はここを左に曲がった先にある。
「右で」
女生徒は左にへ曲がろうとする俺の袖を引き、再度行き先を笑顔で告げる。ここで押し問答をしても時間が掛かるだけだと思った俺は、はぁと溜息をついて右に曲がった。
「それで、何で見知らぬお前に付き合わなきゃなんねーの?」
「私は1年3組の
芦屋凛と名乗った女生徒は、目鼻立ちが整っていて、茶色に染めた長い髪をウェーブさせていた。アイドルのような可愛らしい愛嬌のある顔をしている。制服のスカートを短くし、身なりからは派手な印象を受けた。こんな後輩とはどう思い返してみても接点はない。たまたま見かけた同じ学校の生徒を利用したって所か。
「あ、先輩ちょっと待った。これ可愛くない? ミンスタのストーリーにあげるわ」
付き纏われていると言っていながら、呑気に店先にある謎のマスコットキャラクターをスマホで撮っている。俺は人を巻き込んでおいてその呑気な姿に少しの苛立ちを感じ、思わず舌打ちをした。
「先輩今舌打ちしました? 舌打ちはやめとけ? ウチのママ
それからも芦屋はふらっと店に寄ったり写真を撮ったりしていた。そんな風に振り回されながら、無駄に時間をかけて駅の改札口に着いた。
「ここまで来れば平気っしょ。先輩マジで助かりました! この恩は忘れず大切に胸の内にそっとしまっておきますね!」
芦屋は小首をかしげながらウインクをしてそう言う。自分の整った容姿が武器になる事を理解しているんだろう。
「いやしまってねーで返せよ。じゃあな」
「ちょっとちょっと。名前、先輩名前は?」
「2年1組、稲葉裕二」
芦屋の少し焦ったような問に、何となく正直に答えるのが癪で稲葉の名前を名乗った。一応、稲葉も先輩だから嘘にはならない。
「稲葉先輩ね。ホントに助かりました。それじゃあまたねー!」
芦屋は少し大袈裟に手を振ってから改札を抜けていった。だがまたはない。
どうして今日はこんなにも人に絡まれて面倒なことになるのかと、舌打ちをして歩き出す。
舌打ちをしては百合子に怒られる。芦屋凛よりも芦屋百合子に詳しくなった俺は、いつもより幾分重い足取りで家に帰った。
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