料理嫌いな姉がビーフシチューを作ったら宇宙がやってきた件

伊野尾ちもず

料理嫌いな姉がビーフシチューを作ったら宇宙がやってきた件

「は?」

 姉の柚子から届いたショートメールを読んだ俺は、文字通りずっこけた。勢いで電車の手すりにぶつけた額がジンジン痛む。

 あの料理嫌いの柚子が「ビーフシチュー、作って待ってる」だと!?

 酒とプロテインで生きてるような柚子が料理だって!?

 天地ひっくり返ろうが、水と油が社交ダンス踊ろうが、そんな事はあり得ないと思っていた。が、姉宅を訪れた俺の前に、それはそれは美味しそうなビーフシチューが湯気を立てて鎮座しているのは紛れもない事実だ。幻なんかじゃない。

 色良し、香り良し。よく煮込んだのがわかるほど濃く深みのあるルーに、種々の野菜が溶け込んだ複雑な香りが広がる。

「これ、柚子が作ったって本当……?」

「もちろん」

「この色にするには長時間煮込む必要があるんだけど」

「いつも飽きっぽいからと侮るなよ、私だってやる時はやる」

 柚子の涼しい顔の中で小鼻が少し膨らんでいる。相当自信作のようだ。これは期待して良いかもしれない。ダークマターを召喚した昔を思い出して感涙の思いだ。

「い、いただきます」

 一口、スプーンですくって口に含む。

 瞬時に俺は悟った。無理だ、これを表現できる語彙力の持ち合わせはない。

 口から鼻に駆け抜けていった香りに脳を殴られ、目の前に星空が見える。

 目をぎゅ、と瞑って眉間もつまんでも思考がまとまらない。

 しょっぱいとか辛いとか、分量が多いとか少ないとかでもない。それはもう宇宙望遠鏡でも見えない範囲で起きた予測不可能な事が地球を滅亡させたような。牛肉と玉ねぎで構成される宇宙空間に不可視の暗黒物質が横たわるような。

 なんであんな美味しそうな見た目から魑魅魍魎の味が出せるのか理解できないし、食べる前の良い香りが口に入れた瞬間変質して百鬼夜行になるのも意味がわからない。

 口内で起きた超新星爆発。いっそブラックホールよこの物体を吸い込んでくれとも思ったが、行き先は俺の胃袋以外存在しない。

「どう?良い感じにできたでしょ」

 身を乗り出して聞いてくる柚子には悪いが、無理だ。飲み込むのを拒否する喉の筋肉をこじ開けて胃の中に物体を落とすのと同時に、背筋を冷や汗が滑り落ちていく。全身から血が引いて寒い。目の前にあるものは温かいのに。

 これを料理と見なしたら今まで俺が作ってきた料理たちに顔向けできない。こいつを完食するぐらいなら死んだほうがマシだ。でも、飯マズな姉とはいえ、今までかなり世話になっている。不機嫌になって嫌われる結果を招くなら、完食して死んだほうがマシだ。

 つまり何を選んでも、結果死ぬのか……?

「……天上の世界が見えた」

「本当?」

 ポロリと言ってしまった後で、柚子の目に明るい光が眩しいほど灯ったのが見えて、まずいと気付いた。口元が痙攣して吊り上がる。

 こいつの味よりも今の言動の方がずっとまずい詰んだ無理だ羞恥で死にたい!てか今目の前にあるシチューを食べ切っても死ぬな?なら遺書くらい書いておけば良かったな死んだら俺の私物は全部燃やせって後悔は先に来ないもんだ……あれ?今このシチューで俺が死んだら新聞のお悔やみ欄に「死因:ビーフシチューが口に合わなかった故に憤死」とか書かれるんじゃね?しかも柚子が殺人犯になるじゃねーか無理だわ恥の上塗りどころか柚子がムショ送りなんてもっと無理!

 スプーンを皿に戻す数秒の間、100倍速くらいで頭を回転させても解決法は思いつかない。部長に重箱の隅つつかれる時より真剣に考えているのに思いつかない。

「頑張った甲斐があったよ、伊予がそんなに喜んでくれるなら」

 待て俺は喜んでない。姉よ、そんな当社比1.5倍のキラキラした顔を向けるな。

「これでも姉だし、良い歳だし。私もやってみようかなって」

 褒めたくてもこの状況じゃ褒める要素にならねぇ!

「伊予が笑顔になるなら私もっと作るから」

 違うそれは引き攣った顔だ!癖でとりあえず笑って見せてるだけだ!味で笑顔になったつもりはない!自分の表情が薄いからって読み間違えないでくれ!!

「追加でルーかけてあげようか」

 柚子が寸胴鍋を持ってやってくる。

 ひとすくい乗せたお玉がスローモーションで俺の前に迫ってくる。柚子の薄い笑みがいつもより怖く見えた。

 やめてと言おうとしても喉からは空気が抜ける音がしただけだった。

 あーもう!誰でも良い!柚子を止めてくれ!俺には無理だ荷が重い……!誰か……誰か……!

 半泣きになった瞬間、割れたカウベルを力任せに叩いたような音が部屋に響いた。

「あ!清見来たのかな」

 宙に浮いていたお玉を鍋に戻し、柚子は慌てて玄関の方へ向かう。

 視界から柚子が消えたのを確認して俺はいっぺんに脱力した。背もたれに全体重を投げ出す。もう少しだけ世界に生きるのを許されたようだ。遺書でも書こうかと思ったが、気が抜けてそれどころではない。

「柚子んちインターホン壊れてない?ひっどい音」

「あの音なら寝てても気づくでしょ」

 柚子が連れて来たのは末弟の清見だった。何故か手に福神漬けパックを持っている。

「てか、柚子が料理するより水と油がタップダンスする方があり得そう」

 席についた清見の顔はチベットスナギツネの顔だったが、柚子は気にしていないようだ。

「伊予が美味しいって言うから絶対大丈夫」

「マジぃ〜?伊予、本当?」

 顔を覆いながら「表現できる語彙力が無い」と遠回しに回答してみたが「どっちかわからん」と清見は盛大な溜息をついた。見るからに呆れ顔のできる清見の心臓は強い。

「ほい、お待たせ」

 どん、と置かれたビーフシチューのような魑魅魍魎の何かを躊躇いなく一口食べ、清見は言った。

「柚子、これカレーじゃないじゃん」

 またずっこけそうになる背筋を食いしばって止める。

 違う、そうじゃない。そこじゃない!福神漬け持ってきてたのは勘違いか我が弟よ。兄ちゃんは頭痛とめまいで泣きそうだ。

 柚子がビーフシチューだと訂正するも「何が違うん?」とわからない清見。挙句に柚子まで頭の上にクエスチョンマークを飛ばしている。味以前にそもそも知らないのか君たちは。

「ビーフシチューのルーは小麦粉とバター、カレーはスパイスで作る」

 酷くなる頭痛に耐えながら、やっと声を絞り出す。

「柚子、これ作ったんだよな?」

「うん。ど忘れ」

 しゃあしゃあと答える柚子に一喝したかったが、生憎俺の精神的ダメージが強すぎてこれ以上喋れない。机にへたり込んで空気を吐き出す。

「そっかー、じゃぁカレーでもビーフシチューでもないんだねこれ」

 スプーンを皿に戻した清見は、柚子に向ける澄ました顔の中で目だけが濁っていた。

「どーゆーことよ」

「俺さー、味覚バカだからわかんないけど、ビーフシチューってこんな味じゃないよ」

 おぉ我が弟、よく言った!ただの味覚バカじゃない!後で極上ビーフシチュー食わせてやるからな!

「キクイモとキクイモモドキみたい」

 菊芋は薬効成分もある美味なる芋だが、キクイモモドキには芋ができないし食えない。咄嗟の表現にこれをチョイスするとは、言い得て妙だなさすがうちの弟。

「何それ?」

 微かに眉を寄せた柚子に清見はやんわりと「何入れたらこんな味になるのか想像つかないよ」と言い直したが、のどのあたりが強張っている。

「隠し味が仕事したかも」

「隠れてないよ、美味しく無いもん」

 顎に手を添えてキリッとした顔をする柚子に清見はもう容赦なかった。

「これで伊予の味覚がOK出すわけない」

「え、ワイン入れると美味しくなるって聞いたから2本入れただけだよ?」

「「2本!?」」

 思わず清見とデュエットで叫ぶ。

 入れすぎにも入れすぎだろうよ、その量は!肉2kg煮込めるわ!

「それと、醤油と味噌とケチャップとソースと食べかけあったから板チョコも入れた」

 指を折り折り隠し味を上げていく柚子は全く悪びれていない。

 柚子よ、姉よ、なぜ混ぜた……!ブラックホールでも召喚したいのかよ……!

 髪をぐしゃりと掴みながら清見を見ると、呆然と口を半開きにして固まっていた。

「……見た目普通なのがおかしいよ」

 やっと清見が声を押し出すと、柚子はサラッと「レトルトだから」と答えた。

「「レトルト!?」」

「ちょうみ足し?っていうのやってみようと思って」

「ちょい足しよりレトルトビーフシチューのワインつゆだく煮込みって言えばいーじゃん」

 チベットスナギツネの顔の清見が机をコツコツ叩きながら言い、少し首を傾げた柚子は納得したように手をポン、と叩いた。

 レトルトなのはいい。柚子がイチから作れるはずないもんな。

 けどなんだよ「ワインつゆだく煮込み」って!レトルトビーフシチュー作ってる会社に謝れよ!

「調味料足すからちょうみ足しって言うんでしょ?たくさん入れれば美味しくなるんじゃないの?」

 ワインつゆだく煮込みには突っ込まず素朴な顔で答える柚子。いや突っ込めよそこは。

 ちょい足しすら間違って覚えてる柚子に対して俺はもう言える言葉がない。

「ちょうみ足し、じゃなくて、ちょい足し。少しだけ足すって意味。1本だって多いよ」

 突っ込みを諦めない清見は偉い。既に諦めた俺よりずっと偉い。

「1日で飲める量は少しにカウントするでしょ?2本なんて普通」

「呑兵衛でワクの基準はやめようか。単位が違う」

 清見の言う通りワインは本じゃなくて杯だろ?いくらウワバミでも健康を考えてくれ姉よ。

「で?味見したの?」

「うん。ワインの味がしっかりして美味しかった!」

 大真面目な顔で言う柚子に「柚子、これなんて料理だっけ」と皿の縁を弾きながら頭を抱えた清見が聞く。

「ワインの酒煮込み!」

 清々しく言い放つ柚子に俺らは叫んだ。

「「これ以上酒を増やすな!」」


〈了〉


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