覚醒

@1conk1ng

第1話

腹立たしいほどに澄み切った天空の青に、くゆらくゆらと、流れるままに吸い込まれてゆく。そいつの名は、黒煙。

この街で古くから稼働する鉄工場の煙突から、くゆらくゆらと、途切れることなく吐き出されてゆく。そいつの名は、黒煙。

我々に必要不可欠な有機物を産み出すたびに繰り返される、汚れた呼吸。黒煙。

その姿はまるで、この世に未練や憎悪を遺して、葬列の如き色彩を放ちながら、あるかも分からぬ楽園を目指す死者の大群。黒煙。

恐ろしくも、どこか虚しさを纏うそいつは、こちらに何を語りかけることも無く、音も無く、溶けて、消え失せゆく。


その様を、亡っと、眺める兄妹がいた。


鉄工場より遠く離れた閑静な住宅街。そこへ誘うように形づくられた坂道の途中、肩を並べて、フェンス越しに天を見据える少年少女。

どことなく恋人同士を思わせるが、一言も喋らず、目を合わせることなく、手を繋ぐこともなく、肌が触れ合うか触れ合わぬかの距離を保つ少年少女。兄妹と認識するのが、おそらく自然だろう。いや、これを自然というには些か異次元的である為、超自然、とでも名付けるべきであろうか。

少しばかり身の丈に合わぬ制服姿は、なんだか愛らしい、が、浮かべる表情は相反して、なぜだか陰鬱としている。陰鬱な表情をした人間の相場は、項垂れて己の足元を見下ろしているものであるはずだ、と、もし人間評論家というものを名乗るやつがいれば、机を叩いてそう吠えるであろう。否、この兄妹は天を見上げているのだ。心理は計り知れない。計り知れるはずもない。計り知ろうとも思わない。何も聞かない。何も言わない。何も見ない。一切の干渉をしない。それが、この街で生きてく上での、鉄則だ。鉄則を破り捨てるという行為は、深淵に潜む得体のしれないナニカの眠りを妨げる愚行そのものである。禁忌。たった二文字の呪詛が、目には見えぬ鎖となって、この街を雁字搦めにしている。どれだけ研ぎ澄まされた刃を以ってしても、断ち切れぬ鎖。刃の一振りすらも、命取りだ。気づかぬうちに、己で己の頚動脈を斬り裂いているかもしれない。鎖を断つこともできず、己の命を絶つ。馬鹿が。ふざけている。くだらない。何故偽善者を気取り、他者に近寄る。満たしているのは相手で吐なく、自分自身でしかない。正義を振りかざし、他者に攻撃し、な苦面白いのだ。畜生め。オマエだ。オマエに言っている。聞こえ弖いるの禍。やめろ。見る那。聞縢。知る薙。し鑼、れて、たま、瘻、蚊、あ、啞どぅる、ぺぎぞ、ねればら、びょごわのりるきゃ、挫

ブツンッ…と、強制的に電源を落とされたブラウン管テレビのような気持ち悪い雑音が、鼓膜を震わせた。少女は、長く黒い髪を三つ編み状に結い、むき出しになっている小さな耳を、反射的に塞ぐ。

「さくら」顔色ひとつ変えず、少年が少女に声をかける。「どうした?大丈夫か」

「慧お兄ちゃん。もう帰ろう」少年の裾を力無く握り、少年と目を合わせることなく、少女はか細く呟く。お腹が空いたから、疲れたから、そんな子供じみた理由で家に帰りたがっているわけでは、なさそうだ。

「わかった。帰ろうか」少年は、少女を不審がることなく、優しく答えた。

二人は手を繋ぎ、フェンス越しの黒煙を背に、登り坂を歩いていく。ヘルメットを被った、いかにも思春期真っ最中のやんちゃな風格をした男子学生が、がむしゃらに自転車を立ち漕ぎして、兄妹の脇を通り過ぎてゆく。悲惨にもへこんだカゴ、破れて中身が剥き出しのサドル、泥錆まみれのチェーン。すぐさまゴミ捨て場へ葬り去られてもおかしくない銀色の塊。ガシャコン、ガシャコンと、これでもかと唸り声を響かせながら、途切れ途切れに吐いていたそいつの言葉を、兄妹は聞き逃さなかった。

「身体をよこせ」「身体をよこせ」「畜生め」「痛え」「痛えよぉ」「からだ」「からだ」


鐘田[カネダ]、と記された表札。貧しさを隠せぬオンボロの平屋。軒下を照らす灯には、砂粒ほどの羽虫や、鱗粉を撒き散らす蛾が群がっている。今にも途絶えそうな灯を、全く気にも留めずに、戸を開ける鐘田家の次男坊。建てつけの悪い引き戸への苛立ちは、とうに薄れている。後に続く末っ子娘が、兄同様の慣れた手つきで、引き戸を閉めた。玄関までふわりと香る、夕餉の調べ。まっすぐ伸びた廊下の先にある台所。

「ただいま」のれんに隠れ、足元しか見えない母に、次男坊が声をかけた。小刻みにまな板を叩く包丁の音が、ぴたりと止む。

「おかえり」返ってきたのは、冷たくも、温かくもない声。それを打ち消すように再開される、軽やかな千切りの音。

兄妹は、彼らにとってのその日常を、ゆるやかに泳ぎながら、靴を脱ぎ、左に流れ流れて、木枠の硝子戸をすり抜け(たような気分で)、居間に漂着する。居間の隅には、虫かごを抱き抱え、それをじーーーっと見つめている、長男坊の姿があった。

「俊彦お兄ちゃん、ただいま。また何か捕まえてきたの?」

可愛らしい妹が呼びかけたというのに、返事は無い。ガチャガチャ、ガチャガチャと、かごの中から微かに聞こえる、虫たちが身体を擦りあっている音だけが、部屋に虚しく響く。

兜虫が二匹、黄金虫が三匹、蟷螂が一匹。彼らには、声はおろか表情もなく、意図の見えぬ動きをし、それが気持ち悪くてしょうがない。が、どこか、長男坊に飼い慣らされているようにも見える。

「兄さんは、虫を捕るのがほんとに上手いんだな」

脱いだ制服をハンガーに掛けながら、弟は寡黙な兄にそう呟く。やはり、返事は無い。

ブブブッ、と、一匹の黄金虫が乱暴に羽を広げるが、それは一瞬のことで、飛ぶまでにも至らなかった。たとえ飛べたとしても、無意味に終わるだけだが。

気付けば、食卓に並ぶ、栄養のバランスが整った料理の数々。彩りなどほぼなく、子供が自然と顔を綻ばせる夕飯には及ばずとも、健康管理は行き届いている。

「お父さんのはもう冷蔵庫入れてあるから」

エプロンを外したばかりの母が、すでに食卓を囲んでいる息子や娘の元に、ようやく腰を落ち着かせる。

「父さん、最近仕事忙しいんだね」

次男坊のその一言で話が広がってゆく、なんてことにはならず、静かに手を合わせ、いただきますを唱え、箸を動かしてゆく鐘田一家。鮭の塩焼き、里芋の煮っころがし、赤味噌の味噌汁、きゅうりの漬物、たくあん、米粒の立った白ご飯。黙々と口に運んでいく。咀嚼音と、虫の群がる音とが入り混じり、六畳の空間に渦巻く。

静寂を切り裂くように、虫たちがかごの中を飛び回り、暴れ始めた。

即座に反応した長男坊が、持っていたお椀をひっくり返し、ちゃぶ台に膝を打ちつけながら、勢いよく虫かごに飛びつく。食卓は見事に荒らされてしまった。他の三人は驚く素振りもそこそこに、長男坊を目で追う。哀れで奇怪な長男坊の行動に呆れた様子、ではない。事態を見据え、真と理を掴もうとしている。一体なにが起きてるのか、なにが起ころうとしているのか。

考える間も与えずに、次いで事態は大きく揺れた。

文字通りだ。揺れたのだ。揺れているのだ。

最初は、母が、お椀が揺れて赤味噌の味噌汁が少し波打つのを、目撃しただけだった。だが、次の瞬間には、視界が大きく揺れ始めていた。

目眩か。目眩ならまだマシだった。オンボロ平屋が軋む。箪笥などが倒れる、とまではいかず、しばらくして揺れは収まった。

再びかごに目を向けた長男坊が、声にならぬ声で悲鳴をあげた。鐘田一家の視線が虫かごに集中する。

二匹、兜虫の首がもげていた。否、首をもがれていた。

首無し兜の傍らに立つのは、身体が赤黒く変色し、ギギギギギギギギギギと、悪鬼の如く唸り声を放つ、蟷螂だ。

蟷螂は、両の腕に捕らえたコガネムシの身体に容赦なくむしゃぶりつき、咀嚼しながら、鐘田一家を強く睨みつけた。

母が、素早く指先を蟷螂に向け、ぼそぼそっ、と、呪詛を吐く。

赤黒く染まった蟷螂の身体が、あらぬ方向へと曲げられていく。

荒々しい断末魔が、鐘田一家の脳内を刺す。寝耳にまとわりつく蚊の羽音よりも、圧倒的に不快だ。脳を掻き回され、胃酸が逆流する感覚に陥る。

だが、誰一人動じる者はいない。それどころか、万が一、母が破られた時の為に身構えている。

ブチリッ…遂に、蟷螂の上半身がちぎれ、地に落ちた。

血走った眼は、こちらを睨んだままだ。

母はその眼から、蟷螂、だったはずのそいつの死を確認すると、膝立ちを解き、荒らされたちゃぶ台の上を、手際よく片してゆく。そして箸を持ち直し、食べさしのたくあんを口に運んだ。

次男坊も、ちゃぶ台に向き直り、温かいうちにと、味噌汁をすする。その視界の端には、虫かごから目を離さずにいる、長男坊の背中が映る。横に座っていた末っ子娘が、立ち上がり、虫かごを手に取る。その姿を見て我に返った長男坊が、末っ子娘を見上げる。

「また、お墓作ってあげようね」

末っ子娘が、長男坊にぎこちなく微笑む。

長男坊は少し黙ってから、うん、と頷いた。

次男坊は、日常にぷかぷかと浮かび、岸辺で微笑み合う二人の姿を、嗚呼、幸せだなあと、眺めていた。

日常の、深い深い、底の底の底に、そこに眠る、なにか、ナニカの呼吸は、聞かぬフリ、聞かぬフリ、聞かぬフリ、聞かぬフリ、聞かぬフリ、聞かぬフリ、聞かぬフリ


「もしもし」

朝焼け、ひとりの女があくびする。

電話を片手に、錆びれた鳥居の前に立っている。

黒の山高帽に、黒のシャツ、黒のサルエルパンツに、黒の革靴、といった、その場に似つかわしくない奇抜な格好に、微睡みを隠しきれぬその瞳にほどこされた道化を思わす黒のメイク。

神主や巫女を相手に、間抜けな曲芸のひとつでも見せに来たのか、否、もう片方の手に握り締められているシャベルを見る限り、そうではないことが知れる。

「おはよう婆さん。ご無沙汰だね。元気してたかい?相変わらず拳銃みたいに腰は曲がってる?」

貴様の冗談に笑ってる暇はない、と、電話越しから、しゃがれた低い声が聞こえてくる。「"荷物"はすでに、その神社に用意している。昨夜も伝えたが、危険物だ。取り扱いには、くれぐれも気をつけろ」

妖しさを放つ老婆の忠告を、道化女は適当に聞き流していた。

「念の為、手練れをそちらに向かわせている。姿は見せぬが、事が起きれば、すぐ動く」

「ほほう、そりゃたのもしい」

「妙な真似はするなよ、黒子」その言葉を最後に、電話は切れた。

道化女は、またひとつあくびをすると、シャベルを軽々と振り上げ、神社に殴りこむような振る舞いで、足を踏み入れる。

老婆の言っていた通り、社の中に、"荷物"はあった。薄汚れたベージュのチノパンを履いた、誰かの下半身だ。下半身だけだ。

「上半身どこよ?」

当たり前の疑問が、道化女の脳裏に浮かぶ。その瞬間、扉をぶち破り、何かが社の中に吹き飛んで来た。真っ白な衣に身を包んだ男。その腹部は、赤く染まっている。道化女はシャベルを強く握り直した。

ガサガサガサと、社を囲む樹々が揺れる音が、道化女を警戒させた。舌打ちし、社を飛び出る。瞬間、樹々の奥から、人ならざる形をした何かが道化女に襲いかかった。

道化女は渾身の力でシャベルを振り抜き、それを叩き落とす。

一発KOで、地に伏したそれは、探していた例の"荷物"、その上半身だった。

ふう、と息をつき、道化女はシャベルを捨てる。

「楽じゃないね、この仕事も」

確実に、ゆっくりと、目に見えぬ何かが、狂い始めていた。

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