テノヒラという、いきもの

スロ男

1

『思い込みには気をつけるんだぞ』

 まだこの街が平和だったとき、嫁の浮気に気をつけろ、と経験者ならではのしたり顔でタカユキがいった言葉を思い出す。

「浮気? あいつにゃ、そんな度胸も甲斐性もねえよ」

 笑った俺に、タカユキは首を振った。

「誰でも既に自分の手の内にあるものは色褪せて見えるし、他人のものは三割り増しに見える。度胸とか甲斐性なんて、知ってるつもりでほんとはわかってないのが夫婦ってもんなんだよ」

「おまえはそうだった。俺は違う……とは言い切れないが、出会い系で出会ったおまえんとことは違って、こっちは高校からずっとお互い知ってんのよ。一緒にすんな」

 ちょっとした煽りも入れたつもりだったがタカユキは苦笑しただけだった。

 基本的に真面目でわかったふうなことばかりいってたが、酒を飲むと陽気でうそみたいに屈託がなくなる憎めない奴だった。


 そのタカユキが、たったいま死んだ。


 テノヒラにべちゃりと叩き潰された。



     *


 テノヒラという名前は安直だが、そいつが掌の形をしていることから名付けられた。手首からバッサリ切った手のひら。

 身長はおおよそ七〜八メートルほど。

 勿論、身長というのは、そいつが人差し指と中指に相当する部分で立ち上がったときの話だ。パントマイムなどで、人が歩く様子を手で再現するアレを思い浮かべてもらいたい。

 最初に発見されたテノヒラも、まさにその状態だった。

 とある商店街の外れ、アーケードが切れた先にテノヒラは立っていた。きっと初めてテノヒラをスマホの画面に映し出した彼(か彼女かは公開されていない)は、最初は奇妙なオブジェか何かだと思ったのではないだろうか。

 もしその時の動画の音声を聞くことができたなら、驚きの声か声かが聞こえたはずだ。

——なにあれ、すっごい大きい、とかなんとか。

 ズームされた先には手首と繋がるあたりに相当する、やや狭まった部分が映しだされ、それから画面が一気にブレる。


 腰から下が、赤酢にでも漬けられたノシイカのようになった死体が発見されたのは、その出来事のわずか三〇分後だった。


 アーケードに設置された防犯カメラにも、近隣の地域防犯カメラにも、テノヒラの姿は映っていなかった、らしい。



 それらの情報を俺が手に入れたのは、もはやすっかり謎の大型生物が街を徘徊しているという噂が出まわった頃で、流出した動画もほとんどがエロ動画で埋め尽くされた海外サーバに上げられた、本物リアルとも偽物フェイクともつかないものだ。


 あの決定的な映像を目にした前なのか後なのか、もうよく覚えていない。


 夕方のニュース。ライブカメラの前で女性アナウンサーと番組のマスコットキャラクターがたわいのない掛け合いをしている。

 今日は背後に観覧車とランドマークが見える場所からの中継で、赤レンガで行われるイベントがどうのという話をしている最中、白っぽい何かが背後を過ぎ去っていった。

 ざわざわ、という声があり、それはスタジオにいるスタッフたちのものだろう。画面は相変わらずにこやかな漫才を繰り返している。

 スタジオから女性アナウンサーを呼ぶ声。

『はい、どーしました?』

 能天気な声の後、うわあっという野太い悲鳴。

 明らかに先程より近い位置を白っぽいもの——いや、このときにはもっとはっきりテノヒラが映り込んでいる。ただ、巨大すぎるのと指がものすごい速さで動いているせいで、何者とも判別がつかないだけだ。

 画面が激しくブレて、きゃあああ、というカン高い悲鳴が、スタジオにスイッチした画面にも入り込んでしまった。

 笑顔もなく、立ち尽くす男性アナウンサーと女性キャスター。男性の方が何の予備動作もなしに口から吐瀉物を吐き出し、キャスターがきゃあといってCMに移った。


 これが記念すべきテノヒラの全国初お披露目映像である。

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