心の荒蕪を拓く

『報徳記』からの引用を続けます。


 忠真侯はおっしゃいました。


「再興が成就して二千石を減ずるとはどういうことだ」


 金次郎さんはこたえておっしゃいました。


「ほかありません、瘠薄の地(痩せた土地)であるがためにございます。薄地の一反は必ず二反の地でなければ民は飢渴をまぬがれません。そうでありますに、かの地は(検地の)繩のゆるみはなく、一反は一反とされております。このために村人の衰亡のわざわいはみなこれから起こっているのです。一たびこの地を旧に復すといえども、また数年ならずして亡村となるであろうことは必ずです。はたしてそうであるならば、どうして興復の益がありましょうや。


 その(土地が痩せている)ためにこの地を興し、この民を安んじようとするならば、二反をもって一反とせざるをえません。そうであるならば宇津家の禄俸の半分は減じて二千石となることになり、(宇津家の)公・私の用度(財政か?)が不足することになりますので、必ず民に命じてその不足をおぎなわさせられるでしょう。かりにもそのようになるならば、再度の衰廃はたちどころにいたるでしょう。わが君は無益の地に心力を労しなさるよりは、むしろ四千石の名実がともにまったきところの土地をわかって、これを宇津家におあたえなさるのにしくものはございません」


 忠真侯はおっしゃいました。


「善いかな。汝の言葉、至れるかな。汝の計るところについて、今、年貢が至当の地を(宇津家に)分つことは難しいわけでないといえども、廃衰の地をあげずしていよいよ不毛の地に帰せしむることは私の本意ではない。このために今、汝の言葉にしたがってかの地の再興の業を委任しよう。內外ともに汝が一人の処分とするように。汝の憂うるところの、二千石が減少するという数のことについては、成功ののちに私が必ずこれをおぎなって四千石となすだろう。汝は憂うることがないように。かの地にいたり、身を愛し、国家のためにいよいよその志をはげまし、貧民を安撫して廃亡をあげ、私の苦しい心うちをも安んじてくれ」


 そうお命じなさいました。


 金次郎さんは謹んでその命をお受けになりました。ああ君、君たり、臣、臣たり、まことに明君と賢臣の希世の遭遇というべきでした。


『報徳記』の記述は、このように君と臣を絶賛しています。


 さてここに金次郎さんは下野国・桜町へ向かわれることになります。しかしその前に有名な「荒蕪の力で荒蕪をひらく」という言葉についてもう少しみてみたいと思います。


『二宮翁夜話』巻二、全体の第五十九 「日光神領開拓法に就て大澤勇介を諭す」という文章があります。


「弘化元年(1844年)八月、その筋より日光の神領(東照大権現の神領)の荒地の起き返し方をもうしつけられる見込みのおもむきで、取り調ベの仕法書をさしだすように翁(二宮尊徳翁、金次郎さん)に命じられた。


 私(筆者、福住正兄さん)の兄・大澤勇介が出府し、恐悦(祝賀か?面会?)を翁(二宮尊徳翁、金次郎さん)に申しあげた。私は隨従した。


 翁(二宮尊徳翁、金次郎さん)はおっしゃった。


「私の本願は、人々の心の田の荒蕪を開拓して、天授の善種、仁義禮智を培養して、善種を收穫し、また蒔きかえし蒔きかえしして、国家に善種を蒔きひろめるにある。そうであるのにこのたびのご命令は、土地の荒蕪を開拓することであるので、私の本願と違っているのは汝の知るところでないか。


 そうであるのを遠くより来たって、この命あるのを賀すとはどういうことだ。


「本意にそむきたるご命令ではありますが、ご命令であるので余儀なく、及ばずながらも私めもお手伝いいたしましょう」


 そういうのならばよろこぶべきことである、そうでないならばよろこぶべきことでない。


 それ私の道は、人々の心の荒蕪をひらくのを本意としている、心の荒蕪が一人ひらけたときは、地の荒蕪も何萬町あるとも憂うるにたらないがためである。


 汝が村のごときは、汝の兄一人の心の開拓ができたのみで一村がすみやかに一新した。


『大學』に「明徳をあきらかにするにあり、民をあらたにするにあり、至善しいぜんとどまるにあり」とある、明徳を明にするのは心の開拓をいう。汝の兄の明徳が少しばかり明かになったなら、すぐに一村の人民が新たになった。徳の流行することは「置郵ちゆうして命をつたふる」(置き馬つまり「置郵」が命令を伝える)よりすみやかであるとはこの事である。


 帰国したならば早く至善に止まるの法をたて、父祖の恩に報いなさい、これこそ専務のことである」


 ここでは金次郎さんが、荒蕪を開くには、一人一人の心の荒蕪を開くことを目指されたことを示されています。


 心の荒蕪をひらくことについては、もう一つ『二宮翁夜話』に訓話があります。それも引いてみます


『二宮翁夜話』巻三、全体の第九十二 「荒蕪に數種ある論」からです。


 翁(二宮翁、金次郎さん)がおっしゃった。


「私の道は荒蕪をひらくをもって勤めとする、そして荒蕪には数種がある。


 田畑が本当に(まことに)荒れている荒地がある、また借財がかさんで家禄を利息のために取られ、禄があっても利益がないようにいたったものがある。この国にとっては生きた土地であっても本人にとっては荒地である。また薄地(痩せた土地)・麁田そでん(痩せた田)で年貢の嵩かかりだけの、取実とりみ(年貢分)であってつくる利益がない田地がある。これ上(政府)のためには生きた土地であって、下(人民)のためには荒地である。


 また資產があって金力があるのに、国家のためをなさず、いたずらに驕奢にふけり、財産をついやすものもある。国家にとってもっとも大いなる荒蕪である。また智があり才があって、学問もせず、国家のためも思わず、琴棋書画などをもてあそんで生涯を送るものがある。世の中のためもっとも惜しむべき荒蕪である。また身体強壮であるのに、業を勤めず、怠惰で博奕に日をおくるものがある、これもまた自・他のために荒蕪である。


 この数種の荒蕪のうち、心田の荒蕪の損は国家のために大である。次に田畑・山林の荒蕪である。みな勤めて起こさなければならないのだ。この数種の荒蕪を起こして、ことごとく国家のために供するをもって私の道の勤めとする。


「むかしより人の捨てざる無き物を拾い集めて民にあたへん」


 これが私の志である」


 ここで行われている批判は痛烈です。ただ国家至上で、また他の職業や人々の営みを攻撃しすぎているきらいがあると思います。


 ただ自らをひらく、心の荒蕪というのもデリケートな言葉ですが、教育や自らを磨いて貢献するようになってもらう、そういうことを金次郎さんが目指されたのなら納得のいく話です。


 また金次郎さんはやさしい方です、弱いものを守った方です、今の世におられたらどう話されたか、考えてみるのは面白いですが、叶わぬ願いなのが残念です。

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