第24話 記憶の旅 前編

 俺の記憶は、どれも曖昧だ。

 それが関係しているのかはわからない。でも、こんなにはっきりとした夢を見るのは生まれて初めてで、なんだか不思議だ。



 誰かが泣いている声がする。声の方を見ると、知らない女性が俺の頭を抱きながら大粒の涙を流していた。

「なんで寝てくれないの……ミルクも飲んでおむつも変えたのに、なんでちゃんと寝てくれないの……」

 か細い声が俺を刺す。ああ、なんだろう。この人の感情に晒されると、なぜか悲しい。たまらず俺も泣き出した。そうか。俺、赤ちゃんだった。

「なんであなたも泣くのよ……なにが気に入らないの!」

 ごめん、母さん。


 場面が飛び、次に俺の目の前には青空が広がっている。ベビーカーに乗っているみたいだ。横にはパラソルのようなものがあり、カフェのように騒がしい。母さんが誰かとお茶をしているみたいだ。顔はよく見えないけど、声は聞こえる。

「毎日毎日……勘弁してほしいわよ。夫は夜勤でいないし、昼は家じゃ寝れないからって会社から帰ってこないし」

「でも休日は帰ってくるんでしょ?」

 母さんをなだめるように明るく話しかけた女性に、母さんはテーブルを叩いた。

「帰ってきても自分の分の洗濯や掃除しかしないのよ! 子供なんて触りもしなければ近づきもしない──小さくて怪我させそうで怖いからなんて言うだけよ! 自分の子供なのに!」

 あまりの怒気に全身が震えた。けれどさっきとは違って俺は泣かなかった。

 否。泣きたいのを我慢している。泣いたらどうなるのか、わかっている。

「まあまあ、そんな大声を出したら赤ちゃんも驚いちゃうわ。ほら、こんなに涙をためて可哀想に」

 興奮して息を荒げる母さんを横目に、物腰の柔らかい女性が俺を抱き上げた。慈愛に満ちた笑顔で俺の背中をさすってあやす姿は、どちらが母親か他人から見たらわからないだろう。

「お母さんの大声でびっくりしちゃったのね。大丈よ。お母さんは少し疲れているだけなの」

 ゆりかごのように俺を抱きしめたままゆっくり体を揺らす女性に、俺はホッとした。

 ああ、泣きそうになっても怒られない。

「そうしてると、あんたの子供みたい」

 揶揄うような母さんの乾いた声は、俺の体を固まらせた。


 場面が飛んだのか?

 淡いもやで周りがよく見えない。変な浮遊感で足にも手にも力が入らない。水、いやお湯の中にでもいるのか。状況が理解できない。でも苦しくない。むしろ心地よい。あたたかい気持ちでいっぱいになる。

 しばらく目を閉じていたけど、物音がした気がして目を開けた。

 すると目の前に制服を着た学生の男女が立っていた。ああ、ヨウちゃんと梅姐だ。

「よかったら一緒に弁当食べようぜ」

 友好的な笑顔に引き寄せられて一歩を踏み出して自覚した。俺、高校の制服を着ている。

「どうしたの? 早くしないとタカシが弁当をタカリにくるわよ」

 さも当然のように言われて俺は何の疑問も持たずに笑ってついていった。

 数歩先で教室から屋上へと移り変わる景色。廊下などあっただろうか。でもなんの違和感もなく、俺も二人も笑っている。


 俺の行動範囲は数歩のみ。それなのに周りの景色や人は目まぐるしく変わる。

 高校の制服を着てから他に変わったことがある。俺の周りで幻聴や家鳴りがするのだ。それは頻繁になり、窓が独りでに割れたり不自然に物が飛んできたりと悪化しているように思えた。

 怖い。でも誰にも相談できない。いつくるかわからないポルターガイストに常に怯えて体を丸めて俯いた。

「お前にこれをやるよ。少しはマシになるだろ」

 聞いたことのある男性の声がした。目を開けるとお守りを乗せたゴツい手のひらが見えた。

「──除けのお守りだから、少なくとも喰われる心配はなくなる。お前んとこって加護付けないの?」

 ああ、知っている声だ。全然高校の先生とかじゃなかった。

 お守りをくれたのはシャケさんだ。


 あれからどれくらい経ったのか、わからない。お守りを貰ってからポルターガイストは消えた。学校生活は特別なにかがあるでもなく、穏やかで平凡に流れる。

 そういえば高校も卒業か。ポルターガイストが起きた時はどうなるかと思ったけど、お守りを貰えてよかった。

 なんの疑問も持たずにいた。だが不意に頭上からの老人の怒声に驚いて飛び跳ねた。最初は何を言っているのかわからなかった。ただ責められているのはわかった。次第に言葉として理解できるようになったら、責められているのは俺自身ではないようだ。

「人を拐うことも問題だ! 自分の世界に持ち帰らなくても連れ去ること自体が禁止されてるんだ!」

「俺はてっきり自分の赤ん坊だと思ってたんだがな……まさか人の子を十六年もとは」

「とにかく検問所に連絡を──待て、その中の子はいまどうなってる状態なんだ」

「大家、警告したほうがいいぞ」

「それもそうだな。いいか、今お前に警告したらその子にも適応され──おい! 逃げるな! 返せばいいとかそういう話じゃないんだ! 待て!」

 今まで穏やかだったのに、いまは地震のように俺のいる空間が揺れる。あの会話の意味が、今なら理解できる。爺ちゃんとシャケさんの声だったから。


 しばらく揺れがおさまらなくて、俺は怖くて体を丸めてじっとしていた。やっと揺れなくなったと思ったら、また声がした。

「化け物! 私に子供はいないし卵なんて人間が産むわけないでしょ!」

 母さんだ。このヒステリックな怒声は間違いない。思わず立ち上がった。

 刹那、何もない空間から飛んできた包丁が、俺の脇腹に深々と刺さった。

「え──」

 知らない感覚に反応が遅れた。包丁が刺さった脇腹が熱い、いや、痛い。これは痛いってやつだ。そして、これは俺の血。

 硬い板が割れる音がする。周りを見渡すまでもない。俺のいた空間が包丁が飛んできたところからひび割れて壊れているのだ。

「なんなのよ! 卵から人が出てくるなんて、ありえない!」

 さっきよりも声が近くになって顔を上げたら、見知らぬ家の中で歳をとった母さんが包丁を俺に向けて立っている。自分の脇腹を見たら包丁はなく、深い傷と血が流れていた。

 訳がわからないのは俺も、母さんも同じだった。

「夫が寝たきりになって頭がおかしくなったのかしら……ありえない、こんなの、絶対ありえない」

 髪を振り乱してブツブツと焦りを吐き出す母さんが立っている奥の部屋に、布団の上で寝タバコをしている男が見えた。

「こんなのいきなり持ってきて、あんたなんなのよ!」

 母さんの声でハッとした。この場にもう一人いたんだ。俺の母さんといえるヒトが。

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