第20話 安易なサイン
検問所の人間は、名前ではなく肩書きで呼び合う。それは俺も同じ。
名前は魂との結びつきが強いからだ。
契約書にサインをするだけで効果があるのは、そういうことだ。だから内容は読みこむべきだとわかっていた。わかっていたはずなのだ。
サインの最後の一文字を書いた後、ペン先が震えた。何かに違和感を覚え、改めて契約書の文面を読み直す。そして自分の失態に気づいた。
「あの、これって……」
思わず契約書の端を握りしめた。
「追加項目のことかしら? なぁに、そんな大層なことはしないよ。ただ確認させてもらうだけだから後遺症も残らない」
女性は俺の手を力尽くで払いのけて契約書をすぐに懐にしまいこんでしまった。
「いつやるんですか」
「君のお爺さんからのサインを貰い次第かしら。君のサインを見たら、あのお爺さんもサインしてくれるだろうしね」
そう言って女性は消火処理やその他作業を終えた部下を連れて医務室から出ていった。
自分の失態に俺は床に拳を叩きつけた。やってしまった。ずっと爺ちゃんが守ってくれていたのに、それを自分で水の泡にするとは。
「ええっと、そのぉ……とりあえず少し横になったらどうです?」
ずっと俺の横で体を支えてくれていた職員に促され、俺はふらつきながらもやっと床から立ち上がった。
つい先ほどまで火事があったとは思えないほど綺麗に処理された医務室は、最初に入った時の清潔感と静寂に包まれている。
職員に支えてもらって俺は先ほどまで座っていたベッドに横になった。思わずため息がもれる。
「契約書に何か不利なことでも書いてあったんですか?」
小さな冷蔵庫から使い切りのおしぼりを持ってきた職員の何気ない質問に、俺は薄ら笑いで返した。
「俺の脳みそをいじくって記憶を強制的に確認するって書いてあるのを見ないでサインしちゃったんですよ」
「でもそれは先代さんがサインしなければ問題ないのでは? そこまで悲嘆しなくても……」
そう、俺が最初に大家として契約書にサインした時、爺ちゃんも新たな契約書にサインした。俺の記憶を無理矢理にでも確認する場合、俺と爺ちゃんの両方のサインを必要とすること。
でも今回は検問所の方が上手だった。
「ちっちゃく備考欄に書いてあったんですよ。爺ちゃんがサインしない限り、俺は検問所預かりになるって」
「ああ──それは、まずいですね」
職員から冷えたおしぼりをもらい、汗ばんだ額や首筋を拭った。
「検問所預かりなんて、軟禁されるのと同じですから。爺ちゃんもサインせざるを得ない……はず、です。まあ今どこにいるのかすらわからないんでいつになることやら」
もはや笑うしかない俺に、職員は首を傾げた。
「というかそこまでして隠す必要がある記憶があるってことですか?」
検問所の技術であれば脳みそをノーリスクで弄ることは可能だ。本人が忘れていることも、脳が記憶していれば、全て確認できる。だがやられている側は夢を見ている程度のレベルで済む。だから拒否するとしたらその処置の方法ではない。見られたくない記憶があるからだ。
検問所が見たがる俺の記憶なんて一つに決まっている。
「俺の実家が燃えた時の記憶ですよ」
検問所に保護された時は後回しにされた事案が、最近になって問題になったから解決に踏み込んだといったところか。薄々わかっていた。
例え俺が思い出せなくても、理解できていなくても、俺が視ていたなら記憶されているはずだ。あの時の犯人。そして俺の両親がしていたこと。
俺が一番思い出したくない記憶だ。
職員は気まずそうに言葉を飲みこみ、小さく謝罪した。それに俺は形式的な返事しかしなかった。
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