第5話 地獄の始まり

 旅行先で喧嘩するというのは、どうやら異世界でもあるらしい。

 敷地内に不穏な空気を感じ取って洗車を中断し、玄関を開けると視界一面が緑色の触手で埋め尽くされていた。擬態皮を脱いだ客だと理解するのに数秒かかってしまった。

「擬態皮はお部屋でお脱ぎください!」

 そして咄嗟に出たのはこれだった。玄関を勢いよく閉めて結界で困った客を隔離しようとして気がついた。一人ではない。

「あんたのせいで大家さんに怒られたじゃない!」

「知らないわよブス! そっちのせいでしょ!」

 ぎゃいぎゃいと騒ぎながら二人の客が取っ組み合うように喧嘩している。同じ色の触手が絡み合っていたから一人だと思っていた。これでは個別に隔離ができない。

「喧嘩するにしても擬態皮を着てください! あと他のお客様のご迷惑になるのでせめて平和な手段で争っていただけたら幸いです!」

「平和な手段ってなによ!?」

「今日という日はこいつをズタズタにしないと気が済まないのよ!」


「ウォッカの飲み比べ勝負はどうだ?」


 騒ぎを聞き目敏く野次馬根性で来たのであろうシャケさんの無邪気な提案に、俺もお客様も口をポカンと開けて静止した。あれだ。火に油を嬉々として注ごうとしている顔だ。

 だがそれを聞いて騒ぎで様子を見ていた他のお客様達が歓声を上げたのだ。

「ルールは簡単だ。より多くのウォッカをストレートで飲んだ方の勝ち。シンプルでいいだろう? そんなどこでもできる喧嘩より、こっちらしいやり方で喧嘩したらいい」

 シャケさんの説得でやっと二人は擬態皮を着て、取っ組み合いを止めてくれた。

「いいわ。その方法で勝負しましょう」

「ふん。あたしが勝つに決まっているわ」

「よーし。じゃあ共有スペースでやろうじゃないか」

 お互いを睨み合いながらもシャケさんに従う二人を、俺は呆気にとられて見ているだけだった。


 普通は飲み比べ勝負といえばショットグラスなどで行う。だがここは異世界規格。グラスなどまどろっこしい物は使わない。

「五百ミリリットルの一本飲みだ! 早さではなく量で競うからな!」

 どこで買い込んできたのかシャケさんは共有スペースに酒瓶がぎっしり入った段ボールを山ほど運んできた。全部同じ銘柄だ。ラベルを見ると国産米を使った地方のクラフトウォッカらしい。おそらくこんな馬鹿のようにカパカパ飲んでいいものではない。度数は四十度。普通の人間ならシングルで二杯、ダブルなら一杯が適量だろう。それをボトルごと一気飲みなど、人間ならありえない。

 なによりシャケさんが持ち込んだ酒だから危険だ。このヒトはいつもヒトに飲ませる酒は飲みやすくて美味しい物を持ってくる。自分は消毒液ほどの度数の酒を飲んでいるのに。

「みんなも飲むか? ただ見ているだけなのもつまらないだろ?」

 そういってグラスではなくボトルごと渡すもんだから、俺は慌ててシャケさんを止めようとしたが遅かった。

 最悪の宴が始まってしまったのだ。

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