情報漏洩事件発生~①

 健常者だった頃の勤務先である東朝とうちょう新聞社から、二月早々に発生した事件取材の応援依頼を受け、須依すえ南海みなみは警視庁内の記者クラブ席に座っていた。

 朝早くから登庁し、与えられたブースの壁に白杖を立てかけ、長い間待機しながら耳を澄ませ動きを探っている。しかし肝心の情報が入ってくる気配は全くない。その為正直なところ少し退屈になり始め、思わずあくびが出た。

 二〇二〇年初頭に始まった全世界における感染症のパンデミックは、アルファやベータからデルタやオミクロンと次々に変異株が出現した。よって国民の約八割が二回目のワクチン接種を済ませた今でも全く収まっていない。

 それどころか、三年目に入ろうとする年明けから急激に感染拡大した第六波は、これまで最大だった第五波の四倍近い感染者を出している。十二月から始まった三回目のワクチン接種の効果も間に合わず、ピークを過ぎたと言われる三月に入ってもなお高止まりのままだ。

 さらには新たな変異種が発生して、また次の変異種が広まるか分からない状態が続き、落ち着きを取り戻す前に第七波が到来するのではないかと危惧されていた。

 当初は罹患し難いとされていた十二歳未満の子供達にも感染が広がった為、その世代へのワクチン接種がようやく始まろうとしている。それでも感染収束の先が全く見えない状況は変わらない。

 こうした繰り返しが余りにも長く続いたからだろう。自粛疲れ、または経済を回す為との言葉を大義名分にし、二十代から三十代を中心とした人々が徐々に動き出し始めていた。

 そうした背景の中、かねてから一般の人達に比べ三密対策が甘いと指摘されているマスコミ関係者は、以前に増して密集、密接せずに取材等できないと言わんばかりの態度を、多くの人が取っている。

 ブースの中でもマスクさえしていない人が少なからずいるのは、声の調子だけで直ぐに気付く。だから本音ではこんな所から早く出たい。けれど仕事だからしょうがないと須依は溜息をついた。

 そんな環境の最中に起きた事件の発端は、大手広告代理店の白通はくつうエージェントにおける、個人情報等を含めた機密情報の漏洩ろうえいだ。外部からの不正アクセスによるランサムウェアの影響らしい。

 ランサムウェアとは、コンピュータに悪事を働くソフトやコードの総称であるマルウェアの内の一つだ。パソコンなどのデバイスへ不正にアクセスし、何らかの害を及ぼすコンピューターウイルスの中でも悪質な実害を与え、近年世界的問題となっている。

 身代金を表す「ランサム」と「ソフトウェア」を繋げた造語で、文字通りソフトウェアを悪用し、データの身代金を要求するマルウェアだ。

 年々攻撃が巧妙化し、現状では対策が難しいとされている。特に感染症の拡大以降、在宅勤務やテレワークにおけるセキュリティの脆弱性ぜいじゃくせいを狙ったものなど、被害件数が増えていた。

 ランサムウェアの感染経路は主に二つある。一つは広告等を改ざんし、不正なWEBサイトに誘導するもの。もう一つはなりすましメール等を送り、添付ファイル等を添付して開かせ、アクセスさせるパターンだ。

 感染するとパソコンが動かなくなる。もしくはデータファイルを暗号化し利用不能にした上で、元の状態に戻したければ金銭を支払え、などと脅迫文が現れるのだ。

 さらにはデータを返して欲しければもっと支払え、さもなければ情報をばらまくと二重に要求される場合もあった。ここでも別のウイルスが、人々の頭を悩ませるという皮肉な様相を呈していた。

 ランサムウェアの特徴として、支払い要求は身元を隠しやすい仮想・暗号通貨でと指定する点が挙げられるだろう。その為支払った後に警察へ通報しても、犯人を捕まえられず泣き寝入りせざるを得ない場合が多いと言われている。

 現在の情報社会においては、データは高額な金銭と交換できるほどの価値を持つ。それが凍結され身代金を要求されるのだが、犯人は身元不明の為、支払ったとしてもデータが戻ってくる保証はない。

 恐ろしい点はそれだけでなかった。金融機関や医療機関などの大きな組織がターゲットにされれば、生活インフラ凍結の引き金になる。その上支払った金銭が裏組織・闇組織の手に渡る可能性は高く、さらなる犯罪に繋がることも考えられた。

 その為企業にはセキュリティ対策を仕組みから見直すと同時に、従業員教育の充実が必要だと言われていた。

 そうした中で今回問題となったのは、白通の所有するデータの一部がランサムウェアの影響を受けて漏洩し、当該企業と密接な関係を匂わせる政治家や官僚達のリストが公表され、不正な裏取引や金銭授受を疑われた点だ。

 しかも珍しいケースだったのは、まだ企業が身代金を要求される前に騒動が起こり、その後百億円を請求していると犯人側が公表したことだった。

 余程捕まらない自信を持っていたのか、はたまたこれは決して脅しで無いと印象付ける狙いがあったのかもしれない。もしくは犯人の目的が身代金でなく、当該企業や政治家と官僚による不正の告発ではないかとの憶測おくそくも飛んだ。

 こうした前代未聞の事件だった為、当然各マスコミはこぞって関心を持ち、遊軍である須依のような記者までもが途中から駆り出され、取材を始めたのである。

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