妻に関する覚書

いちはじめ

妻に関する覚書

 妻が外出の支度をしている。


 だ。


 このところの表情から察すると、今回のお仕事も順調に推移しているようだ。

 しかし妻のお仕事が順調であればあるほど私の心は重くなる。

 ただ妻と一緒になる時の約束で、私は妻のお仕事について何も口を挟めないし、妻も何も言わない。

「お仕事行ってくるわね。一週間ほど戻らないと思うから。それと月末の支払い忘れないように」

 妻はにっこり微笑んでそう言うと荷物を抱えて玄関へと移動する。私は仕方なく重たい方の荷物を肩代わりしてとぼとぼと妻の後をついて行く。

 家を出る間際、妻は振り返った。

「なあに、その顔は。妻のお仕事がうまくいっているのだから、もうちょっと嬉しそうな顔をしなさいよ」

 そう言うと妻は私の頬にキスをして家を出て行った。

 私は玄関先で力なく手を振り、妻を見送った。


 居間に戻りソファーに腰を沈める。そしてどうしてこうなってしまったのかと過去を振り返る。


 あれは大学二年生のある日、ジョギングをしようと公園の入り口でウォームアップをしていたところだった。一台の真っ赤な高級スポーツクーペが目の前に優雅に滑り込んできた。私は何事かとその車を凝視した。

 静かに下がったウィンドーから、微かな甘美な香りと共に顔を覗かせたのは、派手なサングラスをかけた三十歳くらいの美女だった。彼女の、純白で両肩が露出するタイトなワンピースは、車に勝るとも劣らぬグラマラスなその肢体を更に強調していた。

 その姿を目にして身動きどころか瞬きさえできない私に、その女性はこう声を掛けてきた。


「その体、少しの時間私に貸してくださらない?」


 その誘いを拒むことができる男がこの世に存在するだろうか。気が付くと私は彼女の隣に座っていた。


 これが彼女との出会いだった。


 その後、私は誘われるまま逢瀬を重ね、そして彼女の虜になった。

 彼女はあまり自分のことを語らなかった。投資家だと言っていたがそうは見えなかった。ただ私に一切の金銭的負担を負わせないどころか、その後マンションの一室や車まであてがってくれたので、金持ちであることだけは確かだった。そんな彼女が何故私のような貧乏学生に目を付けたのか不思議だったが、こんな豊艶な美女の相手ができるのだからと深くは考えなかった。

 彼女に夢中になった私は、四六時中彼女と一緒に居たかったのだが、彼女は絶妙の距離を保って私と接した。

 私がそのことに不満を漏らすたびに彼女はこう言って諭した。


「私と付き合いたいなら、私に相応しい男になりなさい」


 そして彼女から様々なことについて手ほどきを受けた。それは男女間の事柄だけでなく、知性、教養等ありとあらゆる方面に及んだ。私は彼女に相応しい男になりたい一心で、それらのことを吸収し、自分自身を磨いていった。

 そのお陰で私は、友達も驚くほどの洗練された男へと変貌していった。気が進まなかったのだが、彼女の勧め――いや課題というべきか――で多くの女性と浮名を流したりもした。もちろん勉学にも励み、大学を優秀な成績で卒業することができた。そして将来有望な企業への就職もすんなりと決まった。

 それもこれも全ては彼女のおかげだと、私は彼女に対する気持ちを益々燃え上がらせた。

 社会人になっても彼女との関係は変わらなかった。ある日、これまでの募った思いを彼女に打ち明けたが、返ってきたのはつれない言葉だった。


「まだまだ不足しているわ。私たちの将来のためにもっと頑張らないと」


 しかしその言葉――私たちの将来――に私は希望を見出した。

 それからも私は自分のステイタスを上げるために邁進した。

 入社した会社を成長させるため尽力し、その結果、会社はついに株式市場に上場するまでになった。そしてその功績を認められ、私は若くして役員の地位を手に入れることができた。その間にも、彼女にはいろいろと相談に乗ってもらったし、彼女の人脈に頼ることもあった。

 ――もう彼女なしの人生は考えられない。

 その思いを更に強くした私は、プロポーズするつもりで彼女を高級レストランに誘った。

 目の前に座る彼女の妖艶さは、今も出会った時のままだ。高鳴る気持ちを押さえつつ、私は自分の胸の内を打ち明けようとした。

「あなたに認められるために、相応しい男になるために努力し、やっとここまで来ました。だから私と……」と言ったところで、彼女は私の唇に指を当て、その先の言葉を遮った。

「よく頑張ったわね、合格よ。その申し出、受けてもいいわよ。でも条件があるの」

 そう言うと彼女は一枚の封筒を差し出した。

 開けてみると、中に一枚の請求書が入っていた。

「これは?」

「あなたをここまで育てるために掛かった諸々の費用と、私への報酬よ。これを払いきるまで一緒にいてあげる」

 呆気にとられる私に、彼女がにっこり笑ってとどめを刺した。


「ウフフ、悪く思わないでね。だってこれが私のですもの」


                                   (了)

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