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はっと開けた目に水がしみるのを感じて、慌ててまぶたをぎゅっと閉じるが間に合わない。ごぼり、と鼻と気管にも水が流れ込み、眉間にづんと強い痛みが走る。
まさぐった手が水面の上の空気と、バスタブのふちのような手応えを見つけて、ぐっと体を起こす。水から出る。
「ぷはっ!」
むせ返りながら酸素を求めて、どうにか息のしかたを思い出す。
目をこすり顔を拭う。水滴のせいでピントの合わない視界。ぽたぽたと髪から垂れるビビッド・ピンクの液体が、真新しい病院のような白無地の床を汚す。
呼吸のリズムを取り戻しながら、私は今の状況と記憶とをどうにか引き合せようとする。自分が今、カプセルのようなバスタブのような容器に満ちた、ピンク色の液体の中に浸かっていたらしいと知る。制服のままだった。濡れた生地が素肌にじっとりと貼りつく。右耳にしみ込んだ液体がごうごう鳴る。
「どこ、ここ……」
口にすることで、自分がとりあえずまだ生きているものと思うことにする。タクシーの運転手のいやらしい顔、それから、ピンクの夢の中でささやいた女の人の、高い鼻の形と丸い瞳のきらめきを思い出す。どこからどこまでが夢なのか、どうしてこんなところで液体の中に沈められていたのか、すぐには記憶と時系列の整理がつかない。
膝や太ももにまとわりつくスカートを不快に感じながら、白い曲線状のふちをまたいでバスタブから出る。音のない、薄暗い、天井の高い奇妙な白い部屋。学校の体育館の軽く倍は広そうだった。繭のような、ピーナツのような形状の奇妙なバスタブには、側面に大きな液晶画面がひとつ組み込まれていて、同じものが等間隔で恐ろしい数並んでいる。百や二百ではなさそうな。
未来人にでもさらわれたか、アンドロイドにでも改造されたか、はたまた今まで私が見ていた世界は全部架空の映像だったのか、なんて想像がいくつも頭をよぎる。普段床の間で母がつけっぱなしにしている、洋画見放題チャンネルのせいだ。
ずぶ濡れでがぽがぽうるさい靴を脱いで、水を吐き出させて揃えてつまむ。ソックスを透して床の冷たさを感じる。部屋の端、一番近い壁を目指して、並んだバスタブの間を歩く。透明なフタが閉まったままの、手近な別のバスタブを覗いても、ピンクの液体がちゃぷんと波打つ以外は何も見えない。
ここが一体どういう場所なのか、今はいつの何時なのか、自分が何故こんなところでびしょ濡れなのか。考えを巡らせていると、頭の上のどこからともなく、低い音程のモーター音がふぉんと近づいてくる。ごく最近、この音を耳にした気がした。
見上げて目に入ったのは、白いドーナツに赤いLEDのクランチがまばらにまぶされたみたいなドローン。こちらを探してぴたりと止まった、赤く光る目の動きを見て、こいつにちくりとやられたんだと思い出す。
こういう手合いに見つかると、良い方に事が運んだ試しがない。洋画ではそれがセオリーらしいが、実際今も目の前で、高い天井に開いたシャッターから同じ形のドローンが、次々、次々と、十や二十じゃ利かない群れを成して、ゆっくり降りてくる。
「ああ、もう、なんなの、なんなの!」
得体の知れない怖さを口に出してみても、答える者は誰もいない。ぬるぬるの足が滑るせいで、脚に力を入れて走れない。それでも出入口らしき壁の亀裂を目指して、並んだバスタブの間をひょこひょことみっともなく逃げ回る。手が届く寸前、しゃん、と左右に壁がスライドして口を開く。
出た先の天井はガラス張りで、満点の星空が広がっていた。心に余裕があるならそれはそれは綺麗に見えるのだろうが、ドローンの群れに追いたてられている私には、
「ああ、もう、どこなのよ、ここは」
そう弱音を吐き散らすくらいしかできなかった。左右を見る。クリーム色の冷たい手すりが生えている以外には、一切模様も掲示物も見当たらないグレー一色の廊下。病院、研究室、はたまた秘密組織の基地か何か。ここがどんな場所かを表す言葉の候補が、それくらいしか思い当たらない。
左へ走ることにした。右手のはるか先に、ドローンの明かりがちらちらと上下しているのが見えたからだ。足の裏は少しずつ乾いてきて、手すりをいつでも掴める近さの壁際を走った。
肩やおなかにぺたぺたまとわりつく制服が鬱陶しかった。星空が隠れ、壁と同じ色の天井に変わったあたりで、十字路に出くわした。
正面から向かってくるのは、(体育の成績はいつも2か3の私が)踏み切るのに覚悟がいる高さの跳び箱くらいの、台形の白い固形物。ツナギのおじさんが駅のホームで手押ししている大型掃除機のような。間違いなくあれもロボットだ。押している誰かがいるようには見えないのに、明らかにこちらを見て一度ぴたりと止まってから、すうっと加速してきたからだ。
右も左も明かりがなくて暗い。後ろからはきっとまだドローンがついてくる。正解の見えない選択を迫られて、数学の期末試験残り一分でよく似た気持ちになったのを思い出した。呼吸が震えて、おなかがキリキリし始めた、その時。
――こっちへ来て!
右耳の奥で、誰かの声が聞こえた。
「はい?」
我ながら間抜けすぎる返事だ。どなたですか、どこですか。こっちってどっちですか。それを聞くべきじゃないのかと思った時、左手の廊下の明かりがぱっとついた。
――はやく!
それが声の主のしわざだなんて何の根拠もないはずなのに、私はそっちへ走った。走った先もT字路で、今度は右手の明かりがついていて、ふっと浮かんだ「罠かも」という余計な不安を、
「ああ、もう、なんなの!」
当たり散らすように喉から吐き出して、走った。
――その先のエレベーターで「G」の階へ行って。
急に案内が具体的になって初めて、私はその声になんとなく聞き覚えがあると気づく。わずかなどもりやためらいのない、女優さんのような、はきはきと強い女の人の声。
何度目かわからないT字路の、少し四角く広くなったつきあたりに、エレベーターらしき両開きドアが二つあった。下向き三角形のボタンもそれぞれの横にあって、
「ど、どっちのエレベーターですか?」
声が届くのかもわからないまま、なんとなく天井に向かって訊ねると、
――あ、来たほうでいいわよ、同じだから。
と妙にのん気に返されて、なんだかようやく、自分がまだ生きていて、ここはまだ自分の知っている人間界のどこかではあるのだと思えてきた。
到着した右のエレベーターに乗って、アルファベットの書かれたボタンしかないパネルから「G」を探して押して、内向きに並んだ三角形二つのボタンをたんたんと連打する。私に理解できる文字やアイコンが並んでいるのだから、そうそう私のいた世界から離れてはいないようだ。
ひゅ、と下に降りる感覚のあと、何故だかぐんっ、と前に加速するような重力感があって、よろめいて後ろの壁に手をついた。
あれ? と思って手のひらを見た。あの袋小路でドローンにちくりと何かされて倒れた時、地面についた手を擦りむいたはずだった。太めの縦線が何本か浅く入った、じくじくとした擦り傷を覚悟して、わざわざ少し目を細めて見たのに、手のひらには傷ひとつなくて、むしろお風呂あがりのように少しつやつやしてまでいる。
「あの、ここ、どこなんですか」
青白い明かりの天井に尋ねてみたが、返事はなかった。エレベーターだから電波が通ってないのかな、なんて思った。
§ § §
耳の奥の声に導かれるまま走り、曲がり、また走った先で、
――OK、まっすぐ行って右。一番奥のドアが開いてるから来て。
壁が左右にするりとスライドして開いた。
このドアが出口で、その向こうに人里めいた街並みを期待していた私は、
「えええ……嘘……」
全身の力と希望が抜けてゆく感覚に、ぺたりとその場に膝をつく。目の前に広がったのは、あのバスタブがずらり並んだ、よくよく見覚えのあるだだっ広い空間だったのだ。
――いいから入って。まっすぐ奥に行ったら、別の部屋があるから。
逃げてきた通路からドローンのモーター音が聞こえた気がして、私は嫌々部屋へ入る。ここもまた、自分が目覚めた空間のように、体育館よりはるかに広い。
一人で追い立てられていた時よりは、頭に余裕が戻っていた。ずらりと並んだバスタブの隙間を歩きながら、ちらちらとその中を覗く。手近なバスタブにしか目を通してはいないが、やっぱりどれにも、ビビッド・ピンクの液体が八分ほど溜まっていて、私の歩みに合わせてわずかに波打っているだけで、私のように誰かが浸かったり沈められているようには見えない。
壁までまっすぐ歩いて、隅のほうに見つけた小さなドアも、
――そこ。どうぞ入って。
かしゃん、とロックが外れる音がして、ひとりでにスライドした。
明かりの消えたその部屋は、ひどく無機質だったバスタブの部屋やここまでの廊下とうって変わって、人が使っていた気配が確かにあった。
学校の理科室や音楽室の奥の、教科担任の先生が使う準備室と雰囲気が似ている。何かの器具や機械が乱雑に積まれたアルミの棚。カビと埃の匂い。そして、外の空間と違って壁に急角度で立てかけられた白いバスタブ。この置き方だと、カプセルと呼ぶほうが正しい気がした。
並んだカプセルは、壁の端から端までで六つ。一番奥のひとつだけ液晶画面に明かりが灯っていて、私は他にあてもなく、それのほうに歩いていく。暗い天井にゆらゆらしているピンクのオーロラ。カプセルの内側に何かの光源が――。
ビきィ ぅン!
いきなり体のどこかから頭のてっぺんまでを、痛みが突き抜けた。
「あぅ!」
踏ん張りが効かずに、私は前のめりに倒れた。左脚のすねから付け根までが痛んで、動かせない。起き上がれない。
「痛った……何、これ。なに?」
見ると、ふくらはぎから針のように細長い金属の棒が生えていて、頭が激痛をより具体的に認識してしまう。喉の奥から悲鳴が湧いてくる。いつの間にかあの跳び箱サイズのロボが一機、私に追いつき、この部屋にたどり着いて、私に針を撃ったのだ。頭がそれを理解するのに、何秒もかかってしまった。
「やだ……もう……! なんでよ、なんでこんな……!」
――そのカプセルのパネルにさわって、はやく!
耳の奥の、心なしかボリュームの大きくなったその声を、
「む、ムリです、脚痛くて、立てない、立てないんですっ!」
口では拒否しながらも、ひょっとしたら誰かがどうにか助けてくれるんじゃないかと、私は動かない下半身を上半身で引っ張るように、腕の力で床を這いずる。半袖の肘に床の細かなざりざりが食い込んで、今が夏であることを恨む。それでもカプセルに寄り掛かるようにして、どうにか、
ビぎィ ァン!
「んあうっ!」
立ち上がろうとした左肩に、またあの痛みが走る。よろめき倒れかけ、それでもすがりつくようにカプセルに抱き着く。まだ乾ききらない制服を貫通した針が、わずかに青白く光って消えた。これ、頭に刺さったらどうなるんだろう。
――がんばって! 右手のところ、ほら!
ひぅ、ひぅと情けない泣き声が肺を震わせて洩れる。目をぎゅっと閉じ、右手のひらで届くところをあてずっぽうにぱんぱんと叩く。すると。
ぴ、と何かが鳴った後、カプセルの透明なフタが、私のほうにばきゃん、と無造作に開いた。
「きゃあっ!」
不意に支えを失って仰向けに倒れた私は、カプセルの中から勢いよくあふれ出たビビッド・ピンクの液体が、ばしゃあともろに浴びてしまう。
再びびしょ濡れにされて、私はただ呆然と、だらしなく開いたカプセルを見上げるばかりだった。中からあの声の主の、きっとかっこいい女優さん扮するアンドロイドかサイボーグが現れて、私を助けてくれるんだとばかり思い込んでいた。
それがどうだ。結局誰も、私を助けてくれる人はいなかった。
私のすぐ横でぴたりと止まった跳び箱ロボの赤いランプが、じっと私を見下ろしている。袋小路で私に迫った運転手の目つきを、どうしてか思い出す。きっとこのロボがこれから私にすることは、あの運転手のしたかったことと、そう変わらないのだろう。
「いや……あっち行ってよぅ……」
涙を止めようにも、もう堪えが効かない。逃げようにも、手足がうまく動かない。唯一動く右手だけが、床の液体を空しくまさぐる。
「なんで、なんで……」
嫌な記憶ばかりが、頭の奥からあふれ出て来る。
襲われそうになって、さらわれて。沈められて、追いかけられて、撃たれて、刺されて、しびれて。ううん、それよりもっと前にそもそも私は。
「どうして私ばっかり」
私のことを、誰にもわかってもらえていなくて。
「なんで私ばっかり、こんなことされなきゃいけないのよ、っ!」
「その答はね」
声が聞こえて目を開けると、鼻と鼻がくっつきそうなすぐそこで、
「あなたの生きてる世界にはね」
あのインディゴライト・トルマリンの瞳が、やさしく微笑んでいて。
「あなたひとりしか、いないからよ」
一糸まとわぬその女のひとが、私の上に覆いかぶさったまま、
バぎょあン!
「ね。
長い右脚を高々と伸ばして、跳び箱ロボを天井まで、軽々と蹴っ飛ばして見せたのだ。
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「さてと、逃げましょっか」
ひょい、と私の上からどいて立ち上がったそのひとを、私は唖然と見上げ、いつしかまじまじと見入ってしまった。
見上げていて遠近感が狂いそうな高い位置の腰のくびれも、ぱんぱんに大きいのに上向きで型崩れしないおっぱいも、ハネっ毛ひとつ見当たらないストレートのブロンドも、つんと高い鼻も、そしてくるりんと青い瞳も。
こんなにかっこいい女のひとが、映画や漫画や夢の中以外に存在するなんてことを、私はにわかに信じることができずにいた。
「ありがと、よくがんばってくれたわ。ほら立って」
「えっと、あの、こちらこそ……?」
微笑みながら差し出してくれた手を取ろうとして、ん? と私は止まる。
その人の手のひらの真ん中あたりに、何故か私の手が見える。うっすらと透けているのだ。
「え、あの、これ大丈夫なんですか?」
手を握るかわりに、ついその透けた部分を指差して訊ねてしまう。すると、その透けた部分がとりゅん、とゆらめき、まるで水槽のメダカみたいにふいとどこかへいなくなってしまう。
「あ、心配しないでいいのよ。体がゼリーなだけで、あとはごくごく普通の人だから」
「ふ、普通じゃないですよね。全然、それ」
つい言い返しながらも、私はその手を取った。ぐっと引いてくれるのに助けられて立ち上がる。そのひとの気さくな物言いに、恐怖は簡単に消えてしまっていた。
「いろいろ聞きたいだろうけど、とりあえず走れそう?」
「えっと……はい、なんとか」
訊かれて気が付いた。脚からも肩からも痛みが消えている。刺さっていた針もどこかへ行ってしまった。液体を浴びた弾みで取れて流されたのだろうか。穴のあいた袖の下に傷は見当たらない。あれ、まただ。
「じゃ行きましょ。たぶんその部屋見張りが飛んでるけど、気にせず突っ切ってね」
「頑張ります。頑張りますけど、その」
「ん、なに?」
「えっと、何か着たりしなくて大丈夫なんですか?」
しっかりじっくり見ておいて何を今さらと思いはしたが、ここから外へ連れていってもらえるのであれば、さすがにそのままの格好で一緒に歩いてもらうのは、こう、気が引けてしまった。
自分が裸なこと自体は自覚していたらしく、そのひとは、細い腰をくいとひねって自分の体を見渡した後、
「それもそうね。じゃあ」
唇に人差し指と中指を置いて、何かを思い浮かべるようにスマートなラインのあごをちょっと上げる。そして、とりゅん、と全身が一度透けた次の瞬間、ふぁさ、と白い布が空気をはらんで舞うと、ゆっくりすとんと落ち着いた。
ストッキングの両脚は、グレーのタイトスカートのスリットから浅い小さなパンプスまで、すらりと長く伸びていて。ふわりと大きなリボンベルトの、瞳の青と似たブラウスに、ゆったり長い白衣を羽織って。女医さんにも、化学か何かの先生にも見えるけど、こんなにおしゃれで、それがぴしっと決まっているのを見たことがない。
「べ、便利なんですね」
と、あさっての方向に感想を述べた私に、
「まーあ、ねっ」
とやけに嬉しそうにそのひとは、とてもゼリーで出来ているとは思えない薄布のリボンベルトを、指先でつまんでひらひら見せびらかした。
バスタブの並んだ部屋の天井近くに、数える気も起きないくらいうじゃうじゃ集まっていたドローンたちを、
「よっ、と!」
とそのひとは軽々ジャンプで捕まえて、
「えいっ!」
と別のドローンにぶつけては、
「痛った! もう!」
と体のどこかを撃たれて怒り、
「てい!」
と別のドローンを踏んで跳んでは、
「おりゃ!」
と床に蹴り落とす。
無邪気にスポーツを楽しむ子供のようなそのひとを、私はあんぐり口を開けたまま見上げて、いや、見とれていた。天井で、壁で、床で、あるいは並んだバスタブに激突して。次から次へと吹っ飛ばされたドローンは、ちょっと煙を吹いてカタカタと動いてから、やがてぴたりと静かになる。
「ほら、先に行ってていいわよ!」
空中でドローンたちと戯れながらそのひとは言うが、
「む、ムリですってこんなの! わあっ!」
そこかしこでドローンが墜落し火花を散らす中を、さすがに走る気にはなれなかった。何度か覚悟を決めて、少しでも安全そうなタイミングを見て飛び出そうとしたが、その度にすぐ近くでぼん、とドローンが煙を吹いて、私を脅かして足止めするのだ。
「んーそっか、しょうがないわね」
天井を埋め尽くしていたドローンが、目に見えて減ってきたあたりで、そのひとはすとんと私の隣に戻ってきて。
私の肩を抱くようにして、白衣で背中を包んでくれたその後、
「はい、走って走って!」
「え、あの、わっ!」
ぐいと前に押し出される力を感じて、私はやむなく足を動かす。背中を押されるまま、肩を抱き寄せられたまま、バスタブの合間をそのひとと一緒に走る。
ぴしゅぴしゅ、ぴしゅんと、水に小石が落ちるような音が連なる。きっとそのひとは頭上のドローンが撃つ何かから、私を守ってくれているんだと気づく。
目の前にぶぉんと回り込んできたドローンにも、
「はいはい、どいて、っと!」
怯むことなくそのひとは、長い脚で優雅にキックをお見舞い。サッカーボールみたいにぽーんと飛んでいって、遠くのバスタブにぼちゃんとゴール。
「……ナイスシュート」
部屋を抜けたあとで私が言うと、
「ね! 今のすごいきれいに入ったわよね!」
ぱあっと笑顔になって、私の肩をゆする。なんだろう、どうしてこのひとは、こんなに生き生きと楽しそうに、きらきらしているんだろう。体がゼリーだからだろうか。
§ § §
「えー! じゃあ私、二十年も寝てたってことなの?」
今が2207年で、ここがリトル・サンディエゴという横浜市の新興衛星都市だと教えると、そのひとは眉をハの字にして嫌がった。
「わかりませんけど、そうなんですか?」
「私が結婚したのがちょうど二一八七年で、その後すぐにこれだもの」
と、また手のひらをとりゅんと透かして見せた。来た時とは違うエレベーターで、さらにかなり下の階らしきボタンを押したそのひとに訊かれて、返した結果がこうだ。
「あの、日本の方なんですか? えっと」
流暢なんてレベルではない、本当にただの日本語の会話が、私とそのひとの間に成立している。それ自体が不思議に思えるほど、そのひとの見た目は日本人離れしていた。
「ジェラルディーン・クリスティーン・
「ジェラルディ……え、すみません、あの」
「すごい韻踏んでるでしょ。母親の
「
「ファーストネームは?」
「え、セイカって言いますけど」
「セイカちゃんね。改めて、ありがとね」
笑いかけられるたび、声が耳を通るたび、この状況の恐怖も緊張感も、溶けて消えていくような感じがした。強くて、きれいで、自称体がゼリーなこと以外本当に普通の、ただの素敵なお姉さんにしか、私の目には見えていなかった。
「えっと、
「ジェリーでいいよ?」
「じゃあ……ジェリーさん。ここ、いったい何なんですか」
そのひと、ジェリーさんは「んーと」とまた宙に目を泳がせて考える。思い出しているのか、言葉をまとめてくれているのだろうか。頭ひとつ高い横顔の、鼻から唇、唇からあごの、どこかのアーティストがひと筆で描いたようなひとつの乱れもないラインを、私はずっと見ていられる気がする。
「ごめんね、正直よくわかんないんだ。私、あの人の研究所にいて、ゼリーにされて、それっきりだから」
あの人、というのが誰の事か、私が知っているはずもなかった。でも、それがジェリーさんにとってただの上司や同僚の類でないことを何となく察した。
「ひょっとして、ジェリーさんのご主人が、この施設を?」
「あら、鋭いわね。そう、
かっこいいでしょ? とジェリーさんは笑ったけれど、眉はまた少しだけハの字に傾いたから、それは惚気というより皮肉に聞こえた。ついでに言えば、その会社の名前がすごいのかどうか、今ひとつ私はわかっていない。
「簡単に言うとね。他の惑星に行くための、めちゃくちゃ長い時間の宇宙旅行ができるように、人間の体を特殊なゼリーに変えちゃおうって研究をしてたの。私も一緒に」
「長い時間旅行? え、それで、旦那さんにゼリーにされちゃったんですか!」
「自分から進んでなったのよ、なってみたかったの。ゼリー第一号のジェリーさん、シャレが効いてるでしょ?」
「え、は、はい。そうですね」
笑いどころなんだろうと気づきはしたけど、それどころじゃない話としか思えなかった。たぶん私が反応に困るのも、織り込み済みで言ったのだろうけど。
「技術者としては純粋にすごいと思ってたから、あの人のこと。でも、やっぱりダメね」
ジェリーさんは気にしたふうもなく、思い出話のように続ける。そして。
「あ。ちょっと耳、貸してくれる?」
不意にこちらを向く。何故だかどきり、と胸の中で何か跳ねる。
「え、なんですか」
そっぽを向くついでに左耳をジェリーさんに見せると、
「じゃなくて、たぶん右耳」
と言われたので、その場で百八十度、後ろに向き直る。すると。
――ちぅ。
いきなり耳から首筋に走ったくすぐったさに、
「ひゃあっ!」
逃げようとした私の強張った肩は、すかさずぐっと掴まれる。そしてジェリーさんは、右耳に唇を押し当てて、ちゅる、と耳の中を吸う。
「はい、おしまい」
と、唇が離れて、終わったと思って油断したところに「ふ」と息を吹きかけられて、「ひゃ!」と首が縮こまる。小さい頃に母親が、膝枕で耳掃除をしてくれた時も、同じいたずらをされた気がした。
何をしたんですか、と訊く前に、右耳の聞こえ方が元に戻っていることに気が付いた。あのバスタブで耳に入った液体が残っていて、ジェリーさんは今それを吸い出してくれたのだろう。と、すると。
「バスタブのゼリーは全部、私の体の一部みたいなもんだから。セイカちゃんの耳に残ってたから、きっとちょうどよく声が届いたのね」
反応が楽しいんだろう、ジェリーさんはにやにやしながら私を見る。
「耳、弱いの?」
「弱いです、くすぐったいのは」
「セイカちゃんのえっち」
「そ、そういうことじゃなくないですか!」
ついムキになって私が言い返したのも、期待通りのリアクションだったみたいで、ジェリーさんはブロンドをふわふわ揺らしてからからと笑う。
耳の奥で鳴っていた、ごうごうという音は消えた。それでも、わずか数秒押し当てられた、張りのあるゼリーのような(実際そうなのだろうけど)唇の冷ややかな感触は、耳にまだしっとりと残っているような気がしていた。
§ § §
「健康でないと、いつか子供を産むときも大変だぞ。ちょっとは運動しろ」
父親にただそれだけ言われただけなのに、
「うるさいな! ほっといてよ!」
と怒鳴って、私は家を飛び出してきた。
他愛のない、悪気もない、親として当たり前のほんの小さな心配を、当たり前に口にしただけだと思う。それでも、男でしかない父親に体のことを、将来のことを、こうと決めつけられて言われたようで、いつにも増して嫌だった。
内緒で応募した、小説の小さな賞を取った。リゾートで始まった、小さな男の子とお姉さんの、小さな恋の終わりの話。三千文字にも満たない、今思い出してみればポエムとも物語ともつかない小説だった。
でも、地元の観光協会の、今シーズンのパンフレットに載った。学校の帰りに駅まで足を伸ばして、何気ないフリでパンフレットをもらいにいって、少し遅く帰って両親に自慢しようとして(もちろん褒めてくれるだろうと思って)、結果このありさまだ。
何かになれるんじゃないかって気が、初めてした。それを、そうじゃない、こうでありなさいと押し付けられたようで、ようやく自分で掴みかけた何かを否定されたみたいで。
「そんなふうになるつもりない、か」
すぐ隣で女のひとの、ジェリーさんの優しい声が、耳と、髪とを撫でてくれた。
「うらやましいわ、あなたのことが」
ちがう。私も、できることなら、あなたみたいに。
§ § §
「ほら、つくわよ」
エレベーターでの少しだけ長い沈黙に、私はうとうととしてしまったらしい。自分が立ったまま、ジェリーさんに体重を、ジェリーさんの胸に頭をもたせかけていたことに気づいて、
「――あ、ご、ごめんなさい!」
と慌てて離れる。
「いいのに、遠慮しなくて。疲れたわよね」
答えに詰まっていると、エレベーターのドアが開く。一歩出た私たちの後ろでぴしゃりと閉まると、ほとんど何も見えない暗闇になった。パネルの明かりもふっと消えて、何かの向こうでか弱く点いたり消えたりしている非常灯だけが、部屋にあるものの輪郭を頼りなく浮き上がらせている。
「ちょっと待ってね」
と、ジェリーさんは言う。陰影の加減で、ジェリーさんが手のひらを壁に這わせながら、長いまつげの目を伏せて、何かじっと考えているようにしているのが見えた。そうしたら、その部屋の明かりがぱっとついた。
「うん。二十年くらいなら、電気の扱いはあんまり変わらないみたいね」
天井を走るパイプや長い蛍光灯、タンクやバルブ、四角いスイッチが並んだパネルを見ながら、ジェリーさんはひとり納得したようにうなずく。空調室とか配電室とかそんな感じの、コンクリートと鉄でできた部屋。もちろん何がどんなものかはわからないが、エレベーターに乗る前にいた場所よりははるかに、私の日常に近い場所のはずだ。「火気厳禁」なんて言葉を見てこんなに安心することが、この先そうそうあるはずがない。
何枚かの重たい防火扉を、「んぎぃ」と二人で押して開けて、進んでいく。カビ臭い暗い非常階段を二階分くらい上がって、滅茶苦茶に交差したちぎれ掛けの「立入禁止」テープを、ジェリーさんが指先ですぱんと切る。体がゼリーって、確かにすごいんだと思う。
「ようやく出てきたみたいね、地上」
太陽の光がさらさらと入ってきているのを感じて、私もうなずく。足元は急に絨毯の床に変わって、白い壁には額縁と木造りのドア。ひと気のない、ちょっとしたホテルのような内装には、砂やほこりがうっすら積もっている。窓の向こうにはヤシだかソテツだか、この街では珍しくない木々が見えて、ほっとしすぎて少し目頭がじわりとした。
「ゴルフ場の地下だったのね、ここ。あの人の考えそうなことだわ」
受付ロビーらしい広間に出て外を見て、ジェリーさんは肩をすくめる。テーブルやソファーは隅の方に乱雑に追いやられていて、閉鎖してからそれなりに時間が経っているとわかる。
「私、土地勘ないからぜんぜんわかんないんだけど。ここ、見覚えある?」
「えっと……」
ところどころ剥がれかけたぼろぼろのテープの隙間から、私は窓の外を見回す。海が見えて、まぶしい太陽はまだ、水平線から人差し指くらいの高さにある。
と。遠くから聞き覚えのある電子音のメロディが聞こえた。
「あ、なんとなくわかりました。学校から駅の反対側に、つぶれちゃったゴルフ場があって、確か海近かったから」
感心した時本当にひゅーう、と口笛を鳴らすひと、初めて見た。
「いいわね、頼もしいじゃない。名探偵ね」
ストレートに褒められて、えへへ、とつい笑みがこぼれてしまう。でもそのすぐ後に、「あ!」と声を上げてしまう。
「学校!」
嫌なことを思い出した。壁の時計を見る。四時。もちろん止まっている。
急に慌て出した私を見て、ジェリーさんはぷっと吹き出した。
「もう、こんな時くらいしょうがないじゃない。宇宙人にさらわれてて遅れました、ってお昼くらいから行けば」
「な、なに人でもいいですけど、そんなの信じてもらえるはずないじゃないですか! っていうかその前に警察、警察行ったほうが……あ、ケータイ、ケータイもないよう」
今さらも今さらだった。カバンもスマホもどこへやってしまったのだろう。どちらもほとんど毎日身に着けていたものなのに、今の今まで思い出さなかった。
「そっか、警察か。んーどうしよっかな、私」
「……あ」
自分のことばかりで頭がいっぱいな自分に気づかされて、私は少し気恥ずかしくなった。ジェリーさんの言うなんとか人と同じくらい、素性を信じてもらえなさそうなひとがここにいる。そして、そのひとは私のことをこうして助けてくれたのだ。あざやかに、かっこよく。
「ごめんなさい」
「ん、大丈夫よお。私、大人だから」
からからと笑うジェリーさんに、じゃあやっぱり私は子供なんだと、改めて思い知らされる。
「じゃ、とりあえずセイカちゃん、おうち送ってく?」
「……カバンもスマホも失くしちゃったから」
「あー、それは帰りたくないわね」
わかるわあ、と頷いてくれて、やっぱりジェリーさんは大人なのだと思わされる。
でも、何故かそれが私には少し、納得が行かなくて。
「じぇ、ジェリーさんはこれからどうするんですか?」
「どうするって?」
「その、住むところ見つけたりしなきゃいけないんだったら、この街のこと教えてあげたりとか……あ、じゃなくて、その前に! け、警察に下の研究所とかの話する時に、私、証言するとかできるんじゃないですか?」
私が出来そうなことを一生懸命考えて、思いつく限り並べ立てる。どれかひとつでもできて、助けてくれたことへのお礼になれば、ただ守ってもらっただけの子供じゃなくなれる。そう思って、私は必死に頭を回した。
んーと、と悩むジェリーさんの顔は、ちょっとだけ困り気味にも見えたけど、私は簡単に退くわけにいかなかった。ここでバイバイなんてしたら、もう二度と会えないひとかもしれない、それこそ今もまだ夢の中にいるだけかもしれないのだ。こんなにきれいで強いひとが、私の近くにいるだなんて。
「んじゃ。ちょっと付き合ってくれる?」
「はい――! あ、えっと、どこにです?」
返事をしてから聞き返してどうするの、と、聞き返してから思う。そして、ひらめいたとばかりにジェリーさんは人差し指をぴんと立てて、
「デート」
「デート」
「うん」
オウム返しの私ににっこりうなずく。
「カバンもスマホもないし、服もそれじゃあこう、犯罪のカンジするじゃない。新しいの買いに行こっか」
ジェリーさんは言いながら、私の穴のあいた制服の袖をつまんでぴらぴら弄ぶ。生地の内側、肌につく部分は体温でそこそこ乾いていたが、襟や袖の少し厚い部分は、まだぽってりと水分を含んでいる。これもひょっとして、ジェリーさんの体の一部ということなのだろうか。
扉を閉ざしていた木の板をジェリーさんがばしんと蹴り割って、私たちはようやく青空の下へ戻ってきた。木々と海と朝日の香りを胸いっぱいに吸い込む。
「ねえ、ファーマーズマーケットってやってる?」
「あ、はい。どこかしら開いてるんじゃないかな……って、なんで知ってるんです」
「サンディエゴって言ったらビーチとショッピングじゃない。朝ごはんもまだだし……あ、オープンサンドのおいしいお店知ってる?」
「え、あの、私スタバくらいしか」
「おっ、じゃあお姉さんがお店の探し方も教えてあげよう。心配いらないわよ、私今日はお金持ちだから」
と、指先にゼリーがとりゅんと集まって、見たことのないコインの形になってくるくる回る。
「で、ついでにちょっと私、行かなきゃいけないとこあるし」
「どこ行くんですか」
私が案内できるところなら一緒に。そう思って聞き返してから、ジェリーさんがわざわざ言葉を濁した理由を考えて、ちょっとだけ、無神経だったかなと思いなおす。
「セイカちゃんも、一緒に来てくれる? 巻き込んじゃって、なんだか悪いけど」
私のことを優しい目で見つめながら、ジェリーさんは指先のコインをぴん、と親指で弾いた。朝の青空にくるくると弧を描いたそれを、私はつい目で追ってしまう。コインは少し向こうのガレージのシャッターにかつんと当たって落ちて、その途端にゼリーに戻ってシャッターの隙間に潜り込んでいった。
がこん、と音がして、ガレージのシャッターがひとりでに開く。
「あの人をやっつけに、ね」
四つ並んだ銀色の目玉に、ちょっとくすんだ赤いボディ。これまた映画でしか見たことないようなクラシックなオープンカーが、お目覚めの時間だとばかりに朝日を受けてきらめいた。
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