ウィドー・イン・ジェリー

トオノキョウジ

2207 : S71 : 23 : 52 : 05

 シーポート・ビレッジ駅のホームから、リニア・トロリーがるるる、と消えていく。降りたのは私以外には、肩を落としてとぼとぼと歩くスーツのおじさんが、三人かそこら。もうあと十分もすれば水曜日になる。

 通学定期の圏外、駅四つ分の乗り越し料金を、スマホのICキャッシュで精算する。そうし終わってから、この時間にこの駅を守永もりながセイカという未成年が通った記録が残ってしまったと気がついて、アリバイ作りって難しいんだなとぼんやり思った。

 改札を出てすぐ目の前で、二十四時間営業の黄色いMの字に根負けしたのか、カフェの緑のバッジがちょうど消えた。


「十六歳未満のお客様には、お売りできない決まりでして」

 レイトショーのチケットは、今さっき私が来るまで、みっともなく口を開けてあくびしてた受付のお兄さんに、丁寧に断られて入れなかった。

「そうなんですか、すみませんでした」

 ぼそぼそと謝るくらいしかできなかった。観損ねた映画は、もう二百年も前から何度もリバイバルされてきたらしい、タイトなスーツのブロンド・レディ三人組のアクションもの。あんな人たちならきっと、文句を言ったりジョークであしらったり、手っ取り早く蹴っ飛ばしたりで、ちょっとしたルールなら思うままに飛び越えてしまうのかもしれないけど。

 自分にそんなことができるはずないと、私はもちろん知っている。この時間に、中学校の制服のまま飛び出してきた浅はかさに、今ようやく気づいたくらいだ。夜遊びのしかたなんて知らない。誰に教わるでも、教わろうとしたわけでもないから。

 がらんとしたロビーで座った丸椅子は、太った白髪の警備員にじろりと睨まれて、途端に座り心地が悪くなった。逃げるように外へ出てきた。それでも、時折やたら車が飛ばすハーバー・ストリートをもう一度渡ってまで、まだむやみに元気な黄色いMの字に駆け込むのは、なんとなく負けな気がして嫌だった。


「どしたの、お嬢さん」

 タクシーがするりと横に停まった。でっぷりと顎の丸い、歳のわかりづらい運転手の男の人が、助手席に手をついてぐいと覗き込んできた。その目は私の制服の襟のあたりしか見ていなくて、わざわざワントーン上げた声は不自然に弾んでいた。

「ダメだよっ、こんな時間にうろうろしてて。おうちまで送ってこうか?」

 結構です、と一言言って、睨むでもなく怯えるでもなく颯爽と去る。でもそんなイメージどおりには私の口は動いてくれず、

「い、いいです。大丈夫です」

「お金ならいいんだよ?」

「すみません」

 またぼそぼそと言う。何が大丈夫で、何がすみませんなのかわからなくなって、視線を合わせないよう逃げた目で、車の入れなさそうな路地を見つけて駆け込む。

 口から独りでに「どうしようかな」とこぼれた。正解はわかりきっている。家に電話をかけて、出たほうの親に迎えに来てもらって、車の中で泣きながらごめんなさいの一言でも言えばいい。きっとそれで今夜だって、家の中で唯一頭が落ち着ける場所、いつもどおりの枕とベッドで寝られる。

 でも、それでいいなら、じゃあどうして私はこんなことを。

 何かしようと思って取り出したスマホを、結局新しいメッセージもスタンプも来ていない画面を見るだけでスリープに戻して、もう一度通学カバンに戻す。また取り出す。家出記録は一時間半、最長タイムを更新中。

 待ち受けの時計がゼロ三つになって、今が普段出歩くことのありえない深夜なのだと実感する。そして、制服の女子中学生が何故深夜に出歩くべきでないか、考え始めたその途端、後ろでがこん、バタン、と音がした。タクシーのドアが開いて閉じた音。

 ぞわ、と、喉の奥で心臓が嫌な角度に跳ねた。ひょっとして怒らせたのかな、それとも勘違いで全然違う車が停まっただけかな。足を止めず左肩越しに振り返ると、あいにくと想像どおり、さっきの顎の肉の運転手だった。

 逃げたほうがいいんだろうと思って、少しずつ足を早め、通学カバンの持ち手を肩にぐっと通し直して、走りだした。でも、どうしようなんて考える間もなく、この路地が立体駐車場の裏の、小さな駐輪場があるだけの袋小路だと知る。かぽん、かぽんとやけに響く足音が近づいてくる。二、三台残った自転車は、どれも地面のロックにがっちり縛りつけられていて、超過料金か何かの赤い数字が不気味に浮き出している。

 今しがた私が曲がってきたその角から、運転手が腹と顔を出した。

「ほらあダメだよ、未成年だろ。補導されちゃうよ、未成年」

 こちらを見て、たるんだほおを緩めて微笑んだ。野良猫でも手懐けるみたいに、ぼってりした両手のひらをこちらに向けて近寄ってくる。じり、と下がったかかとが滑る。側溝の金網。すぐ向こうに灰色のビルの壁。

「あ、あの、ごめんなさ……」

 謝るんじゃなくて叫ばなきゃ、と思っているのに、声の張り方がわからなくなった。親にはあんなに威勢よくタンカを切ってきたのに。

「じゃあほら、おじさんち行こ。ほら、補導なんかされたら大変だろ、進学とか、ね。乗せてってあげるから。ほら」

 性犯罪、という思い出したくない言葉が頭をよぎる。叫ばなきゃ、逃げなきゃと思うほど、手も足も震えて動かない。

 下まぶたの内側が、涙でじわりと熱くなったその時。ふぉん、という音と一緒に、赤くて強い電気の光が目に入り込んだ。

 音と明かりに「なんだこりゃ」と振り返った運転手は、すぐに「おがふ」みたいな変な音を鼻から出して、ずでん、と倒れた。

 その向こう側に、子供の浮輪くらいの小さなドローンが浮いていた。赤い明かりはLEDランプで、まるで何かを探す目のように少し左右に行き来した後、私のほうを向いてぴたりと止まる。

 助かった、と思った。運転手に襲われそうだった私を、善良な誰かがドローンを使って助けてくれたのだ。そんな都合のいい考えに胸をなでおろす間もなく、ちく、と首筋に痛みを感じたと思ったら、すとん、と膝から力が抜けた。

「あっ」

 と間抜けな声が自分の喉から漏れたのが聞こえてすぐに、見えていた何もかもがふっと真っ暗に消えた。

 半分無意識で地面についた手のひらが、じゃり、と痛んだ。



  § § §



「ほら、力を抜いて。入らないわ」

 おなかの下、太ももの内側の付け根、そしてそこの溝の中心にそってぐっと何かを押し当てられる細い圧力から、

「んわあっ!」

 私は反射的に腰をよじって逃れた。そのあたりの空間を無我夢中で払った手のひらに、ぴしり、と誰かの手首が当たった感触がした。

「あら、起きちゃったのね」

 少し年上らしい、落ち着いた響きかたの女の人の声が、すぐ横から聞こえた。うまく動かない頭が、ひょっとしてここが病院で、相手が看護婦さんで、せっかく治療しようとしてくれていた相手にすごく失礼なことをしたんじゃないかと思って、

「あ、す、すみませ……」

 と言いかけて顔を上げると、それも勘違いだったと知った。

「ごめんね。まさか、このタイミングで起きちゃうなんて」

「な、なんですか、なんなんですかこれ! あの、私……!」

 何から確かめるべきかわからなかった。いつのまにか私は、制服を脱がされ裸で寝かされていて。すぐ隣には、まるで今の今まで私に添い寝をしていたように、細い手首で頬杖をついて、ちょっと申し訳なさそうに私に微笑みかける、やっぱり裸の女の人がいて。

「どうして、私、なんでこんなところにいるんですか」

 辿った記憶の突き当たったところに、あのタクシーの運転手の顔が出てきて、ぞっと背筋が寒くなる。だが今いる場所は深夜の街の袋小路ではなく、ピンクに近い紅色の明かりに包まれていて、水の中にいるように、光の網がゆらゆらと波打っている。真っ平らな床が、壁のない四方にどこまでも続いていて、本当にピンクの海か、プールの底にいるようだった。

 ただの夢でなければ、ここがラブホテルという場所なのだ。なんとなく思った。どこでそんな言葉を知ったのかよく覚えていなかった。クラスの耳年増な誰かの口から、否応無しに覚えさせられたのだろう。でも。

「落ち着いて、大丈夫だから」

 やっぱりこれは夢だ、と思った。目の前にいたはずの女の人が、いつの間にか私の背後から胸にするりと手を回し、耳元でそうささやいたからだ。ひっ、と息を飲んだ音を自分で聞いて、その途端に体が強張り、動かせなくなってしまった。

「こういうこと、まだしたことない?」

 形をたどって確かめているかのように、そのひとの左の手のひらが私の左胸を、右の親指がへそのくぼみの周りを、ゆっくりと撫で回す。

 こそばゆさに少し身をよじりながら、わたしは首を左右に一度振る。声のしたほうを恐る恐る横目で見る。つんと高い、筋のきれいな鼻と、しみやくぼみや産毛のないすべすべのほっぺ。

 それから、青い丸い瞳がすぐ間近できらきらしていて、どうしてか顔がぼっと熱くなる。インディゴライト・トルマリンみたいな、いつまでもずっと見ていられそうな、宝石のような。

「そう。でも大丈夫よ。いずれあなたもそうなるんだもの」

 へその周りをなぞっていたそのひとの指は、下腹部の曲線をつつっとなぞってまっすぐに下り、ようやくうっすらと生えてきた私の隠毛をつまんで指先でこすり合わせ、楽しそうに弄んでいる。

「あの、どういうことですか」

 恐る恐る訊いた私に、そのひとは、

「んっと、そうね」

 少し宙に目を泳がせて、言葉を選ぶようなそぶりを見せて、

「自分の体を包んでくれるものに、身を委ねることを覚えるの。気持ちよく。誰しも、いつか」

 そう言って再びそのひとは、指を私の裂け目にぴたりと張り付けて、ぐっと力を込める。

「嫌です!」

 私ももう一度、太ももに力を入れて隙間ができないようぎゅっと閉じ、

「それでも、それでもまだ私、私――」

 そのひとの両腕をがむしゃらに振り払って、

「そんなふうになるつもり、ないもん!」

 後ろにいたそのひとを、両手で思い切り突き飛ばした。

 手のひらがちょうどそのひとの胸を押してしまって、ふるるんとたゆんだのが目に入った。

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