討魔心蔵伝《とうましんぞうでん》

トオノキョウジ

一幕 魔王殿《まおうでん》の火

 これは僕の、心臓の音か。清応きよおはそう気づきました。

 ごうごうぱちぱちと唸る炎のどよめきに混じっているのは、鼓膜を内側から直に叩くかのような、早くて重いおのが鼓動でした。十五の清応よりひとつ年下の文月ふづきの、白衣びゃくえをはだけた素肌の小麦色。それがまるで、燃える炎の芯の色と同じにまぶしく見えて、清応はひと時正気を失い、見とれておりました。

心蔵しんぞう、心蔵っ!」

 炎に向かって繰り返し叫ぶ文月の声に、清応ははっと正気を取り戻しました。薄雪の杉林と夜の闇を、魔王殿を包む炎がこうこうと照らしています。清応が密かに好きだった、三月夜半のしんと冷えた森の空気は、熱風に飲み干され、瞬く間に消えておりました。

 清応は文月を羽交い絞めにして、今にも炎の中に飛び込んでゆきそうな文月を懸命に引き止めます。

「やめろ、何考えてるんだ、文月――わあっ!」

 梁か柱が焼け落ちたのでしょう。炎がごう、とひと際大きく吠え、火の粉をぶわと舞い踊らせました。清応は文月の体をぐいと引っ張り、顔に火の粉が飛ばないようかばってやります。

「誰か……誰か呼んでこなきゃ。お舎那しゃなさまに言わなきゃ!」

 自分たちだけではこの炎をどうしようもないことを、清応は充分にわかっておりました。炎の中にいるのであろう、文月が呼んだその名の者が、今どんな目にあっているのかも。

 ですが、急に文月の体から力ががくん、と抜けたかと思うと、

「だめだ、言わないで」

 文月は今にも泣きだしそうな顔を、ふるふると横に振りました。

「どうして! 中にいるんだよね、心蔵が! それにこのままじゃ、森も伽藍がらんも焼けてしまう」

 清応はつい声をあららげました。炎は今も高々と、闇夜に諸手を伸ばしています。雪に冷えた杉林とて、いつその餌食になるものか。近いところから乾いて燃えて、いずれは寺まで火の手が届いてしまう。それなのに、なぜ。

 自分のきつね色の前髪が火を照り返したまぶしさに、清応はわずかに手をゆるめてしまいました。文月はするりと清応の腕から抜け出しました。しまった、と清応は慌てましたが、文月は炎のほうには駆け出さず、逆に清応のほうに向きなおりました。そして、文月を引き留めようと清応が伸ばした手を、両手で取って握るのです。

 乱れた白衣と露わな素肌に、どうしてか清応は、目が引き付けられます。そこに清応は、いくつかの小さな火傷と、そして火傷とは違う、紅色の小さなあざを見つけます。

「お願いだ、清応。僕がここにいたことは、どうか誰にも言わないで」

 文月に震えた声でそう懇願され、清応は再びはたと正気を取り戻し、自分の目を文月の肌からどうにか引き離すのです。

「どういうことなんだ、文月。まさか、それって……」

 きみが火をつけたということなのか。清応は真っ先にそう思い当たりはしましたが、それを口にしてしまうことは、清応にはどうしてもはばかられました。

「違う、そうじゃないんだ、そうじゃない。でも、言えないんだ」

 文月はすぐに首を横に振ります。ですが、悪い予感やおぞましい邪推は、清応の頭をぐるぐるとめぐります。人気のない夜半。人目を避けるようにここに来ていた、文月と心蔵。目に焼き付いて離れない、まるで口吸いの跡のような肌のあざ。早さを増すばかりの胸の鐘にくらくらしながら、清応は必死に考えました。

 自分を見上げる文月の瞳は、八の字に傾いた細眉の下で、濡れた黒瑪瑙くろめのうのようにきらめいておりました。自分にすがってだんまりを乞う文月の思惑を読み取ろうとするほど、清応の意識は文月の瞳の黒さに、惹きこまれてしまいそうでした。

「わ、わかった。わからないけど、わかったよ」

 それだけ答えて、清応は文月をどうにか引きはがしました。今は炎をどうにかしないと、と。清応はあたりをそわそわと見回し、懸命に考えをめぐらせます。木々に舌を伸ばすように波打ちたゆたう火の粉が、ぱちぱちぱちと清応を急かします。

「文月はとにかく走って。森を大まわりで伽藍に帰って、東司とうすにでももっていればいいよ。僕は誰か、そうだ、鈴経すずつねでも起こして……」

「うん、ごめんよ。清応」

 申し訳なさそうに目を伏せた文月に、清応は自分の喉元あたりになぜかちくりと、ささくれのような痛みを覚えました。ですが今は、それが何の痛みなのか、考えている余裕などありませんでした。

「お舎那さまにどんな言い訳するか、考えといて。さあ、早く」

 清応が文月の背を叩いて送り出そうとした、その時でした。


 しゃるらん、と、高くやわらかな鈴の音が、清応たちの頭の上を渡ってゆきました。


 音のしたほう、ほむら立つ魔王殿を振り返り、二人は見ました。

 それは火の粉でも、灰でもありませんでした。焼け焦げることもなくひゅうと舞い上がり天にのぼってゆくそれは、雪のように白い、半尺はんじゃくほどの一枚の羽根。

 それはひとひら、ふたひら、やがて数え切れぬほどに増えて連なり、うずを描いて薄雲の夜空をのぼってゆきます。

「あの羽根、やっぱり心蔵の」

 文月が呼び続けていたその名を、清応もまた口にしました。文月はくいと目を背け、森の中をがむしゃらに駆けてゆきました。

 しゃらん、しゃるらん。

 不可思議な鈴の音を伴って、いつまでも途切れることなくのぼってゆく、白い羽根のらせん。それを見上げて立ち尽くしながら、清応は悟ったのでした。

 ああ、心蔵は本当に死んだのだな、と。

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