#8 母さんを探して


 フィーニ邸の構造は、例えるなら出来の悪い蜘蛛の巣に似ている。フレスガノンの端っこから陣取りゲームのような直線的な廊下が延び、その廊下から更に別の廊下がおかしな角度に延び、さらにその廊下から別の階段が延び、また別の廊下へと繋がっている。おそろしく広く、そして建物とは思えない不規則な角度で全ての廊下が繋がっている。各々の部屋などは廊下の付属品のようにくっついていて、三角形や五角形以上の多角部屋も珍しくない。むしろ綺麗な長方形をしている部屋は数えるほどしかなく、一番古くからあった父さんの部屋の周辺だけ。

 「山の斜面を行く農道の方がまだ整ってるわよ」とは、農夫の家の出であるアーシャ母さんの感想。彼女はこの国ではなく大陸の山岳地方の出である。幼い頃から慣らされた方向感覚のおかげで迷子になるような事はなかったものの、やって来て最初にマッピングの為の紙と船から引っぺがした方位磁石を持って、屋敷中をくまなく探索して回ったそうだ。それ程に屋敷の構造は複雑怪奇で、ハスア母さんに至っては毎日のように迷子になる。

 それもこれも、新しい母さんがやってくる度、あるいは新しい子供が増えて屋敷が手狭になる度に増築を重ねた結果だ。最初は小さかった屋敷も、まるで周りの家々を呑み込んでいくように大きくなり、やがてフレスガノンで一番大きな建造物となった。

 街へ初めてやって来た来訪者は、決まってこの異様な外観の屋敷を指さして「あれは何か?」と尋ねてくる。案内役は「怪物たちを閉じこめた迷宮だ」とふざけ半分で説明するのだが、来訪者は何故かその説明に納得し、「ではフィーニの邸宅は何処か?」と改めて尋ねてくる。しかし案内役が指さすのは例の“迷宮”。「世間一般じゃあ怪物と一緒だろ」というのが案内役の弁。来訪者はこれまた何故か大いに納得して街の見物を始めるが、その案内役はその日の内に“怪物”のうちの誰か(主にイサリア母さんかウィノン母さん)からこってりと絞られる。そんな案内が一部で定例化するほどに、邸宅はフレスガノンの名物として親しまれていた。もっとも、件の怪物の頭目は閉じ込められてなどおらず、留守にしていることの方が多いのだが。

 そんな増殖する天然?の迷路構造は、子供達にとっては最高の遊び場だ。俺も昨日まではこの屋敷を疎ましく思った事など無かったのだが……

「あー!もう! ちくしょうっ!」

 クラレリア母さんの部屋はあまりにも遠かった。しかも、度々出くわす亡霊のせいで、その部屋に向かったルアンが、一体どういう道順を通っているのかさっぱり予想できない。あまり時間をかけてもいられないというのに、俺は仕方なく途中脇道を覗き込んでは人影を探すのだが、次から次へと現れる亡霊のせいでこれもままならなかった。

 現れる亡霊達はまとまりなど一切無い。ナイフを持った老貴族や美しい婦人、何故か怯えた様子の料理人や下働き風の男もいた。およそ荒事には慣れた動きではなかったので見切るのは容易だ。しかし、最も多く出現した兵士の姿をした者達は明らかに戦闘慣れしていた。壁も天井も関係無しに長物を振り回し、編隊を組んで襲いかかってきた。俺にとって幸いだったのは、こちらの剣が先に届きさえすれば、浅くとも深くとも例え致命傷にはなり得ない箇所であっても、何もなかったかのように消えてくれる事だ。コツさえ分かれば、相手が攻撃を仕掛ける一瞬の隙に消してしまうこともできた。その特徴を利用すれば俺でも容易に突破できた。とはいえ……その数はあまりにも多すぎる。

 ルアンもクラレリア母さんも、早く見つけなければ。そんな気持ちがいくら急いても、二人の姿は何処にも無い。そしてとうとう、クラレリア母さんの部屋へと辿り着いてしまった。

 半開きになっていたドアを蹴り空け、中へ踏み込み、直ぐさま目に飛び込んできた亡霊どもを斬った。改めて部屋の中を見回す。俺が斬った二体の他に、兵士ばかり八人もの亡霊達が各々バラバラの武器を持って部屋の中心へと詰め寄っていた。

[さぁ、おとなしくそれを渡せ]

[その指輪を]

 亡霊達の声。またもや指輪だ。その取り囲む先には、探していた一人……ただし、部屋の主のクラレリア母さんではなく、ルアンだけ。両手に余るような長い箒を振り回して、近寄る亡霊達を威嚇していた。しかしあれだけの数に詰め寄られては身動きが取れないだろう。

「来ないで……! あんた達なんて、身体もない幻なんだから! 居なくなりなさい!」

 半泣きの声は、目の前の亡霊兵士だけではなく、自分の胸に湧き上がるどうしようもない恐怖とも戦っていた。目をつむって箒を振り回しても、箒は兵士の身体をすり抜けるだけ。剣で切られた時には消えたのに、ルアンが箒をぶつけても消えなかった。今ルアンを取り囲む兵士は彼女を見逃すまいと決めたかのように、そこに留まり続け、取り囲む輪をじりじりと狭めて行く。

「ルアン!」

「居なくなれ…! 居なくなれ……っ!」

 ルアンに俺の声は聞こえていないようだった。

 振り回した勢いで箒が手から抜け、兵士達を通り抜けて壁まで飛んでいった。しかし亡霊は消えない。

 ルアンはそれでも、手を一杯に広げて叫び続けた。


「燃えて無くなれ―――――ッッ!」


 その声を、誰かが聞き届けたのだろうか?

 窓さえない部屋が、一瞬だけランプが灯ったかのように明るくなった。

 その灯りは、瞬きよりも短い一瞬の間に一気に燃え上がり、彼女を囲んでいた亡霊達へと燃え移り、やがて白い光となって消えていった。後には何もない。亡霊達も、燃え落ちた火も煤も無い。息を荒くしたルアンだけがそこに残った。何が起きたのか分からないといった様子で、へたり込んだまま、まん丸な目を見開いている。目の前に立つ俺にすら目に入っていないようだった。

「ルアン!」

 今度こそ、俺はその名を呼んだ。するとルアンはびくんと肩を震わせ、ようやく俺の顔を見上げた。

「ファロン……私……」

 悲鳴のように裏返った声が、縋り付くように呼び掛けてきた。「何が起きたの? あの幽霊達はどうして消えたの?」と聞くように。けど、分からないのは俺も同じ。まるで魔法のようだった。

 俺はルアンを見つめた。まさかと思う。

 魔法使いが決して御伽噺ではないことはよく言われていることだけど、見たことなど一度もない。聞いた話では、魔法は素質がある人間が何年も修練してようやく使えるようになるものだという。ルアンのような小さな子が使える筈もない。


「無事か? ルアン……」

「誰も助けてくれなんて頼んでないわ。何で来たのよ……!」

 震える声で俺を拒絶する。……異母兄弟の手なんか絶対に借りたくない……そんな強がりばかりは立派だが。俺はそんな言葉は聞かずにルアンの直ぐ側に駆け寄った。

「クラレリア母さんは?」

「私が来たときにはもういなかった」

 横目で部屋のベッドへと目をやるが、直ぐ直前まで寝ていた跡はあっても本人の姿は何処にもない。

「じゃあ避難したのか」

「そんなわけないわ。ここは母屋から遠過ぎるのに」

 話している内に、何処からともなく二体の亡霊が湧いて出た。丁度彼らを斬って消えていくのとは逆に。どうやら奴らには廊下とか部屋とか、壁とかドアとか、そういった概念すら無いらしい。何処にでも、いくらでも湧いて出てくる。

「じゃあ、早く見つけないと」

 俺達はあっという間に囲まれてしまった。ますますクラレリア母さんが心配だ。あの人はイサリア母さんのように戦える人ではない。

「母さんは私が連れて行く。ファロンはひとりで逃げて」

 そう言ってルアンは強引に亡霊達の囲いに向かって駆け出した。

「やめろ、馬鹿!」

 叫んでも遅い。ルアンの身体は既に、三体の亡霊達を突き破って部屋の外へと転がり出た。俺は自分の背後から襲いかかろうとしていた一体を斬ると、ルアンが向かった三体へと跳んだ。彼らは今正に手に持った槍をルアンに向けて突き出そうとしている。

「くそっ!」

 槍と槍の間のほんの僅かな隙間に身体を滑らせ、剣で一閃した。二体が消えたが、一体が残った。そして、肩にはっきりとした痛みはしる。僅かにかすったようだ。直ぐ脇には残った一体が槍を突き出そうとしていた。今度は避けられそうにない。俺は痛みに耐える覚悟を決め、バランスを崩したままの身体にそのままの勢いを乗せて剣を払った。三体目も消滅。そして今度は額に痛み。数滴の血が床の上に落ちた。

 しかし休んでなんかいられない。俺は直ぐさまルアンの後を追って廊下へと走った。

 そのルアンは、今まさに隣の部屋を見終えて廊下へと飛び出して来た所だった。

「いない……! なら台所……いえ、エルシエラの部屋の方が近いから」

 ぶつぶつと何やら口にする内容は、母さんが何処へ行ったのかを推測しようとしていた。

 クラレリア母さんの思考はともかく、行動は比較的読み易い。俺よりも観察眼が鋭く、いつも特別な目でクラレリア母さんを見ていたルアンなら、行動に移す間もなく自然と頭に浮かんでいただろう。

 しかし今のルアンは普段の冷静さを完全に無くしていた。そんなんじゃ見つかるものも見つからない。

「ルアン! 言うことを聞け!」

「アンタに構ってなんかいられないの!」

「なんでそんなに焦ってるんだ!」

 しかしルアンは聞き入れようとはしない。俺を無視してさらに奥の方へと走って行く。

「ええい! くそっ!」

 俺も急いでその後を追った。体格差があるから、ルアンには直ぐに追いつける筈だったが、途中兵士達に出くわすと体格差のハンデは逆転する。ルアンが彼らの虚を突ければ、そのまますり抜けて行ってしまえるが、ルアンを見失った彼らは俺へと標的を定めてきた。俺はいちいち真っ正面から相手しなければならなかったし、ルアンを狙っている亡霊には先手を仕掛けなければならなかった。ひたすら驀進するルアンとの距離はなかなか縮まらない。しかしそのルアンも、脇目もふらずに走ってきたのがとうとう災いした。脇道から突然現れた兵士に驚いて体勢を崩したのだ。

 例えばこれがオルカなら、壁を蹴りながらでも簡単に取り戻せただろう。しかし、ルアンではそうはいかない。何しろ何もないところでも頻繁に転べるくらい運動が苦手なのだから、驚いただけでも身体は崩れ落ちる。兵士はその隙を狙うように握っていた剣を突きの姿勢で引き絞っていた。

「だから言わんこっちゃないっ!」

 今から兵士を倒しに行ったのでは間に合わないかもしれない微妙な距離。俺は直ぐさま判断を切り替え、持っていた剣を投げ捨て、今も足がもつれたままでいるルアンにスライディングキックをぶちかました。

「え? きゃあああ!」

 スライディングに気付かなかったルアンが悲鳴を上げたが、俺自身はそんな事に構ってはいられなかった。兵士の剣を避けるのには間に合わなかったのだ。

「っ!」

 左の二の腕に鋭い痛みが走る。喉まで出かかった悲鳴をかみ殺した。情けない声を妹には聞かれたくない。

 俺はそのままの勢いで身体を起こし、ルアンを両腕に抱えると、出会った兵士は無視して走り出した。左腕がズキっと痛んだが、それも最初だけだ。直ぐにどう抱き上げればいいかのコツを掴んだ。

「もっと優しい方法はなかったの? 蹴り飛ばすなんてあんまりだわ」

「それしかなかったんだ。我慢しろ」

「だいたい、来るなって言ったじゃない」

「いい加減おかしな意地はやめろ。置いて逃げるわけにはいかないだろう。お前も母さんも助けるから」

「……そうやって怪我したくせに、人の心配してるんじゃないわよ……!」

 抗議するルアンの声は、泣きそうだった。亡霊が怖くて、母さんが心配で、一人では心細くて、今にも潰れてしまいそうなのに、それを必死に我慢していたのだろう。


 ルアンの気持ちなんて、俺には分からない。これでも兄なのに、察してやることしかできない。何かの経験がルアンの感情を生み出しているのなら、この小さな少女の感情など、俺には分かりっこない。それはきっとルアン以外には永遠に分からないのだろう。だから……というにはおかしいかもしれないけど、「どうしてクラレリア母さんにこだわる?」とか「どうして血の繋がらない家族を信じられない?」とか、そんな事を問い詰める意味はないような気がした。

「エルシエラ母さんの部屋に行くんだな?」

「ええ、そうよ。そこに母さんが居るかもしれない」

「そこに居なかったら、おとなしく俺の言うことを聞くな?」

「―――――――――――」

 ルアンは何も言わなかった。俯いて、何やら考え込んでしまったようだ。……それでもいい。少しでも冷静になれば、ルアンは直ぐにクラレリア母さんを見つけられる筈だから。

 亡霊達には強引に素通りしている。さっきルアンが仕掛けていた方法だ。虚を突きさえすれば、いちいち消して行く必要もない。

 やがて、廊下も中程を過ぎた頃、ルアンが口を開いた。

「降ろして」

「え?」

「怪我した腕じゃあ重いでしょ。私は走れるわ。大丈夫よ、もう一人で先に行ったりなんてしないから」

 暗く落ち込んだ彼女の声に少し躊躇したが、俺はその言葉を信じることにした。腕がきつくなっていたのも確かだ。

「……ファロンには心当たりがあるんでしょ。そこへ行きましょ」

 床に降りてルアンが言ったのは、ちょっと信じられないような言葉だった。俺は最初その意味を汲み取れなかった。

「エルシエラの所にはいない。ファロンには分かってるんでしょう? いいわ、そんな所に行く必要なんて無いから」

 ルアンの表情は不機嫌で、そしてなんだかとても悲しそうだった。



 クラレリア母さんの居場所の根拠……というには、それは決して難しいものではない。ある出来事に由来する。

 リトラが生まれる少し前、少し強い地震があった。地震それ自体は棚から皿が落ちる程度の被害で終わったのだけど、フレスガノンは海に面した港町だから、地震よりもその後にやって来る津波に特に気を配らなければならない。フィーニ邸も比較的高い位置にあるとはいえ、海に面しているので避難は徹底されている。

 災害の時や、今夜みたいな不測の事態に陥った時、この三十人を越える大所帯の指揮はイサリア母さんが執ることになる。とある海賊団の元女首領。その人選には誰もが納得するところであろう。特に彼女の場合、人を使うのがうまい。ダイラ兄やカイリンガ姉、アルゲイド兄やベアフォーリ兄達に指示を出し、病人や小さな子供達から順に全員を避難させる。

 あの時もそのようにした。全員が街全体を見渡せる砦の上に集まった。俺が辿り着いた時、背の低い津波が大路を浸食していくところだった。高いところから見れば、急に満ち潮が起きただけの光景。子供心にはむしろ面白いくらいだったのをよく覚えている。

「全員いるか? 子供達はみんな並ぶんだ。数を数えるからな」

 しかし、張りつめた声でイサリア母さんがそう言った時、場違いな子供心は現実に引き戻された。決して楽しんでいい状況なんかじゃないんだと。その雰囲気を、他の子供達も感じたらしい。

「イサリア母さん、なんだか怖い」

 エランダが隣でそう呟くのが聞こえたかと思うと、この砦の上に子供の泣き声が響き渡った。オルカだ。この時はまだ四歳か五歳。兄弟で一番小さかったのだから、母さんの内の誰かに手を引かれてやって来た筈だ。この時彼の手を握り直ぐさま落ち着かせたのは、他でもないクラレリア母さんだった。

「よしよし。怖かったのよね。もう大丈夫。イサリア母さんも、もう叫んだりしないから」

 これを聞いたイサリア母さんはぎょっとして、終始ばつが悪そうにしていたが、周りはようやく和やかになってくれた。フィーニにおいては、叱った母親のフォローを別の母親がするというのはよくある光景。

 だけどあの時の俺には、どうしてかクラレリア母さんが不思議な人のように思えてならなかった。

 別にオルカと一緒にいたことが分からなかったわけではない。何かあったとき、幼い子供達を真っ先に守るのが母さん達だった。だから、その母さんがたまたまクラレリア母さんだとしても、決しておかしくはないのだけど……

「男の子のくせに、情けない!」

 オルカの隣で怒った調子で言い捨てるのはルアン。そうは言いながらも、彼女自身クラレリア母さんの服の裾を握ったまま離さないでいた。そんなルアンの身体を、クラレリア母さんは抱き寄せ、こう言った。

「ルアンはお姉ちゃんなんだから、怖いの平気よね。だから怒鳴っちゃ駄目よ。あなたが怖いのが、オルカにも伝わっちゃうから」

 この時の疑問の答えはクラレリア母さんの性格を考えれば直ぐに思いつく。でも、確信に変わるにはもう少しの時間を要した。



「……じゃあ、母さんはオルカと一緒にいるっていうの?」

 その時の出来事を話すとルアンの声が明らかに不機嫌になった。俺は何だかそれがおかしくて、ふっと笑った。

「それじゃあ本当に接点が無い」

「む……じゃあ、何なのよ」

「最後まで聞けってば。クラレリア母さんは、ああいう時だって誰よりも冷静だったんだ。それこそ、子供達の様子を見ていられるほどに、な」

 クラレリア母さんの子供好きは有名だ。暇さえあれば小さな子供達の相手をしている。俺はいつか、あの人の壊れた心は子供としか釣り合わないからだ、なんて考えていた。だけどそれは違う。確かにあの人の心は壊れているのかもしれない。あの津波の時でも辺りの緊張を理解する事はなかった。もしかしたら、今この時自分が命の危機に晒されていたとしても、母さんの心は恐怖さえ感じていないのかもしれない。

 だけどクラレリア母さんの“それ”は、本来とても素敵な事なのだ。


「……リトラがいる部屋」

 隣を行くルアンは躊躇いがちにそう答えた。ここまでなら勘でも分かる。子供が好きだから、一番小さな子供を迎えに行くはずだ、と。

 俺は否定も肯定もしなかった。確かに、クラレリア母さんはリトラの所に行った筈だから。

 だけどルアンには……クラレリア母さんを誰よりも強く想うこの妹には、もう少し母さんの事を理解して欲しかった。だからわざと遠回しな言い方をしてきたのだけど……

「……私の所には来てくれないのね」

 予想通り、ルアンは少し不満げだ。

 そうしている内に、リトラの部屋に辿り着いた。俺は扉を開けてみたが、中には貴族姿の亡霊がいるだけで誰もいない。亡霊もここに来て随分と数が増えているように思う。しかし、二つあるベッドはどちらも空っぽだ。一つはリトラの、もう一つはエランダのベッドだ。フィーニの伝統で小さな子供達は、面倒を見れる年で一番若く、同性の兄弟姉妹が同室になる。ルアンではまだ幼過ぎたため、エランダがリトラの同室となった。ちなみにルアンはカイリンガ姉と同室で、エランダもリトラが生まれるまではインファリア姉さんと同室だ。そのせいでインファリア姉は掃除やら洗濯やらの身の回りの事には疎く、エランダは何でもできて口うるさくなったのだろうと、母親達の間で噂されている。

 俺は念の為に部屋の中を見回した。部屋のクローゼットも調べてみる必要があったが、この部屋のそこは既に開け放たれており、中に入るまでもなかった。やはりリトラの姿はない。エランダも同様だ。二人とももう逃げたか、あるいは……

「エランダは何処に行ったのよ!」

「分からない。リトラと一緒に避難したのかもしれないけど、ひょっとしたら、他の誰かに言われてもう避難したのかもしれない」

「変な言い方するわね。エランダがリトラを置いて行ったっていうの?」

「異変に気付いた時にはリトラが側にいなかったんだろ」

「……何でそんな事が分かるのよ」

「まだ分からないよ。それでも不自然じゃないってだけだ」

 家事の手伝いとなるとあちこちから頼りにされているエランダは、普通に忙しい。リトラも最近は少しずつ外のことに興味を持ち始めている。目を離さないようにはしているようだが、常に一緒に居られるわけではない。

 俺は部屋を出た。そして、廊下を見回して方向を確かめると直ぐに走り出した。ルアンも後から付いてくる。勿論亡霊はできるだけ無視するが、数が多くなるにつれてやむなく相手にしなければならない時も出てきた。俺は途中で拾っておいた長棹を使って、手早くそいつらを消していった。

「ねぇ、ファロン! 亡霊達、どんどん多くなってない?」

「ああ、多い方に向かってるからな」

「!? 何でよ!?」

「そこにきっと元凶がいる。うまく言えないんだけど……ひょっとしたら、母さんはそっちに行ったのかもしれない」

 ルアンが顔をしかめた。「何を言っているの!?」と言いたげに。

「思い出しなよ。クラレリア母さんは、津波の時には君の手だって引いていただろう?」

「…………」

「あの時だって、母さんはオルカとルアンを迎えに行ったんだ。オルカだけじゃない。君も放っておけなかった。そして、今は二人とも大きくなった。君もオルカも怖いもの無しだ」

「だから、何なのよ! さっさと教えなさい。要点だけで十分だわ」

 やれやれ……俺は息をついた。ここらが潮時か。本当はルアンに自力で理解して欲しかったのだけど。……案外、近くにいるから気付かない事もあるのかもしれない。俺がエランダの一面を知らなかったように。

「クラレリア母さんはきっと、人の感情にすごく敏感なんだ。あるいは心が読めるとか、そのくらい子供達が感じている事を理解できるんだと思う。しかも、目に見える距離にいなくたってそれが分かる。だからこそ、津波の時も一番に君やオルカを迎えに行けた」

「……そんな事があり得るの? 偶然かもしれないじゃない。たまたま、私とオルカを見つけて……」

 そこで、ルアンは言葉を止めた。その不自然さに気が付いたのだろう。俺は、ルアンが確信を持てずにいる考えを肯定しながら続けた。

「君とオルカが一緒に居たなんて話、今まで一度だって聞いたことがない。こんなに小さい時から、君にとって一番相性悪いのがオルカだろ? なのに母さんは君もオルカもちゃんと見つけられたんだ」

 いつだってクラレリア母さんは一番幼い子供の側にいた。まるで彼らを守る天使のように。

 幸いフィーニは子供だってやんちゃ揃い。そんな中で育つ子供達はみな早熟で、ルアンもオルカもこういう事にいちいち恐怖を覚えなくなった。今の子供達で恐がりなのはリトラだけだ。

「クラレリア母さんは、何処かで子供が不安になったり、怖がったりしていたら、それが分かるんだ。理屈は俺にも分からないよ。だけどもし心の声とか感情とか、この状況でそういうのが聞こえてくるなら、母さんの性格なら……」

「必ず助けに行くでしょうね」

 ようやくルアンの実感した表情を向けてくれた。けど、それも束の間、もっと大変な事に気が付いて直ぐにその表情がみるみる青ざめていく。

「ちょっと待って! ファロン、さっきあなた『亡霊達が多い方に向かってる』って……」

「そう。もし一番恐怖を感じている人間がいるとしたらその辺りだよ。元凶のいちばん側だ。リトラがそこに向かったかどうか分からないけど、最悪な可能性から潰していく。……今日はやけに嫌な予感がするんだ」

 願わくば、リトラはエランダと避難していて欲しい。だけど、その可能性は低いような気がした。もしそうであったなら、クラレリア母さんが屋敷に残る事もなかった筈だ。ここまでルアンが騒ぐようなこともなかった。

「何のんびり説明してるのよ! あなたの予想通りなら、母さんはその中に入って行ったってことじゃない!」

「リトラもだ、ルアン」

「尚更よっ! この馬鹿!」

 ルアンの怒鳴り声が、屋敷中に響き渡った。


 いつもは誰も母と呼ばずに気持ちを抑えていたルアンが、すっかりその取り繕いを忘れている。こういう時は、指摘しないでおくのがいいだろう。実際、彼女がクラレリア母さんを「母さん」と呼ぶ事其れ自体は、何ら咎めるようなことではないのだから。


 通路の先の亡霊達はどんどんその数を増して、いまや通路の奥まで並んで見える程だ。一人を抜けたら次の一人は確実に相手をしなければならない。それも、一発で消せなければ後ろが追いついて来る。

「くそっ! 一体何処から湧いてくるんだ! コイツら……!」

 密度があるのだから、中心には元凶がある筈なのだが……

「ファロン、待って! …………聞こえた!」

 その時、ルアンが分かれた通路の奥を指さした。

「あっちよ!」

 その奥へ走ると、やがて微かにではあるが俺にも聞こえてきた。

 それは、クラレリア母さんの美しい歌声だった。

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