散髪

鹿ノ杜

散髪

「おにいさん、どこかかゆいところはありませんか」

 彼は、いつものタイミングで僕にたずねる。髪を人肌の温度のお湯で流しはじめ、ちょうど後頭部にさしかかるあたりで。

「ありません」

「何か、ご要望はありませんか」と、これもいつものタイミング。目を閉じていてもわかる、彼は人好きのする笑みを浮かべている。

「だいじょうぶだよ」と、僕もいつものように答える。

 席を移動して、ドライヤーで軽くかわかした後で、僕の髪に彼のハサミが入っていく。

「ずいぶん、伸びましたね、おにいさん」

 鏡越しに目が合って、幼さが残る彼の細い目が、すっと、さらに細くなる。

 小気味いいハサミのリズムで、髪のあいだに空気が入って少しずつ軽くなっていく感覚。店内にかかるBGM、インストのジャズと、嗅ぎなれない、でもいいにおいのするシャンプーやトリートメントを気に入っている。

 半年前から通い始めて、そのたびに彼を指名している。僕のことを「おにいさん」と呼ぶ彼。

 本当なら、彼の姉との結婚式を翌週に控えた僕のことは「お義兄さん」というのだろうけど、彼が呼ぶと「おにいさん」と確かに聞こえる。

 僕の恋人に、いや、入籍を済ませたから、妻に、彼の美容室に通い始めたことを伝えると、彼女は明るく笑った。歳の離れた弟でね、ちっちゃい頃はわたしにべったりだったんだから。そっか、お姉ちゃん子だったんだ。そうかも。じゃあ、僕はお姉ちゃんを盗ったやつだ。

「きっと、そうは思わないよ」

「そう?」

「そうだよ、わたしの弟は、いいやつだからね」

 鏡越しに、また彼と目が合って、「いよいよ、来週ですね」と彼が言う。「そうだね」と答えた後に、彼の目が光るのを見た。鼻まですすり始めたから、「え、ちょっと、泣いてんの?」と僕はあわててしまう。

「泣いてなんか、ないっすよ」

 そう言いつつも、彼の手は止まってしまう。向こうを向いてしまった彼に、「何か、ご要望はありませんか」とたずねる。彼は驚いたように僕を見る。

「だいじょうぶです」

「おねえさんのこと、しあわせにするからね」

「はい、それはもちろん、わかってます」

 僕のおとうとは、姉に似た笑顔で明るく笑った。

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散髪 鹿ノ杜 @shikanomori

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