その空は蒼穹で

KaZuKiNa

プロローグ かくして彼は転生を果たした

 「榊原さかきばらさん、凄いわよねー」

 「仕事をやらせたらウチ精密加工でもナンバーワン、けど……あれじゃあねえ?」


 西暦202X年日本大阪の下町にある工場に勤める男がいた。

 彼の名は榊原裕也さかきばらゆうや、その見てくれはまるで人間とは見てもらえない酷い物だった。

 よわい51歳になった裕也は肥満体型で、顔のバランスはまるでカエルのよう。

 とある小説を知っていれば、インスマウスの住人という言葉が適切かもしれない。 


 毎日が陰口、彼の人生はそんな物だった。

 ロクな人生は彼を待ってはいなかったし、それはこれからも変わらないだろう。

 陰湿なイジメ恫喝カツアゲ、若い頃にこれら全てを経験したし、大学受験は失敗し、友人さえ出来た事はない。


 ただ……無味乾燥した人生に何もかもを擦り減らせた。

 ――それだけだった。


 「お先上がります」


 裕也はボソッとそう言うと、静かに更衣室に向かった。

 粉塵防止用マスクを取り外すと、そのカエル顔に女性職員の「ヒッ!」という悲鳴が聞こえたが、彼はそれを一瞥もせず無視した。


 「気持ち悪いわあ、あれが社長でも付き合うなんて無理」

 「可哀相な人だよな、変なDNAでも混じってんのか?」


 無視だ、無視し続ける。

 同情哀れみも惨めになるだけだった。

 やがて裕也は更衣室の前に辿り着く、けれど……その視線は更衣室ではなく共用トイレに向けていた。

 着替える前に尿意を催したのだろう、彼は迷わず男子トイレに向かった。


 ガチャリ。


 入口の扉を開くと、冷気が立ち込めた。

 肌寒い冷気に裕也は身震いする――だが、その時彼の眼の前は真っ白になった。

 違う――、視界じゃない。世界が漂白されたように真っ白になったのだ。


 裕也は慌てて周囲を見渡した、ここはトイレじゃない。

 なにが起きたのか理解出来ないその時、『声』は世界に響き渡った。


 「榊原裕也さん……ですね?」

 「え? 誰?」


 裕也は顔を上げた。

 光の中から女神が降臨したのだ。


 「初めまして私はエーテル、貴方には映っているのでしょうか?」


 エーテルと名乗る女神は優しく微笑んだ。

 蒼穹の髪を揺らし、純白の天女の羽衣でも纏ったかのような、妖艶な女神の美貌は、あまりに隔絶していた。

 裕也は顔を赤くすると、パクパクと金魚のように口を動かした。

 極度のコミュ障の裕也は速攻でテンパったのだ。

 そんなどうしようもない様子を見た女神エーテルは、大人っぽく微笑むと彼にある事を告げる。


 「貴方にはとても哀しい事をお伝えしなければなりません」

 「……え?」


 浮遊する超異能存在は、手を払うと裕也の眼の前にある映像を見せた。

 それを見た裕也は思わずゾッと背筋が凍るように、その場で腰から崩れ落ちた。


 「ヒイ!? お、俺!?」


 映像に映っていたのは、目を開いたまま倒れた自分の映像だった。

 女神は手を合わせ、哀悼の意を捧げるように彼に宣告した。


 「心臓麻痺です。長年の不摂生が祟ったのです。寒暖差に当てられたショックで、貴方はトイレの入口で死にました。お気の毒に」


 酷く無慈悲なようにも聞こえる宣告だった。

 死を告げられた裕也はガクガクと震えたが、やがて受けいれたのか落ち着くと俯いた。


 「そう、か……死んだんだ」


 そんな裕也を慈しむように女神は彼の前に降り立つと、手を差し出した。


 「貴方を必要とする世界があります」

 「え?」


 裕也は顔を上げると、女神ははにかんだ。

 女神はあくまでも優しく裕也を差別する事もなく、問いかける。


 「選択は貴方次第ですが、勿論貴方が私の招待に応じて頂けるならば、相応のご支援をさせて頂きます。無論拒否されても構いません」

 「きょ、拒否したら……どうなるん、ですか?」


 恐る恐る、そんな萎縮した裕也に女神はクスリと微笑み、真摯に答えた。


 「あるべき世界に魂を返します」

 「………っ」


 裕也はどうするべきか、迷っていた。

 彼の人生は負け組の悲惨さを濃縮した物だった。

 この世に希望を見出した事はなく――いや、あるにはあったか。


 裕也の脳裏に過ぎったのは、この世でたった一つの希望、それは荒唐無稽だがテレビの中のヒーローだった。

 自分もこんな風になりたい、誰かの為になりたい。

 幼少の頃に他愛もない夢に過ぎなかったが、彼が大好きだったのは確かである。


 「お、俺……俺、誰かの役に立てる、で、でしょう、か?」


 その時女神エーテルは彼の目線が始めて自分を直視している事に気づいた。

 女神はずっと彼に手を差し伸べている。女神の手は白くシミ一つないこの世の完璧だった。

 裕也はゴクリと喉を鳴らす。


 「ええ、勿論。貴方はヒーローにだってなれます」


 そう言い切った。

 裕也は興奮していた、バクバクと心臓を高鳴らせ、女神に裏返った声で懇願する。


 「お、俺! 頑張りましゅ!」


 女神はクスリと微笑むと、あくまでも母のような優しい眼差しを裕也に向けた。

 裕也は女神エーテルの求めに応じたのだ。


 恐る恐る、裕也は視線を女神の手に向けた。

 ずっと差し伸べられた手に、彼は確かな意思で掴んだのだ。


 「ありがとうございます。女神の加護を――」


 裕也の視界が再び光に染まっていった。

 女神の声だけが、薄れゆく裕也に響いた。


 「――ようこそ、エーデル・アストリアへ」

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