第2話 侯爵夫人となった者の生活

 夢を見ていた。


 悪い夢だ。


 お兄ちゃんが戦場で亡くなって、私が一人残されるという酷く悲しい夢だ。


 暗闇の方へと、吸い込まれていくように歩いていくお兄ちゃんの広い背中が見えた。


 何処へ向かっているのか。


 振り返らずに。


 私は一生懸命にお兄ちゃんを呼んだのに、こっちには気付いてくれない。


 追いかけようとしても、足がどんどん泥の中に沈んでいって、ついには腰まで埋まってしまって、身動きが取れなくなって、そこでお兄ちゃんをただ呼ぶことしかできなかった。


 泣いて、呼ぶことしかできなかった。


 幼い頃は、私が泣くとすぐにお兄ちゃんが来てくれたのに、今は、お兄ちゃんは振り返らずにどんどんと離れて行く。


 もう、戻って来てはくれないのだと悟って、それでも、ずっとお兄ちゃんを呼び続けた。


「置いていかないで、お兄ちゃん……」


 自分のその声で目が覚めて、天井が見えて、ここは幼い頃から過ごした生家ではないと思い出して、さらにさっき見たものが夢ではなく現実だと思い出して、涙が溢れていた。


 ノロノロと、重たい体を起こして、ベッドから出た。


 硬いベッドは疲れた体を癒してはくれないけど、原因はそれだけではない。


 鏡を覗き込むと、自分の疲れた顔が映った。


 18歳と7ヶ月。


 お兄ちゃんとお揃いだった、鳶色の瞳には翳りが見える。


 その目の下にはくっきりと濃いクマがあった。


 同じくお揃いだったオレンジ色の髪はパサパサで、艶を失って、白いものもいくつも混じっていて酷いものだ。


 半年前までは、美人ではなくても、ここまで酷い有様ではなかったのに。


 一気に20歳以上も老け込んだように見える。


 しばらく立ったまま、ボンヤリと鏡の中の自分を見つめていた。


 これは誰なんだろうと。


 どうして私はこんな所にいるのだろうと。


 着替えなければ……


 もうすぐ大奥様からの呼び出しがある。


 半年前までは赤の他人だった人に、どうしてこんなに全てを捧げて尽くさなければならないのか。


 古びたメイド服に着替えて、厨房にお湯を沸かしに行く。


 大きな桶を台車に乗せて、お湯と一緒にそれらを大奥様の部屋に運んだ。


 チリンと音を鳴らすのが聞こえたから、扉をノックして入った。


「失礼します。大奥様」


「遅い、グズ!!早くしな!!」


 すぐさま怒鳴り声が返ってきた。


 重い桶をベッドに乗せて、大奥様の足を入れる。


 さらにお湯を足したところで、


「熱い!!火傷させる気か!!」


 バンっとタライを蹴られて、床が水浸しになった。


「さっさと足を拭きな。冷えるだろ」


 言われるがままに、大奥様の足を拭く。


 そして、再び目を閉じた大奥様を起こさないように、静かに床拭きを始めた。


 どうして私はこんなことをしているんだろうって、思いながら。


 兄を失った直後で判断力が低下していたと言えばそうなのかもしれないけど、結局、これは、自分が選んでしまった結果なのだ。


 少し前に、遠く離れた場所にいる、夫となった相手に嘆願した。


 せめて、午前だけでも大奥様のお世話を使用人に分担してもらえないかと。


 でも、返ってきた手紙は、


『君が我儘を言いたくなるのは理解している。でもおばあ様が君に何かを頼むのは君のためを思ってのことだ。おばあ様の願いを叶えるように』


 といったものだった。


 そうか。


 これは、私がワガママを言っているのかと、その手紙を読んで思っていた。


 自分の感情がどこにあるのかわからなくなっていた。


 私のワガママではない、私が悪いわけではないと、怒ってもいいのか、それすら判断できなくなっていた。


 もう無理だ。


 これ以上ここにいたら、私は大奥様よりも先に死んでしまうと思っていた。


 それなら、下町で平民として朝から夜中まで働いて賃金をもらった方がマシだと。


 お金のやりくりに頭を悩ませてはいても、結婚前の生活の方がはるかに良かったのは当然のことで。


 でも、その手紙を受け取った時までは、まだ私達の結婚は愛や利益など関係無いと思っていた。


 男爵だった兄は、エスティバン・ギルメット侯爵とは戦場で知り合った友人だったそうだ。


 だから、兄から私のことを頼まれた侯爵は、天涯孤独の身となった私を妻としたと思っていた。


 でも、その日々は地獄だった。


 婚姻届に署名したその日に夫となった人は再び戦場に戻って、私達が夫婦生活をおくったのは0日で。


 エスティバンさんが私の前に現れたのは、兄の葬儀を済ませて、一人で泣いていた時だった。


 エスティバンさんから、兄は英雄で、代わりに自分が忘れ形見を守ると言われたのだ。


 これは償いでもあると。


 その時は善意の衝動と罪悪感に駆られているだけだと伝えたけど、これは君の兄の遺言でもあり、自分が家族になると言われて、兄の名前を出されて、それを受けたのが間違いだった。


 それに、その時のエスティバンさんは厳格な雰囲気を纏っていたけど、私に話しかける声音や視線が、大好きだった兄みたいなのもあって思わず縋ってしまって。


 だから婚姻届に署名だけして、男爵家の生まれ育った家を失うことになっていた私はそのまま、ギルメット侯爵家に向かった。


 これは、自分の弱さが招いた結果だ。


 私が愚かだった。


 でも、こんなところで死にたくない。


 まだ、兄の後を追うのは早い。


 そう思っていたけど、大奥様の一日のお世話が終わって部屋に戻ると、屋敷を守る騎士達の話し声が外から聞こえてきた。



「平民共が多くいる隊内の不満が爆発寸前で、それを抑えるためにただの男爵家の娘を妻にしなければならなかったのは、ギルメット様も不憫だ。あんな、パッとしない女。もっと他に、美人で金持ちの求婚者はたくさんいたのに」


「ああ。ただでさえ、男爵の死を不審に思っているやつらを引き込んだせいで苦労されているってのに」



 それらを聞いて、本当に自分がどれだけ愚かだったか知って涙が出てきた。


 私は心配されたんじゃなくて、利用されただけだったと理解して。


 そこが、心が折れた瞬間だった。






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